四章その3 集団幻覚
朦朧とした意識で眼前の光景を捉えた。
紅焔が燃えていた。
生命の象徴、あるいは地獄の眷属である焔。
焔は酸素を取り込み、勢いを増していく。
それは龍の舌のように、空気を舐め回す。
火の粉が跳んできて、肌に触れる。熱さを通り越して痛みすら感じた。
息が苦しい。煙が室内に蔓延し始めているのだ。
幸いこの部屋は、こういった異常事態に備えて特殊な作りになっている。バカ高い額の金を使って造られているだけあって、この程度の焔じゃ壁や天井、床には焦げ目一つつかない。
ただしそれは建築物の話であり、人体の安全は保障してくれない。
焔の弾ける音が時折響くが、それは美しい音色の奔流がすぐさま飲み込んでいく。
フレデリック・ショパン作曲『幻想即興曲』。
部屋の隅にあるサイドテーブルの上に置かれた古いCDプレーヤーが、大音量のリピート再生で幾度も幾度も演奏を繰り返している。
「もう、もう嫌だ……!」
まほろの叫びが、耳に飛び込んでくる。
渦巻く焔の向こう、小さな黒い影。
揺らめく焔が遮っているせいでシルエットのようにしか見えないが、まほろが顔を覆いへたり込んでいることは分かった。
「死にたい……、もう死にたいよぉ」
その一言を耳にした瞬間、たちどころに意識が回復し、俺の中で何かがプツリと切れた。
「テメェ……、今何て言った?」
まほろが反射的に体を震わせる。
彼女が俺の声に怯えていることは分かったが、一度動き出した口は止まらずに言葉を紡ぎ続ける。
「死にたいだと? ふざけんじゃねえ……」
まほろは顔を上げ、嗚咽混じりの哀れな声で叫ぶ。
「ふ、ふざけてなんかないよ!」
「だったら、どうして死にたいなんて言う?」
「もう……嫌なんだもん。わたしのことをみんな、バケモノって言うの……。この力のせいで、お父さんとお母さんはわたしのことを怖がって、お家に入れてくれなくなっちゃった。前まで一緒に遊んでくれてたお友達も、みんな離れて行っちゃった。全部全部、この力がいけないんだもん。もうこんな力を持って、生きていきたくなんかない!」
焔の切れ間からまほろの姿が見えた。
幼いながらも整った顔立ちは悲しみに崩れており、長い黒髪が乱れ幾本か濡れた頬に張り付いていた。
カチューシャの装飾のクリスタルが、眩い炎の光を受けて涙のように光る。
「確かにテメェの境遇は同情に値するさ。けどな……死にたいって言葉は許さねえ」
まほろに向かって一歩踏み出すと、彼女は顔を引きつらせて叫んだ。
「来ないでッ!」
轟々(ごうごう)と燃える焔が首をもたげ、こちらを向く。
本来焔に意志などあるはずがないが、それは間違いなく俺を見ていた。もしもあと一歩でも近寄ればどうなるかは、肌に感じる熱から容易に想像できる。
まほろは震える声で告げてくる。
「それ以上近づいてきたら……死んじゃうよ」
とぐろを巻き、こちらの様子を窺う焔は一匹の大蛇……、住宅一軒分の広さを持つ室内の半分を占める巨体はもはや竜か。こいつに食われたらまほろの言うように、瞬く間に焼死体に成り果てるだろう。
「だがそれはありえない」
俺はさらに一歩を踏み出す。
その瞬間、獄炎の竜は顎を開き、灼熱の口腔を覗かせて俺に迫ってきた。
眼前が紅一色に染まり、燃焼のくぐもった音が耳朶を掻き毟る。
「イヤァアアアアアッ!」
まほろの悲鳴が室内に響き渡った。
龍の大口が閉じられ、焔が俺を包み込む。
死ぬほど熱い、焼死しそうだ。
しかし本当に死ぬことはなく、体が発火することもない。火傷すらしていないだろう。
「嘘……」
目を見開き、呆然と俺を見やるまほろ。
足が動くことを確認してから歩きだし、紅炎を抜ける。
遮っていた焔がなくなったことで、まほろの姿がはっきりと見えるようになる。
「どうして……」
「決まってるだろう。『真空発火』が偽物だからだ」
「偽……物?」
首を傾げるまほろに頷いて返す。
そして俺は、周囲を囲む焔を見やって口を開いた。
