第6話
それから数日。カミラは毎日着替えて、部屋に運ばれてくる食事を食べ、読書をして、講師であるクラリス・モントからこの国の礼儀や歴史の授業を受けて、一日を終える日々を送っていた。
「……ですから、シントレア王国では、身分に応じた振る舞いが何よりも重んじられます。相手が自分より上位であるのか、下位であるのか。それを見誤ることは、自分の立場を危うくすることにもつながります」
「はい」
カミラはクラリスの言葉を、必死に紙へ書き留めていた。
シントレアの礼儀は、エミリスワンのものとはまるで違う。エミリスワンでは、いくら王族であっても父とも気軽に話し、市井の人たちと一緒に雪かきをし、困っている人がいれば手を貸す。それがカミラにとっては当たり前だった。
しかしこの国では、そんなことはありえないことのようだ。王族には王族の振る舞いがあり、貴族には貴族の振る舞いがあり、使用人には使用人の振る舞いがある。その線を越えることは、親しみではなく無作法になるのだと、講師は何度も教えてくれた。
(なんだか、その感覚が肌になじまないな……頭では理解できるけど、できる気がしない……)
覚えなくてはならないことが多すぎる。カーテシーの角度、視線の伏せ方、返事をする間合い、名前を呼ぶ順番、同じ部屋にいる者の立場によって変わる言葉遣い。どれも異国に来たからには守るべき大切な文化であることはわかる。ここで生きていくためには、必要な知識なのだろう。しかし、本当の意味でその振る舞いを身につけられるのは、まだ遠い先の未来のような気がした。
「カミラ様」
「あ……はい!」
「今、少し上の空でしたね」
「すみません……」
カミラが素直に頭を下げると、講師は小さく息を吐いた。
「頭を下げすぎです。あなたはヴィンセント様の婚約者でいらっしゃいます。必要以上に腰を低くするのは、あなたのお立場に傷をつけることになります」
「あ……そうでした。ごめんなさい」
「その謝罪も、多すぎます」
「すみま……あっ」
また謝りかけてしまい、カミラは慌てて口を押さえた。講師は困ったような顔をしたが、怒っているわけではなさそうだった。むしろ、どう教えればいいのか迷っているようにも見える。
「カミラ様は、もともとよく人に謝る方なのですね」
「そう、でしょうか……?」
「ええ。素直に謝罪できる、その姿勢自体は美徳です。ですがこの国では、相手に軽んじられてもいい理由にもなりえます。ご自分を低く見せすぎないよう、お気をつけください」
「はい。気をつけます」
そう答えたところで、ドアが控えめにノックされた。講師が返事をすると、リーサが入ってくる。茶器ののったお盆とお菓子が乗ったカートを押してやってきた。
「失礼いたします。ずっとお勉強の時間が続いておりますので、少し休憩されませんか?」
「ありがとうございます、リーサさん」
カミラは立ち上がり、いつもの癖でリーサのそばへ歩み寄った。
「これ、みなさん同じ紅茶ですか? あれ、カップが足りないですね……」
「えっ?」
リーサが目を丸くする。その横で、講師もわずかに表情をこわばらせた。
茶器は1つ、カップは2つしかなく、カミラは少し考えて自分と講師のぶんであってリーサは自分の分は用意していないのだとわかった。
「あ、もしかしてこれ……」
「ええ、私の分は不要でございますよ。カミラ様と、講師の先生の分です」
「そう、ですよね……」
エミリスワンでメイドも父もみんなでお茶を飲んだのが懐かしい。その日々がもうあんなに遠い日のことのように思えて、カミラはついぽろりと言葉をこぼした。
「エミリスワンでは……よく、みんなでお茶を飲んでいたんです」
その言葉に、リーサとクラリスは少しだけ目を見合わせた。そしてクラリスが尋ねてくる。
「みんなで、というのは?」
「お父様も、私も、メイドも、城下から来た人たちも。雪かきのあとなんかは、温かいお茶を飲まないと身体が冷えてしまいますから」
言いながら、カミラは少し郷愁にかられた。ここはエミリスワンではない。シントレアだ。自分の国の習慣を持ち込むのは、よくないことかもしれない。
