291 イルーシヴ・ハンター ④
黒鳥族の異変を感じ取り、シラーを伴ってノクス=アステールへ駆け付けたルーファスは、ウルル=カンザスの治療を終えてその屋敷内にある医務室に移動していました。族長と共に意識を失って倒れていた側近モモス=ノイガンの謝罪を受けつつも、黒鳥族の全滅という最悪の事態を免れたことにホッと安堵しますが…?
【 第二百九十一話 イルーシヴ・ハンター ④ 】
「――多大なるご迷惑をおかけして、誠に申し訳ありません。」
黒鳥族の守りを担う『鉄壁隊』の隊長であり、ウルル=カンザスの最側近である忠実な臣下〝モモス=ノイガン〟は、ウルルの屋敷内にある医務室にて正座をした状態から両手を着き、床に額を擦りつけるようにしてルーファスに謝罪する。
「なんて格好をしているんだ、謝罪は要らない。頭を上げろ、モモス=ノイガン。」
そのルーファスは以前過去でマリーウェザーにも使用されていた治療機器の傍らに立ち、中で眠るウルル=カンザスの容態を深刻な顔で見ていた。
――黒鳥族の異変に気付きシラーを連れてノクス=アステールへ駆け付けた俺は、執務室に倒れていたウルルさんとモモス=ノイガンを見つけ、すぐに魔法での治療に取りかかった。
その際仮死状態だったウルルさんの身体を解析魔法『アナライズ』で隈なく調べると、程なく体内に未知の毒素を発見した。
それは神経を麻痺させることで動けなくし、後は徐々に体内の臓器へとゆっくり影響を及ぼす類いのもので、摂取した直後に呼吸は止まり酸欠から仮死状態へ移行したとしても、最終的に死に至るまでは時間を要するタイプの神経毒だった。
こう言った危険な毒を持つ生物や魔物は多いが、なぜ未知なのかというと、大半の毒に効果のある解毒剤や浄化魔法では全く取り除くことができなかったからだ。
そこで俺は自己管理システムを駆使して複数魔法を同時発動し、先に毒素の分解解析と変質を行って浄化魔法で取り除けるようにしてから、ようやく解毒したのだった。
そのことからモモス=ノイガンや黒鳥族の医師が倒れていなかったとしても、短時間で治療するのはかなり困難だったことだろう。
偶々ギルドにいて一族の男性が倒れたところに居合わせたから良かったが、普段のように街の外へ出かけていて気付くのが遅くなっていたら、最悪の場合ウルルさんは命を落として黒鳥族は全滅していたかもしれなかった。
そう考えるだけで心底ゾッとする。
ウルルさんは守護七聖でなくとも仲間であり、俺にとってかけがえのない存在であると同時に大切な友人でもある。
魔物駆除協会云々の前に、そのウルルさんを失うなど想像するのも御免だ。
――まさか一族の全滅に直結する〝長の死〟以外にも、仮死状態でこんなことになるとは…熟々黒鳥族は特殊な一族だ。
解毒は済んで仮死状態から復活し、呼吸が止まっていた間に受けた身体のダメージは治癒魔法で全て癒した。
倒れた原因が原因だから、念のためにモモス=ノイガンの手を借りて治療器に寝かせたけど…もう命に別状はないだろう。
本当に良かった…
「あなた達の意識は無事に戻ったから、じきにウルルさんも目を覚ますだろう。一時はどうなることかと思ったが、最悪の事態は免れてホッとしたよ。…ところで気分はどうだ?どこか身体に違和感が残っていたり、おかしなところはないか?」
「は、全くなにも問題ありません。此度も我ら黒鳥族をお救い頂き、心より感謝致します。」
モモス=ノイガンは一度頭を上げたものの、正座をしたまま握った両手を膝の上に置き、ピシッと背筋を伸ばしてもう一度深々と頭を下げた。
執務室でウルルさんと一緒に倒れていたモモス=ノイガンは、ウルルさんの解毒が済み仮死状態から脱した時点ですぐに目を覚ました。
それは他の黒鳥族も同様だったらしく、まだ治療が終わる前に屋敷内は騒然としだし、外からは女性の悲鳴や慌てふためく大勢の声が聞こえていた。
中でも普段から傍にいるであろうモモス=ノイガンの動揺は一際大きく、その混乱と狼狽えぶりは凄まじかった。
それも無理はない。一体なにがあったのかはこれから話を聞くつもりだが、恐らくなにが起きたのかもわからないままに突然意識を失った挙げ句、次に気づいたら目の前に俺がいて、ウルルさんに治癒魔法をかけていたのだから当然だろう。
「もういいから立て、俺は当たり前のことをしただけだ。それよりウルルさんになにがあったのか、気を失う直前のことをなにか覚えていないか?」
「はい、それが…」
出だしモモス=ノイガンは普段通りに仕事をしていただけで、すぐに思い当たることはない、と言った。
彼の話によると、ウルルさんは数時間前に強化共鳴石で俺との話を終えた後はギルドに関する仕事をしており、遣い鳥から報告を受けたり積み上がった書類に目を通したりといつもと変わりなく忙しそうに働いていたそうだ。
「体調も特にお変わりなく、倒れられる直前までルーファス様とシルヴァンティス殿の話をされておられました。」
「つまり会話からはなにも気づけなかったと言うことか…ならばあなたと話をしている間、ウルルさんはどうしていた?」
「…は?…と仰いますと?」
質問の意図がわからなかったのか、モモス=ノイガンは首を傾げる。
「ただ執務室の机に向かって椅子に座り書類を手にして見ていただけなのか、立ってなにか別の作業をしながら話をしていたのか…そういう意味の質問だ。座っていたのなら椅子のすぐ傍に倒れていたはずだが、ウルルさんがあなたと重なるようにして倒れていたのは、机の前だったろう。」
「――そう言えば…」
モモス=ノイガンは記憶を辿る。
「長はあの時…なにかに気づいて、席を立って急に近付いて来られたのです。そして私の衣服へ手を伸ばし、〝なんだこれは…なぜこんなものがここに?〟と独り言を呟かれた直後に〝あっ!〟と声を上げてそのまま倒れました。」
「あなたの服に手を伸ばした?」
――彼の服になにか付いていたのか?
