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第二章 影


翌朝。

アレクサンドル・イリイチ・アルセーニエフは、

ベッドの上に置かれた白いシュミーズとステイズを、

しばらく無言で見つめていた。


挿絵(By みてみん)


マーシャはいない。

母親の様子を見るため、実家へ戻っている。

いつもなら何か一言くらい言われるところだ。

だが今日は、

完全に一人。

昨夜。

女帝陛下――少なくとも、そう見えた人物――から命じられた。

次の会まで。

毎日。

仕事中も。

男物の服の下へ、

婦人用のシュミーズとステイズを身につけること。

さらに、

普段の男性用下着ではなく、

より女性側の基礎衣類構成へ寄せること。

冗談ではない。

だが命令。

だから従う。

今回渡されたステイズは少し特殊だった。

背中側の編み上げは、

すでにアレクサンドルの身体へ合わせて調整されている。

毎回大きく緩めたり締めたりする必要はない。

そして前側にも編み上げがある。

日常的な着脱は、

そこを使えば一人でできる。

前日、

女官が説明していた。


女官「背中側はこのままで結構でございます。普段は前だけで」

アレクサンドル「つまり、一人でも着ろと」

女官「はい」

アレクサンドル「着られないという言い訳は」

女官「なさらないように、と」

アレクサンドル「……よくできていますね」

女官「ありがとうございます」

アレクサンドル「褒めていません」


シュミーズをかぶる。

肌に触れる感覚。

いつもの男物とは違う。

その上から、

ステイズ。

前を締める。

少しずつ。

胴が固定される。

姿勢が変わる。

腰を曲げにくい。

胸郭の動きまで違う。

それから、

女性側に寄せた下半身の基礎衣類。

普段の男性用下着は使わない。

違和感しかない。

その上から。

いつもの男物。

シャツ。

ブリーチズ。

胴着。

上着。

剣。

鏡を見る。

いつものアレクサンドルだった。

外見だけなら。

歩く。

廊下。

階段。

外。

妙な感覚。

姿勢が良すぎる。

背筋が伸びる。

角を曲がる時、

身体をひねる量が少なくなる。

そして。

馬車を避けた瞬間。

左手が、

存在しないスカートを持ち上げようとした。


アレクサンドル「…………」


止まる。

自分の手を見る。


アレクサンドル「何をしてる」


当然、

スカートなどない。

ただの男物。

だが身体は、

別の何かを覚え始めている。

衣装の記憶。

女性役の記憶。

それが、

勝手に出てくる。

その日。

アレクサンドルは、

国家機密盗難事件の実務担当と引き合わされた。

男は三十前後。

派手さはない。

実務的。

顔立ちも地味。

だが、

目だけは鋭い。


男「セルゲイ・アンドレーエヴィチ・コローヴィンです」

アレクサンドル「アレクサンドル・イリイチ・アルセーニエフ」

コローヴィン「存じています」

アレクサンドル「こちらは存じません」

コローヴィン「そのくらいでちょうどいいでしょう」


口調も淡々としている。

こういう人間の方が、

こういう仕事には向いている。


コローヴィン「正直に申し上げます」

アレクサンドル「何を」

コローヴィン「なぜあなたが選ばれたのか、私も全部は聞いていません」

アレクサンドル「安心しました」

コローヴィン「ただ」


書類を見る。


コローヴィン「衣装」

アレクサンドル「はい」

コローヴィン「化粧」

アレクサンドル「はい」

コローヴィン「男女双方の宮廷服」

アレクサンドル「はい」

コローヴィン「変装に近い技能」

アレクサンドル「……はい」

コローヴィン「その辺りが役に立つらしいです」

アレクサンドル「嫌な役立ち方ですね」


証言書。

見る。

犯人らしき人物の外見。

若い男。

若い女。

中年の男。

金髪の女。

黒髪の青年。

老いた使用人。

全部違う。

だが。

出入りした時間。

経路。

目撃場所。

妙に重なる。


コローヴィン「複数人でしょうか」

アレクサンドル「それなら簡単です」

コローヴィン「一人だと?」

アレクサンドル「分かりません。ただ」


証言を並べる。


アレクサンドル「衣装を変えているだけなら、説明できるものが多い」

コローヴィン「女にも?」

アレクサンドル「できます」


自分ができる。

それを思い出す。

少し嫌になる。

目撃者の一人が言った。


目撃者「影みたいだった」

コローヴィン「影?」

目撃者「見たと思ったら、次には別の顔なんだ。影が壁を移るみたいに」


それで。

捜査側は仮の呼び名をつけた。