それでも、身分で縛られてしまうこの国の中では、苦しすぎて生きができないような気がする。
「あの……もちろん、シントレアでは違うのだとわかっています。ただ、リーサさんもずっと立っていて疲れるでしょうし、せめてこの部屋の中でくらい、一緒に休憩できませんか?」
「カミラ様……お気持ちは嬉しいのですが……」
リーサは困ったように微笑んだ。クラリスも、その願いを断るべきか、受けるべきか迷っているのがわかる。
「だって、リーサさんのほうがよっぽど働いて疲れていませんか? ずっと座って勉強してる私より……疲れは、身分に関係なく感じると思うんです」
「カミラ様」
「はい……」
クラリスの言葉で、カミラは小さく萎縮した。叱られる、と思ったがクラリスの表情は優しい。
「本来であれば、おすすめできることではありません」
「……そう、ですよね」
「ですが、ここはカミラ様のお部屋です。外から人目があるわけでもありませんし、休憩の間だけであれば、私が許可したことにいたしましょう」
「えっ……本当ですか?」
カミラは思わず顔を明るくした。リーサは驚いたように講師を見る。
「クラリス先生、よろしいのですか?」
「ええ。ただし、この部屋の中だけです。外でなされば、リーサが叱責を受けることになりますからね。カミラ様も、その点はよく覚えておいてください」
「はい! リーサさんに迷惑はかけません!」
「でしたら、今だけはよろしいでしょう。リーサ、あなたの分のカップを持っていらっしゃい」
「……かしこまりました」
リーサは少し困ったようにしながらも、どこか嬉しそうに部屋を出ていった。
ほどなくして戻ってきたリーサは、自分の分のカップを持っていた。カミラはそれを見て、ほっとする。三人でテーブルを囲むと、部屋の空気が少しだけやわらかくなった。
「リーサさん、このお菓子は何ですか?」
「はちみつとナッツを使った焼き菓子でございます。シントレアでは、休憩のときによく出されるものです」
「へぇ、そうなんですね! 美味しそうです。クラリス先生も、こういうものをよく召し上がるんですか?」
「ええ。もっとも、授業中に生徒とメイドと三人でいただくのは初めてですが」
「あっ……すみません」
「謝らなくてよろしいのですよ、カミラ様」
クラリスはそう言って、ほんの少しだけ笑った。
「あなたの国のことを知るには、こういう時間も必要なのでしょう。私にとっても、よい勉強になります」
その言葉に、カミラは胸が温かくなるのを感じた。シントレアの礼儀は難しい。しかし、エミリスワンのすべてを拒まれているわけではないのかもしれない。そう思うだけで、少し息がしやすくなったように感じられた。
その翌日。午前の授業を終えたあと、カミラはリーサとともに中庭を散歩していた。
シントレアの城には、いくつもの庭がある。その一つは、城の中央に作られた中庭で、石畳の小道を囲むように低木と花壇が整えられていた。エミリスワンではまだ雪の下に眠っているような草花も、ここでは早くもつぼみをつけている。
「わぁ……シントレアは、やっぱり暖かいんですね」
「ええ。カミラ様の国よりは、春が早く来ます」
「エミリスワンでは、この時期はまだ山に入れません。雪が木からどっさり落ちてきて、埋まってしまうと危ないので」
「山ですか? 狩猟でもなさるのです?」
この国のメイドであるリーサは、貴族以上の立場の人間が山に入る理由といえば、遊興としての狩猟くらいしか思い浮かばないらしい。
「あ、それもたまにはするんですけど……私たちは、ベリーを摘んだり、山菜を採ったりするんです。あと、自分たちで食べるために猪や鹿を獲る人たちもいます。春が近づいてくると、みんなそわそわするんですよ!」
「カミラ様も、庶民の方々と一緒に山へ入られるのですか?」
「はい。クレールおばさんたちと一緒にベリーを摘みに行ったり、山菜の名前を教えてもらったりします。獣を獲るのは、腕の立つ人たちに任せていますけど」
「庶民の方々も、猪や鹿を獲ってよろしいのですか?」
「はい、もちろんです。獲りすぎないように決まりはありますけど、山の恵みはみんなで分けるものなので」