俺は立ち上がったモモス=ノイガンの全身を、上から下まで一通り視線を走らせて眺めた。
黒鳥族の外出着は軽装に黒い羽のような上着で身を包むのが基本スタイルだが、集落の中では襟を交互に重ね合わせた腿丈の上衣を腰紐で留め、少し膨らんだ形のボトムスを脹ら脛で窄めて編み紐で結んだ物を穿いている。
「その服は着替えたか?」
「いえ、今朝からそのままです。」
「そうか…それなら少しじっとしていろ、俺が詳しく調べてみるから。」
「は、かしこまりました。」
モモス=ノイガンのこの服に、ウルルさんはなにを見つけたんだろう?
俺は背筋を伸ばして直立するモモス=ノイガンを見て、その周りをゆっくり移動しながら目を凝らしてよく調べてみた。
「!」
すると光の加減でキラリと光る線状に見えるものが、肩から胸の辺りにかけて付着していた。
「ルーファス様?」
「動くな、あなたの服になにか付いている。…これは――」
指先でそれを抓むと空気の流れに靡いてふわりと浮き、俺の右腕の産毛にぺたりと纏わり付いた。
その嫌な感触に、思わず振り払いたくなる不快感を抱く。
「――見えるか?これは蜘蛛の糸だ。」
とても細く、明かりに光らなければ目に付きにくい蜘蛛の銀糸。どこにでもいる小さな蜘蛛が当たり前に巣を張るのに使うあれだ。
これから状況を推測するに、ウルルさんはモモス=ノイガンの服に潜んでいた毒蜘蛛にでも嚙まれたとか?…うーん、ちょっとそれは考え難いような…
「ノクス=アステールに神経毒を持つ危険な蜘蛛は生息しているか?」
俺の問いにモモス=ノイガンは目を丸くする。
「いえいえ、おりません!蜘蛛の類いは小さな物でも人の掌ほどあります。それにガサガサと大きな音を立てて動くので、身体についていればさすがに気づきます…!」
「なるほど…だが恐らくウルルさんが手を伸ばした理由はこれだろう。あなたの服に付いている蜘蛛の糸が光の加減で光ったから気がついたんだ。」
「確かにそうかもしれません…外へ出て草地に足を踏み入れたわけでもないのに、服に蜘蛛の糸が付着するなど、このノクス=アステールではありませんので。」
「?…でも蜘蛛は普通にいるんだろう?」
それなら蜘蛛の糸が服に付いてもおかしくないんじゃないのか、そう思う俺にモモス=ノイガンは少し躊躇うように間を置いてから答えた。
「…ノクス=アステールの植物は特殊です。宵闇の中でも僅かな人工の光で光合成を行えるよう、かつてのルーファス様が改良してくださったものばかりなのです。それだけに植物に生息する虫の類いも種類が極限られており、特にこの里内にはそれらを食す蜘蛛はおりません。」
「!」
集落の中に蜘蛛はいない?
