黒猫
優夏が出て行った部屋の中は静かだった。
誰もすぐには口を開かない。
闇命ですら腕を組み、足の踏み場もない床で胡座をかいている。
琴平は心配そうに閉じられた襖を見つめていた。
「――君は行かないのかい。闇命君」
『僕の行動一つ一つに反応するな。めんどくさい』
「それはすまないね。でも、君は一定の距離を離れるわけにはいかないんじゃないのかい? そろそろ危ない頃だと思うのだけれど」
紫苑の言う通り、闇命と優夏は一定以上離れられない。
離れすぎれば、闇命は自分の体がどこにあるのか分からなくなる。
繋がりも薄れ、優夏は闇命の法力を制御できなくなる。
繋がった状態なら、闇命が本体の法力を少しだけ制御できる。
だから優夏は意識するだけで式神を扱い、結界を張るなどの陰陽術が使える。
だが、繋がりが切れれば違う。
膨大な法力を優夏一人で制御しなければならない。
当然、そんなことは出来ない。
強すぎる力は自身を壊す。
闇命の体が本能的にそれを拒み、法力を使わせないよう防いでしまうのだ。
そうなれば、どれだけ天才陰陽師の体でもただの一般人と変わらない。
それを理解しているからこそ、闇命は露骨に舌打ちした。
『あんたに従ったわけじゃない。自惚れないでよ、猫ジジィ』
吐き捨てるように言い残し、鼠の姿へ変わる。
そのまま襖の前へ。
『琴平、襖』
「あ、はい」
言葉の意味をすぐ理解し、琴平が襖を開ける。
待っていたかのように闇命は廊下を走り去った。
その背を見送り、琴平は困ったように肩を落として襖を閉める。
「…………紫苑さん」
「なんだい、琴平」
「なぜ、優夏にあのような条件を出したのですか? 時間が無いのは事実です。何か理由があるのでしょうか」
「闇命君の中にいる人は、優夏という名前なんだね」
問いには答えず、紫苑は楽しげに襖を見る。
琴平は呆れたように額へ手を当てた。
「先ほどの問いだけれどね。今のままでは確実にヒザマに負ける。少しでも陰陽師の体に馴染んでもらわないと困るんだよ」
「ヒザマ、ですか」
ヒザマ。
家に憑き、火事を起こす魔鳥。
見た目は鶏に似ており、瓶や桶に宿るとされている。
「ですが、ヒザマなら簡単に追い出せますよね?」
対処法はある。
瓶や桶を伏せるか、水を満たしておく。
もし憑かれても、追い出すための儀式を行えば済む。
「そうだね。でも今回は、それだけで終わらない気がするんだ」
紫苑は顎に手を当てたまま外へ目を向ける。
だが、その視線はもっと先を見ているようだった。
「……と言いますと?」
「彼にとって、今回が最初の修羅場になる」
振り返った紫苑の口元には、楽しげな笑み。
琴平はわずかに口元を引きつらせた。
「まぁ、猫刄すら捕まえられないなら、低級妖であるヒザマすら封じられない。少し足掻いてもらおうか」
そう言って紫苑は手招きする。
「どうしたんですか?」
「我々は準備をしておこう。ヒザマを倒すためのね」
紫苑は琴平を連れて部屋を出た。
笑みは消えない。
細めた目には静かな光が宿っていた。
※
勢いよく出たのはいいけど……。
そもそも黒猫なんて今まで見たことないぞ。
とりあえず紫苑さんの部屋の近くまで来たけど、どこを見ればいいんだ。
周囲の木はどれも背が高い。
囲まれると妙に不安になる。
しかも、この姿で一人行動は初めてだ。
何が起きるか分からない。
普通に怖い。
「こんな広い場所を手当たり次第探してたら時間いくらあっても足りないな……。式神なんだから何か手がかりとかありそうだけど──って!」
いったぁ!?
突然足を噛まれた。
思わず右足を上げて下を見る。
そこには鼠姿の闇命君。
じっと俺を見上げていた。
……来てくれたのは安心だけど、もっと別の合図なかった?
目が合った瞬間、闇命君は半透明の姿へ変わる。
『まったく。早く見つけてよね。めんどくさいなぁ』
「そんなこと言われても仕方ないだろ……。手がかりなんて何もないんだから」
『手がかりならあるよ。というか、さっき考えてたじゃん』
え。
考えてた?
何を?
『いや、考えてないね。ただ呟いただけか。馬鹿らしいね』
一回絞めたろかこいつ。
苦笑いした、その時だった。
何かが近くにいるような感覚が走る。
視線じゃない。
でも確かに、近い。
ぞわりと背筋が粟立つ。
木の葉が一枚、かさりと揺れた。
……あそこか?
「いっ、いたぁぁぁぁあああああ!!!!」
枝の上。
真っ黒な猫が一匹、毛づくろいしながら座っていた。
……さて。
どうやって捕まえようか。
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