文章作法は人それぞれ
「都麻絵」は「岩崎都麻絵」で、わたし、「惠美子」の別ペンネームです。たまに別人格として、エッセイに遊びにきます。
都麻絵 「何をぼけっと空を眺めているの?」
惠美子 「男心と秋の空、洗濯物が乾かない」
都麻絵 「まだ昼の早い時間だから夕方前には乾くわよ」
惠美子 「そうねぇ」
都麻絵 「暗い顔していたり、愚痴や泣き言ばかり言っていたりすると、人も運も離れていくから止めときなさいって」
惠美子 「あなたも建設的な助言ができるのね、驚いた」
都麻絵 「失礼ね、お利巧さんの振りができるのはあんただけじゃないわよ」
惠美子 「お利巧さんって言うのやめてくれない?」
都麻絵 「たまにはあんたも言いたいこと言えばあ。語彙が豊かそうだから、あんたの罵詈雑言って聞いてみたいわ」
惠美子 「立ち直れなくなっても知らないよ」
都麻絵 「おお、そりゃ怖い。
そりゃそうと、フェルディナント・フォン・シーラッハの新刊が出ていたって本当?」
惠美子 「そうね。この前の新聞の書評に今年の七月に日本で刊行と出ているから、新刊というのもちょっと前のことだけど、『テロ』って戯曲で法廷ものだって」
都麻絵 「シーラッハの文章作法が珍しいと感想を持っていたじゃない?」
惠美子 「うん、ドイツ語から日本語への翻訳で、印象が変わってしまうのかとか、法曹界出身の人だから、心理描写を排して、情景、状況の描写が中心で、文章の運び方が違うのかと思っていたんだけどね」
都麻絵 「そうね、『犯罪』や『罪悪』の短編集は淡々としていて、それでいて犯罪の残酷さや人の愚かさをきっちりと書きこんでいる」
惠美子 「ナチスの犯罪が現在にもつながっている『コリーニ事件』もそうだし、やたら心情を細かく書きこまない方が犯罪に至る心理を窺わせて怖いと思わせるところがあったわ。
『禁忌』を読んだ時、もしかしたらと感じたことがあったのよ」
都麻絵 「『言語思考』と『映像思考』ってやつね?」
惠美子 「講談社から出ている『天才と発達障害――映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル――』(岡南著)って本を読んでいたのよ。
シーラッハが心理描写をしないのは、弁護士の仕事上、容疑者に先入観やら持たないようにする習い性なのかと思っていたけれど、『禁忌』の主人公が映像作家なので、もしかしたら、この作家は頭に浮かんだ映像というか、情景から文章を書き起こすタイプなのかと改めて感じたの」
都麻絵 「さもしい根性から森博嗣の『作家の収支』(幻冬舎新書)も読んでいると白状しなさい」
惠美子 「はい、読みました。それも森博嗣はその一冊しか読んだことがありません。
この建築学者さんのミステリ作家は、頭に浮かんだ映像を文章化していくと、そのエッセイに書いていました。
だから、『映像思考』の持ち主は割合として少ないかも知れないけれど、珍しい存在ではないんじゃないかと思いました」
都麻絵 「はい、よく白状しました」
惠美子 「『言語』や『聴覚』から文章を書き起こす例はこれまで読んだことがある訳よ。黙読が専らとなってからのページ作りを意識し始めた、これは京極夏彦がレイアウトに注目した紙面にしようとしているのが代表なのかしらん。朗読が多かった時代は勿論、識字率の低かった時代のお芝居の台詞、『聴覚』からの文章、というのもあるし」
都麻絵 「あんたみたいにリアリティにこだわり過ぎて詰まんないのもあるしねえ」
惠美子 「一言多いわよ。仕方ないでしょ、細部が気になるし、雰囲気で誤魔化せない性分なの! だいたい小道具にいつからテレフォンカード、ポケベル、携帯電話、スマートフォンと分けて書くかと、現代ものは頭痛いわよ」
都麻絵 「そういうツールを出さなきゃいいのよ」
惠美子 「そうかもね」
都麻絵 「資料を読まなきゃ、或いはある程度経験がなければフィクションにリアリティが出ないなんて屁理屈こねててもしょーがないし」
惠美子 「あなたの言っているのは間違っていないですよ。でも人間、性分というものがありますからね。わたしは感性鋭い人間じゃないですから、知識を得たい欲求もあるし、積み重ねを大事にしたいんです。それにお話を支えるのには文章だけではなく、裏打ちするものがなければ厚みが出てこないと思うから」
都麻絵 「それでいいんじゃないの? トッピで、ブラックな話が浮かんだら、わたしが執筆すると担当分けで」
惠美子 「じゃ、そうゆうことで、ここら辺で終わりにしましょう」
都麻絵 「そうしましょ」
フェルディナント・フォン・シーラッハの著作は東京創元社より刊行されています。