――その時治療器の通知音が鳴り、透明な硝子様の蓋がプシュッと音を立てて自動で開いた。
ウルルさんが目を覚ましたのだ。
「族長!」
「ウルルさん!」
傍による俺とモモス=ノイガンを見て、ウルルさんは大きく目を見開く。
「私は…ル、ルーファス様…!」
そして慌てて身体を起こすとサアッと顔色を変えた。
「ルーファス様、まさか私はまたルーファス様に命を救って頂いたのですか…!?」
「!」
開口一番にそう言ったことに驚いた。どうやらウルルさんは、薄らとでも自分の身に起きた命の危機に気がついていたみたいだ。
「俺がここで見た時には仮死状態だった。来るのがもっと遅ければもしかしたら助からなかったかもしれない。」
「も…申し訳ありません!!モモス=ノイガンが私めの危急を知らせたのですね、このようなことでノクス=アステールへお呼び致すなど――」
そう言って真っ先に頭を下げようとするウルルさんに、俺は即遮って返した。
「違う、そうじゃない。俺はモナルカのギルドにいてあなたの異変に気付き、メンバーのシラーを伴って急いで駆け付けたんだ。」
「…?」
俺の説明にウルルさんは困惑したように首を捻った。
自分の命の危険には気がついていても、その影響が一族に及んだことまでは思い至らないのか。
つまりウルルさんにとっても、こんな事態は丸きり初めてだと言うことだ。
「そこまでの自覚はなかったのか…ウルルさん、あなたが仮死状態に陥ったことで、一族全員が同時に意識を失って一斉に倒れたんだ。」
「…え…?」
ウルルさんは俺がなにを言っているのかわからない、と言うように口を開けて目を見開く。
「モナルカのギルド支部で多分仕事中だったんだと思うが、黒鳥族の男性が突然倒れ、窓口内で人族の協会員に姿を晒していた。偶々近くにいた俺はちょうどその事態に遭遇し、始めはその一人だけなのかと思っていたんだが…黒鳥族の存在を隠すために俺の名で全ハンターと協会員に口外しないよう緊急通達を出したら、世界中で同様の事件が起きていると知らされたんだ。――そうなればあなたの身になにか起きたと言う以外に、原因は考えられないだろう。だから急いで駆け付けたんだよ。」
「な…」
ウルルさんは俺の話を聞いて全てを悟ったのか、薄青い肌を白く変えてカタカタ震え出した。
「で…、では、魔物駆除協会は…これから暗黒神が復活しようというこの時になって、人族の信用を失うような事態に――?」
自分や一族の身よりも、真っ先にそれを心配するのか…
「大丈夫だ、そんなことにはならない。これまで千年もの間ギルドを守り、誰に知られなくても影で魔物から人を守ってきた黒鳥族について、真実を告げることはあれど守られてきた側の人族に好きなことは言わせないよ。」
「わ、私が申し上げたいのは我が一族のことなどではありません!選りにも選ってここまで来て、この私がルーファス様の足を引っ張るなど…っ」
「落ち着け、ウルル=カンザス。俺は〝大丈夫〟だと言っているんだ。」
「…ルーファス様…っ」
――そのあまりの狼狽ぶりに、俺は驚いた。
いつものように〝気にするな〟と言ったぐらいじゃ駄目だと感じるほど、ウルルさんは死にそうな顔をして、仮死状態にあった時よりも状態が悪くなったように見えた。
こんなウルルさんは初めて見る…ここまで責任を感じて思い詰めるのは、ウルルさんにとって魔物駆除協会を守ることが生き甲斐になっているからだろう。
それだけでもこの現代に備えて、長い間どれほど努力してくれたかがよくわかる。
「今後なにか問題が起きたとしても、これまで通り協力して一つ一つ対処すればいいんだ。始まりは俺と七聖による駆除組織の素案からだったかもしれないが、実際にギルドをここまで大きくして育てたのはあなたと黒鳥族だ。それを誇りに思い、自信を持て。俺はあなたに感謝しこそすれ、決して足を引っ張るなどと思うことはない。そして俺はこれからもあなたを頼りにしているんだ、ウルル=カンザス。」
「…っ――はい…、はい、かしこまりました…っ」
気を取り直してしっかりと二度頷きながら返事をしたウルルさんに、俺はとりあえず安堵する。
「それじゃあウルルさん、身体が大丈夫そうなら倒れた時の状況を聞かせてくれないか。モモス=ノイガンからも今話を聞いていたんだけど、あなたは彼の衣服にこの蜘蛛の糸が付いているのを見つけたんじゃないか?」
俺はモモス=ノイガンの服から今し方取ったばかりの銀糸を見せた。
「それは…!はい、その通りです、ルーファス様。よく御存知で…」
ウルルさんは集落内にいないはずの蜘蛛の糸がモモス=ノイガンの服に付いているのを見つけ、なぜこんなものがここにあるのか、と不思議に思ったんだそうだ。
「そうしてよく確かめようと手を伸ばした時、豆粒よりも小さな白い蜘蛛がモモス=ノイガンの服の物入れから飛び出して来て、いきなり私の指先に噛みついたのです。」
「「!?」」
白い蜘蛛!?