Тень。

チェーニ。

影。

本人の名ではない。

こちらが勝手につけただけ。

捜査は地味だった。

商人。

馬車の御者。

門番。

宿屋。

仕立屋。

鬘師。

化粧品を扱う者。

片っ端から聞く。

ある仕立屋。


仕立屋「妙な客なら来ましたよ」

コローヴィン「どんな?」

仕立屋「男物と女物、両方」

アレクサンドル「同じ人が?」

仕立屋「ええ」

アレクサンドル「体格は」

仕立屋「同じくらい」

コローヴィン「男と女で?」

仕立屋「だから妙なんです」


さらに。


仕立屋「右手の指に傷がありました」


アレクサンドルとコローヴィンが見る。


コローヴィン「両方?」

仕立屋「ええ。男の時も。女の時も」


重要な手掛かり。

そう思った。

この時は。

小さな借家。

チェーニが使った可能性のある場所。

中。

男物。

女物。

靴。

鬘。

化粧道具。

詰め物。

仕立て道具。

アレクサンドルは眺める。


アレクサンドル「同じ人間が使っていた可能性は高い」

コローヴィン「どうして」

アレクサンドル「身体の見せ方を変えるための道具が揃いすぎている」


肩。

胸。

腰。

姿勢。

髪。

全部変えられる。

それを知っている。

自分が何度もやられているから。

さらに奥。

箱。

薬。

乾燥した植物。

鉱物の粉。

妙な図。

男と女が一つになったような人物。

太陽。

月。

意味不明の記号。

そして。

紙の端に。

Rebis。

と書かれていた。


コローヴィン「読めます?」

アレクサンドル「いや」

コローヴィン「錬金術?」

アレクサンドル「それすら分からない」


持ち帰る。

専門家へ。

今は意味不明。

その時。

コローヴィンが一枚の白い布を持ち上げた。


コローヴィン「これは」

アレクサンドル「シュミーズ」

コローヴィン「女性用?」

アレクサンドル「そうです」

コローヴィン「もし同じ人間が男と女を素早く行き来するなら」


少し考える。


コローヴィン「男物の下に、最初からこういうものを着てたりして」


アレクサンドルが止まる。


コローヴィン「いや」


笑う。


コローヴィン「さすがに変ですよね。男物の下に女物の基礎衣類なんて」

アレクサンドル「…………」

コローヴィン「どうしました?」

アレクサンドル「暑い」

コローヴィン「今日、寒いですよ」

アレクサンドル「俺は暑いんです」


夕方。

路地。

灰色の外套。

細身。

右手。

傷。


アレクサンドル「あいつだ」


走る。


コローヴィン「待て!」


追う。

ステイズが邪魔。

腰を捻りにくい。

息が浅い。


アレクサンドル「くそっ」


それでも追う。

行き止まり。

相手が振り向く。

若い女。

いや。

男。

分からない。

美しい。

中性的。

近くで見れば見るほど、

どちらとも言い切れない。


コローヴィン「チェーニ」


相手が首を傾げる。


???「何です、それ」

コローヴィン「お前の呼び名だ」

???「勝手につけたんですか」


声。

女。

次の瞬間。

低くなる。

男とも女とも取れる声。


チェーニ「趣味が悪いですね」


初めて。

本人へ名前が届いた。


アレクサンドル「盗んだ文書はどこだ」

チェーニ「何のことでしょう」

コローヴィン「生け捕りだ。逃げても無駄だ」

チェーニ「それは怖い」


笑う。

そして。

アレクサンドルを見る。


チェーニ「でも」


視線。

胸元。

腰。

姿勢。


チェーニ「姿勢が綺麗ですね」


アレクサンドルの顔が変わる。

まさか。

服の下まで。

分かるのか。

逃げる。

外套。

隠し扉。

狭い通路。

チェーニは外套を脱ぎ捨てる。

中から別の姿。

人混み。

男物の服。

帽子。

群衆。

どれだ。

分からない。

遠く。

一人の男が。

振り返る。

手を上げる。

笑う。

消える。

その夜。

宿。

男物を脱ぐ。

シュミーズ。

ステイズ。

前の編み上げを緩める。

一人で外す。

ようやく。

身体が自由になる。

はず。

椅子へ座る。

その瞬間。

左手が、

存在しないスカートを払った。


アレクサンドル「…………」


外した。

もう着ていない。

それなのに。

身体だけが、

覚えている。

チェーニ。

Rebis。

男。

女。

服。

姿勢。

声。

アレクサンドルは、

まだ思っていた。

服を脱げば。

この違和感も。

そのうち終わる。

少なくとも。

この時は。


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