鋭い痛みを感じて見たことのない妙な蜘蛛に噛まれた、と思った直後、数秒と経たずに突然呼吸が出来なくなったウルルさんは、蜘蛛に噛まれたとモモス=ノイガンに伝える間もなく意識を失ってしまったのだという。
衣服のポケットに隠れられるぐらいだ、相当小さなものだろう。ウルルさんは噛まれたことでその蜘蛛の持つ神経毒に冒されたんだ。
それもここにいるはずのない、〝白い〟蜘蛛に。
――運命神フェイトの眷属である可能性が高いと思っていたのは、モナルカでカイゼリンとシラーが見た『白銀の蜘蛛』だが…小さくてそんな一瞬だけなら白だと思っても不思議はない。
白銀の蜘蛛が使役する小蜘蛛か?それともその蜘蛛自体が自在に大きさを変えられるのか…もしそうだとするのなら、ウルルさんを襲ったのは『介入者』であるフェイト神だろう。
ウルルさん達黒鳥族は、フェリューテラにおける人族の対魔物組織『魔物駆除協会』の要だ。
黒鳥族を失えばギルド自体が立ち行かなくなるとわかっていて狙った場合、俺の敵だという明確な意思表示になる。
…だとするとリヴとカイゼリンを襲ったのも、ゲデヒトニスの言うようにやはりフェイトなのかもしれない。
「直ちに屋敷内を捜索させます!そのように危険な蜘蛛が徘徊しているのなら、再び被害が出かねません!!」
驚いたモモス=ノイガンは慌てた様子で医務室を出て行こうとしたが、俺はそれを引き止めた。
「待て、モモス=ノイガン。慌てなくても大丈夫だ、敵対存在の捜索なら俺が空間認識魔法を使用して既に済ませた。」
「!」
「今の話を聞いて〝白い蜘蛛〟を対象に指定し、もう一度捜索魔法を放ってみたが引っかかる存在はいない。――既にノクス=アステールを去ったんだろう。」
「ルーファス様にはなにかお心当たりが?」
「…ああ。できるだけ俺達以外は巻き込みたくなくて黙っていたんだが…俺が今必死になって探している相手と関係があるんだ。ウルルさんを噛んだその蜘蛛も、もしかしたらそれ絡みかもしれない。」
「なんと…」
俺の話を聞いたウルルさんは驚いて言葉を失い、モモス=ノイガンは少しの間考えるようにして入口で迷っていたが、間を置いて返した。
「…ご事情については承知致しました。ですが鉄壁隊として再度屋敷内の捜索は致します。族長の命を救って頂いた上に、なにもかもをルーファス様に頼っていたのでは黒鳥族の名が廃れましょう。」
「モモス=ノイガン、ルーファス様に無礼な態度を取るでないぞ!」
「いや、それでいい。自分達で隈なく捜索をし、確かにいないと納得すればみんなも安心できるだろう。それと悪いが一つ頼まれてくれ。外に俺が連れて来たSランク級守護者のシラー・カカリアがいるはずだ。シルヴァン達と連絡がついたか尋ねてみてくれないか?」
「御意。」
そしてモモス=ノイガンは足早に医務室から出て行った。
「申し訳ありませぬ、あれは心配性で…」
「余計なことを言ったとは思わないが、なにも止める必要はなかったな。見つからず不安に怯えるよりはいいと思って言ったけど、さすがは鉄壁隊の隊長だ。」
「お誉めに与り光栄です。」
そう言ってウルルさんはまた頭を下げた。そして顔を上げたその時、俺の目に額に埋め込まれている白い宝石が映る。
――そう言えば仮死状態になったこの危機に、『光石』は効果を発揮しなかったみたいだな。
今回のようなケースでも役に立たなければ、一体なんのための『護り石』だかわからないじゃないか。
ある程度記憶が戻ったことで思い出したが、ウルルさんの額に埋め込まれている白い宝石は、随分昔に俺が自分の力を注いで作り出した特殊な霊力結晶で、ウルルさんが命に関わる様なダメージを負った際には身代わりとなって砕け散る、『護り石』だ。
今後また似たようなことがあれば、次も必ず助けられるかどうかはわからない…それならこの場で『光石』に施してある魔法にいくつか追加して、もっと守りを強化しておくことにしよう。
「ウルルさん…唐突で申し訳ないが、少しの間その額の光石に触れさせて貰ってもいいだろうか?」
「ルーファス様…?ええ、それはもちろん構いませぬが…」
「ありがとう、こんな時になんだけど、そこに刻まれている魔法紋に興味があって見せて欲しいだけだからすぐに済むよ。」
「…?」
このタイミングでは少し苦しい言い訳だが、急ぐから仕方ない。
そうして俺は治療機器に腰かけて不思議そうな顔をしているウルルさんの前に立ち、左手で後頭部を支えながら右手で額と目元を覆うような形で光石に触れさせて貰った。
同時に光石内の魔法紋を読み取り、少しずつ霊力結晶に俺の『神力』を注いで行く。
――今刻まれている魔法は通常の要因以外で死亡時に発動する『ソウルガード・サクリファイス<魂の身代わり>』のみか。
これを作った当時の俺は随分と未熟者だったみたいだな…いつ頃のことかまでははっきりしないが、ウルルさんと黒鳥族を守りたくて彼の額にこれを埋め込んだことは朧気に思い出せて来た。
この護り石はウルルさんの皮下に目には見えない微細根を張って、そこからウルルさんの余剰魔力を吸収し蓄えることで永久的に俺の魔法紋を維持している。
それによりたとえウルルさんの肉体が死期を迎え新しく生まれ変わったとしても、『転輪の儀』による記憶が受け継がれさえすれば、占有条件を満たしたことになり自動的に移動する。
この護り石はウルルさん本人や俺を含めた他人の手では決して外せないから、魔法紋をいじるにしてもこうして直接ウルルさんに触れさせて貰う必要がある。
ソウルガード・サクリファイスと発動条件はそのままにして、追加する魔法は三つが限界か…なら状態異常への完全防御と即死耐性、それから不意の攻撃に対する反射作用が優先だな。
本当は常時発動のディフェンド・ウォールやリヒール系の魔法も追加したかったところだけど…それだとウルルさんに気づかれる。
今回はともかくとして普段ならそこまでの危険はないはずだから、悪意の有る無しに関わらずあくまでもウルルさんが大きなダメージを受けるか受けないかで、自動的に発動するように設定しておこう。
少なくともこれで今回のようなことだけは二度と起きないだろう。
…よし、これでいい。
――未熟だった俺の力を注いで作った霊力結晶の『護り石』…どうかこれからもウルル=カンザスを永遠に守り続けてくれ。
俺はそんな願いを込めて魔法紋を刻み終えた。
「ありがとう、額の宝石はやっぱり『護り石』だったんだな。治療中に気になったから見せて貰った。今回のような場合では反応しなくても、ウルルさんが命を落とすと身代わりに発動する強力な防護魔法が込められているみたいだ。」
ウルルさんは小さく目を見開いてから直後に困ったような顔をして、俺に黙ってただ微苦笑している。
恐らく俺が作ったものだとは言い出せずに、なんと答えればいいのか迷っているんだろう。
ここはさっさと話題を変えた方が良さそうだ。
――そう思った時、医務室の扉をノックしてシラーの声が聞こえる。
「ルーファス様、シラーです。入ってもよろしいでしょうか?」
先にウルルさんを見て、頷くのを確かめてから返事をした。
「ああ、どうぞ。」
扉を開けて彼女は静かに入って来る。
「ギルドマスターは無事に目を覚まされたんですね、良かったです。初めまして、太陽の希望に加入したばかりのSランク級守護者、シラー・カカリアと申します。」
シラーは丁寧にお辞儀をしてウルルさんにそう挨拶をした。
「存じております。初めまして、私が黒鳥族の長であり、魔物駆除協会の管理・運営を担っているウルル=カンザスです。この度はルーファス様とシラー殿には大変なご迷惑をおかけして申し訳ありません。」
シラーは首を振り振り答えた。
「いえ…私はなにもしておりませんから、どうかお気になさらず。短い挨拶を済ませたばかりですが、至急ルーファス様にお伝えしたいことがありまして、お話しよろしいでしょうか。」
「ええ、どうぞ。もう動けますので、私は治療器から出ます。席を外しましょうか。」
「いてくれて構わないのに。」
ウルルさんは微苦笑しながら治療器から降りた。
「シルヴァン達に連絡は付いたか?」
「そのことなのですが…先程から何度共鳴石に呼びかけても、どなたからも返事はありません。サイード様、シルヴァンティス殿はもちろん、ウェンリー殿やゲデヒトニス殿にも再三呼びかけておりますが、どうも通信が遮断されているようなのです。」
「え…なんだって?そんなはずは…ウルルさん、聞こえたか?」
まだ傍にいたウルルさんはすぐに俺達の元へ戻って来る。
「はい。ルーファス様の強化共鳴石は如何ですか?」
「待て、試してみる。」
俺は普段から首に提げている強化共鳴石を取り出すと、それを使ってサイードへ呼びかけてみた。
…が、シラーの言う通り、全くなんの反応も返ってこない。
「…おかしいな、連絡するって言って来たんだけど…なんだか共鳴石自体が反応していないような感じがする。」
「――お待ちください、私の方でも遣い鳥に連絡を取ってみます。」
そう言うとウルルさんは徐に目を閉じて、その場でなにかに集中するような行動を見せた。
しかし秒後すぐに目を開いて険しい表情になる。
「これは…!」
その反応にまたなにかあったのだと嫌な予感に襲われて、俺は即尋ねた。
「どうしたんだ、なにかあったのか?」
「いえ…違います、遣い鳥と連絡が取れないのです。彼らとは共鳴石でやり取りをするのではなく、私自身の特殊能力で連絡を取りますので、このノクス=アステールが閉ざされでもしない限りそんなことはあり得ないのですが――」
「!?」
ノクス=アステールが閉ざされでもしない限り?
――まさか…
「ウルルさん、回復したばかりなのにすまないが、ギルドで意識を失った一族の面々が集落に戻ってきているか、すぐに確かめてくれないか!?」
「それなら確かめるまでもありません、私は全一族の居場所を固有能力で把握できます。ですが今日ギルドへ出向した者は、まだ誰一人として戻って来ていないようです…!」
フェリューテラで倒れた黒鳥族は誰も戻って来ていない――
「それは間違いないか?あの状況で意識が戻ったのなら、急いで集落に戻っても不思議はないのに、ただの一人もまだ帰って来ていないのか!?」
「――はい、連絡を試みておりますが…なにかに遮断されているかのように同胞へも全く私の声は届かないようです…!!」
俺はその場で焦り出したウルルさんの顔を見ながら考えた。
共鳴石での連絡も取れず、黒鳥族の出向者も戻らない…異空間であるこのノクス=アステールでそんな事態に陥るとしたなら、どんな可能性がある?
俺達の使っているのがフェリューテラ産の共鳴石なら、精霊界グリューネレイアにいる時のように通信不可能になる怖れはあるが、今各自で所持しているのはウルルさんの作った魔道具の強化共鳴石だ。
詳しい仕組みまでは聞いていないが、目には見えない自然界に存在する様々な粒子を繋ぎ合わせるようにして会話を可能にしたと言っていたから、それを遮断するには双方の繋がりを完全に断つ必要があるはずだ。
だがいくらなんでも、こことフェリューテラを隔てるのはそんな簡単じゃないだろう。
方法としてはその粒子すら通さない隔離結界を張ることができれば可能かもしれないが、どちらの対象も質量が大きすぎる。
――それでもなにか手段がある?ノクス=アステール全域は無理でも、黒鳥族の集落に限定したならどうだ?
ここには外敵を跳ね返す守護結界が張られている。元からあるそれに手を加えて隔離措置を施すのなら、俺の力でも可能になるかもしれない…!
それを確かめるには、転移魔法が使えるかどうか試してみればいい!!
「転移球…!」
俺は空間収納庫から転移球を取り出して、すぐさまきちんと使えるかどうか見てみた。
「ルーファス様、その魔道具は…!!」
「すまない、今はまだなにも聞かないでくれ。話せるようになったらその時はきちんと説明するから。ウルルさんは知っているかもしれないが、俺のこれは特別製の魔道具で、『願い屋』とでも行き来が可能なものだ。これすら使えないとなると、黒鳥族の集落に隔離結界を張られているとしか思えないんだが――」
取り出した転移球を手元で作動させてみるが、駆動はしても行き先を選択することができず、思った通り使うことはできなかった。
「!――やっぱり使えない…ウルルさん、後は誰かに集落からノクス=アステール内の外へ出られるか試して貰えないか!?」
「かしこまりました、直ちに。」
ウルルさんはその場で誰かに思念伝達かそれのようなもので伝え、外の様子を見てくるように頼んでくれたようだった。ところが…
「!――そうか、わかった。皆には騒がず家の中に留まっているよう布令を出せ。案ずるな、ここにルーファス様がおられる。まだ先程の件も説明しておらぬが、私は無事だと伝えよ。」
その会話とウルルさんの表情から、どうやら俺の予想通りの事態が起きているらしい。
「ルーファス様、一族の者に見に行かせましたが、なにか見えない壁のようなものに阻まれて、集落の外へ出られないそうです。」
「予想通りか…!」
「お待ちください、ルーファス様…一体なにが起きているのですか?」
黙って控えていたシラーは、さすがに不安になったのか尋ねて来る。
「心配するな、と言っても無理かもしれないが…どうやら俺達は、黒鳥族の集落ごと誰かの張った隔離結界に閉じ込められたらしい。」
「!!」
シラーは愕然として瞬時に両手で口元を押さえた。
――全てはまだ推測の域を出ないが、敵の目的はウルルさんを狙うことで俺をノクス=アステールに誘き寄せ、一時的にでもここに閉じ込めておくことにあったのかもしれない。
もしそうだとしても、俺はウルルさんを助けるためにどうあってもここへは来ただろうから、もしそうなら敵の作戦勝ちだ。
問題は俺を閉じ込めてなにをする気なのか、だが…
「では私達はモナルカに帰れないのですか!?」
顔色を変えたシラーに俺は首を振る。
「いや、それは大丈夫だ。多少時間はかかっても、俺なら隔離結界を内側から解除することは可能だ。」
「ええ、ルーファス様の仰る通りです。――誰の仕業かは知りませんが、この方を閉じ込めることなど厳密には不可能ですよ。」
ウルルさんの言うように本当に不可能かどうかは別にして、この前アルソスの森でケルベロスの罠に嵌まった時と違い、戦闘中なわけでもないから自己管理システムをフルに使えば十分解析することはできるだろう。
但し、今日中に帰れるかどうかは難しい。せめて誰かと連絡を取れれば無事なことは伝えられるが、それができるようになれば転移も可能になるからすぐに帰った方が早くなる。
「ウルルさん、後で結界は俺がさらに強力なのを張り直すから、一度隔離結界ごと魔法障壁を解除させて貰って構わないかな?」
ウルルさんは即答で頷く。
「もちろんです。元はと言えば私めのために駆け付けてくださったことが原因ですので、如何様にもルーファス様の思う通りになさってください。このウルル、どのようなご希望にも誠心誠意お応えし、喜んでお手伝いさせて頂きます。」
「そこまでかしこまらなくていいんだけど…でもありがとう、それじゃ早速集落内を動き回らせて貰うよ。その間シラーはここで休ませて貰うといい。」
「そんな…!私もなにかお手伝い致します!!」
「いや、悪いが手伝って貰えることはなにもないんだ。寧ろ傍にいられると気が散って集中力も落ちるから、俺のことは気にせず好きにして貰った方がいい。ノクス=アステールは夜が明けることはないが、その分珍しい物もたくさんある。この機に集落内を見て回るのもいいかもしれないぞ。」
「……わかりました。」
とてもそんな気分にはなれない、という顔をして、シラーは不満げに渋々承諾する。
それでも敵の狙いがなににせよ、できるだけ早くモナルカへ戻りたいのは俺も同じだ。
――ここまで来ると怒り心頭で腸が煮えくり返り、対峙した時にはどうなるかわからないくらいだな。
リヴとカイゼリンの襲撃に関して確信は持てないが、もし全て運命神フェイトの所業ならば、到底許せるものじゃない。
今回はどういうわけか腹を立てれば立てるほど、却って頭が冷えて行くような気がしている。
散々振り回されて困惑しているのも確かだが、探しても一向に居場所が掴めないのもその一因だろう。
とにかく一刻も早く隔離結界を解除してモナルカへ戻ろう。シルヴァンやイシーが狙われたとしても、あの二人ならきっと大丈夫だ。
ノクス=アステールに転移できないとなると、黒鳥族の戻り羽根は使えないか…心配だがどうすることもできないんだ、解除を急ごう。
俺はウルルさんの屋敷を出て集落の出口へ向かい、見えない壁があると困惑している黒鳥族に事情を話し、先ずは解析魔法で解除する方法を探しに取りかかったのだった。
*
「――…ル。…イスマイル、目を覚ませ!」
肩に触れた大きく温かな手にゆさゆさと身体を揺さぶられ、守護七聖の〝透〟イスマイル・ガラティアはゆっくり目を開けた。
「…?…シルヴァンティス?…わたくしは…」
いつの間に気を失っていたのか、彼女は土の地面ではない感触の地に手を付いて上体を起こした。
「気がついたか…気分はどうだ?身体に異常はないか。」
ホッと安堵しつつも心配そうに覗き込む見慣れたシルヴァンティスの顔に、イスマイルは記憶を辿りながら答える。
ええと…わたくしは確か、シルヴァンティスと一緒にモナルカの宿へ戻ろうとして――…それからどうしたのだったかしら…?
「ええ…、大丈夫そうですわ。…あの、シルヴァンティス…ここは一体どこですの…?」
固くつるりとした地面に斜め座りの体勢のまま辺りを見回すと、そこはどう見ても先程まで二人のいたアルソスの森入口付近の街道には見えなかった。
周囲に見えるのは石造りの四角い家々に、手で触れる感触とは異なるブロック状の石で通りの敷き詰められた遺跡のような風景。
正面の広場には大きな円形の灯火台があり、赤々と燃え上がる炎がかなりの高さまで立ち昇っていた。
視線を右方向へ動かすと神殿のような建造物もあり、その前にどこかで見たような石像が立っている。
全体的に歴史の古い印象を受ける古代遺跡のようにも感じるが、その割に所々つい最近建てられたばかりのような、真新しい建物もあった。
「そうか…イスマイルは千年を通し初めて見るのだな。――ここは我の眠っていた獣人族の隠れ里であり、一度は滅んだ『イシリ・レコア』だ。」
「!」
イシリ・レコアですって!?
「それってエヴァンニュ王国の…!?どうなっているんですの、わたくし達は遠く離れたメル・ルークにいたんですのよ?いつエヴァンニュ王国の…それも最南端に位置するラビリンスフォレスト内にあるあなたの里へ飛ばされたのですか!?」
驚くイスマイルにシルヴァンティスは短く息を吐いて返した。
「落ち着け、我も気づいたらここにいたのだ、なにが起きたのかなど覚えてはおらぬ。だが一つだけ確かなのは、目に見える風景こそイシリ・レコアに違いないが、現実とは異なる場所だと言うことだ。実際のイシリ・レコアには現在多数の獣人が住んでおり、このように蛻の殻ではない。それに空に見えるはずの結界もなければ、ルフィルディルに通じる転送陣も見当たらぬ。なによりも誰一人としておらぬのはさすがにおかしいであろう。」
「…ではここは…?」
「正解はわからぬが、少なくとも本当のイシリ・レコアではないな。景色をなにかで映し出しているだけのまやかしの場所だ。」
まやかし…
「――つまりわたくし達は知らない内に罠に嵌まったか、敵に捕らわれたんですのね。」
「…恐らくな。わざわざ人の少ないアルソスの森まで行かずとも、敵はいつでも我らを捕らえることは容易だったと言いたいのであろう。我も大概腕っ節に自信はあるが、此奴も相当だな。」
そう言うといつものように腕を組み、仁王立ちした状態でシルヴァンティスは皮肉めいた笑みを浮かべた。
「感心している場合でも笑っている場合ですらありませんわ。――その相手はどこにも姿が見えないようですけれど…わたくし達が捕らわれたのでしたら、ルー様のご命令に背くことにもなりかねませんのよ。戦わないように言われていますのに…」
困ったように頬へ手を当てて悩むイスマイルは、どうしたらモナルカへ帰れるのかしら、と溜息を吐いて呟いた。
「なに、考えるまでもなかろう。我らを捕らえたと言うことは、待っていれば敵の方から姿を見せに来るはずだ。そうなればカイゼリンの居場所を聞き出し、その正体を吐かせた上で完膚なきまでに叩きのめしてやれば良いのだ。」
「シルヴァンティス、あなた――」
その時どこか頭の上方から降って来るように、その声は聞こえてきた。
『――ほう…それはそれは大した自信じゃねえか、〝まだら髪〟。こいつは期待できそうだな。』
「「!」」
瞬時にイスマイルは立ち上がり、二人とも手元へそれぞれの武器を出現させて直ちに敵の出現に備えた。
「誰ですの!?隠れていないで、姿をお見せなさい!!」
シルヴァンティスと背中合わせに立って戦闘態勢を取り、イスマイルは姿の見えない相手へ声を張り上げる。
すると周囲のイシリ・レコアを映した景色内から、じわりと滲み出るようにしてその男は現れた。
二人はリヴグストが目を覚ます前に外出したため話も聞けず知る由もないが、この男は金と銀、黒灰色の混じった斑髪に青銀の瞳を持つ変わった髪型のリヴグストとカイゼリンを襲ったあの人物だった。
「よう、待たせたな。ちょいと野暮用で来るのが遅くなっちまったが、お望み通り姿を見せてやったぜ。」
男はリヴグストに対峙した時と異なり、既に巨大な斧を手に持って右肩に担いでいる。
「ハハ、近頃の女は皆威勢が良いねえ。眼鏡の似合う知的美女にそうやって睨まれるのも偶にはいいもんだ。」
二人のなにかを見透かすようにニヤニヤと笑みを浮かべる男は、その顔に似合わずどこにでもいるチンピラか破落戸のように見えた。
「あなた――どなた?」
人間…?なんて巨大な両刃の戦斧かしら…それをあんなに軽々担いで。顔はリヴグストと並ぶ美丈夫だけれど、シルヴァンティスと良い勝負の戦闘好きに見えるわ。
まさかこの男性がリヴグストを…?
イスマイルは警戒しつつも、軽薄そうな男に不審の目を向ける。
ところがその時、普段なら真っ先に言い返して突っ込んで行きそうなシルヴァンティスが全く声を発していないことに気がついた。
ハッとしたイスマイルは、いつの間にか自分を庇うようにして斜め左前に一歩出ていたシルヴァンティスの顔を見上げる。
…シルヴァンティス?
そのシルヴァンティスの表情は強張り、長年の付き合いの中でも彼女は見たことがないほど緊張している。
もし今彼が獣化して銀狼姿を取っていたのなら、後頭部から首の後ろ、そして背中や尻尾の先まで銀の毛を逆立てているのが見られたことだろう。
――そう、イスマイルは外見から男を訝しんだだけだったが、シルヴァンティスは本能で男が〝強者〟であることを瞬時に理解していたのだった。
シルヴァンティスは思う。
…間違いない、此奴がリヴを傷つけカイゼリンを攫った相手だ。だがこの恐るべき強大な力は――
いつものように斧槍を握る手はじわりと汗を掻き、背中をツツツーと冷や汗が幾筋も伝い流れる。
両腕の産毛は逆立ち、全身にひしひしと感じる怖気に鳥肌まで立っていた。
額から流れ出た汗は鼻先からポタリと垂れ、意識して震えを止めなければ、尻尾を後ろ足の間に下げて踵を返し、戦う前に負け犬と化して逃げ出してしまいそうだった。
――ルーファスは念を押して言った。身の危険を感じた時点で絶対に戦うな、と。
シルヴァンティスはその言葉の意味を理解する。
そうして思念伝達を使い、イスマイルに告げた。
『イスマイル…動くな。此奴がリヴを襲いカイゼリンを攫った犯人だ。…直ちにウルルの戻り羽根を使い、ノクス=アステールに逃げよ。』
イスマイルは聞こえて来たその声に〝えっ〟と言いそうになるほど驚いた。
まだ始まってもいない戦闘前に、シルヴァンティスがこんなことを口にしたのは初めてだったからだ。
だが反面、シルヴァンティスの瞬間的な判断こそはなによりも正しいと信頼している。
そうして彼女はその大きな身体の影でこっそりと『黒鳥族の戻り羽根』を取り出して、殆ど聞こえないほどの小さな声で〝ヴォラーレ〟、と発動呪文を唱えた。
――だが最悪なことに、この時点で既にノクス=アステールは隔離結界に閉ざされており、緊急時に最も当てになると考えられていたウルル=カンザスの魔道具は無情にもその力を発揮しなかったのだった。
「…っ」
瞬間、イスマイルはサーッと青ざめる。
『シ、シルヴァンティス…駄目ですわ、魔道具が…魔道具が発動しませんの!!』
『――なに!?』
男は思念伝達による二人の声が聞こえているかのように、その行動を見透かして青銀の瞳を細めた。
「――ちょいと意外だな…さすが副リーダーは伊達じゃねえか。大の勝負好きで万人との力比べを喜んでするタイプだと思っていたが、頭に血が上って引き際を見誤るような愚か者じゃあないらしい。」
「「!」」
«此奴、我らの行動を見透かして――?»
さらに緊張する二人に対し、男は不敵に笑いながら続ける。
「『シルヴァンティス・レックランド』に『イスマイル・ガラティア』。お前らは青髪『リヴグスト・オルディス』のように、つまらねえ戦い方はすんなよ?」
ザッ
「――さあ、始めようぜ、精々気張れや。」
男は肩に担いだサガリスを片手で持ち、その巨大な刃先を二人へ向けて言い放った。
「この俺様を十分に愉しませて満足させたなら、大きな大きな〝ご褒美〟があるかもしれねえぞ?…ククククッ」
――そして戦いは始まったのだった。
次回、仕上がり次第アップします。いつも読んで頂きありがとうございます!