「まほろは覚えていないかもしれないが、最初にお前の能力が発動したのがあの火事の日だ」
「え? で、でも……覚えてない」
「被害者がいるんだ。消防士の日野陽二。火事の中、廊下でまほろと会っている」
まほろは難しい顔をして考えた後、「あっ」と声を上げた。
「……もしかして、あの銀色の人が……」
「防火服だな。だが顔は覆われてなくて、当然火は防げない。陽二は火事の現場で防火の範囲外である右頬を火傷したそうだ」
「や、やっぱり、わたしのせいで……」
肩を落とし、俯くまほろ。
俺は「いいや」と否定し、先を続ける。
「彼はまほろが炎を出した瞬間を目撃し、驚いて逃げ出そうとして転んだ。その際に右頬を煉瓦に打ち付け痣を作った」
一旦黙し、続く言葉をやや語調強めに語った。
「陽二は右頬を火傷し、そこに痣を作った。面白い偶然だが、それが必然になる可能性が今の話にある」
「え……?」
「煉瓦だよ。石だって焼かれれば熱くなる。陽二は火事の炎で熱された煉瓦に右頬を打ち付けて痣を作ると同時に火傷したんだ」
まほろは自分の右頬を押さえ、首を傾げる。
「陽二はまほろの炎に触れた瞬間、熱さを感じなかったらしい。確かに危機的状況では感覚の一部が麻痺することもあるが、彼はその後すっ転んで煉瓦に右頬を打ち付けた時はしっかり痛みを感じていたそうだ。それなら今の説明の方が辻褄が合うだろう」
「じゃあ……わたしの炎は、関係ない?」
「そもそも、今俺が平気でピンピンしていること自体がその証明になっているけどな。そして屋根裏部屋で、こころと金之助が目撃した『真空発火』についても同じことが言える。彼女は凄まじい焔の龍が現れたとは言っていたが、火事になったとは一言も口にしていない。話を聞く限りだとボヤ騒ぎぐらいにはならないとおかしい。それなのに何もなかったってことは本物の焔じゃなかった状況証拠になる。そして決定的な証拠がさっき、手に入った」
俺は白衣の中に手を突っ込み、さっき男から手渡されたカルテをつかみ出した。
「これには今日、まほろに受けてもらったバイタルチェックの結果が記されている。体成分分析装置やX線、MRIなど様々な方法で検査したが、お前の体のどこにも焔に耐えうる身体器官は発見されなかった。つまり、まほろが能力を発動しても無事でいること自体が、焔が偽物である決定的な証拠だ。普通の人間が素手から焔なんて出したら、確実に火傷するだろ?」
思えばまほろは常に素手で生活していた。その時点で怪しむべきだったのだ。
「もう分かったか? まほろは『真空発火』なんて能力は持っていない」
「嘘だよ」
まほろは強い口調で、俺の言葉を否定した。
「嘘……だと?」
彼女は髪を振り乱して叫び、言い募った。
「だってみんな、わたしの能力ですごい熱がってたもん! おじさんだって汗たくさんかいてたでしょ!?」
一気にまくしたてたせいで、まほろは荒い呼吸を繰り返して肩を上下させる。
俺は自分の顔に、微かに笑みが広がるのを感じた。
「何だ、そんなことか」
「……え?」
ガンツフェルトのグローブを外し、無防備な素の手をまほろに差し出す。
「手を取ってくれ。そうすれば、まほろの持つ真の能力が明らかになる」
「……わたしの、能力?」
「そうだ。それとも、まだ俺が怖いか?」
まほろは手を上げ自分の眼前にやり、自嘲気味に笑った。
「……ううん、きっと違う。わたしが怖かったのは、きっと自分自身」
まほろは俺の手を取らずに立ち上がり、視線を合わせてきた。
「誰かを殺してしまうほど、恐ろしい能力。それを持ってるって証明されるのが嫌だったの」
「……人は誰しも、他者を傷つけうる存在だ」
「違うよ。普通の人は焔なんて怖いもの出せない。だからわたしはバケモノ。だからみんな離れていく。……でも、おかしいよね」
笑みを浮かべたまほろの目から、涙が流れ出した。
「おじさんが『真空発火』なんてありえないって顔してたの見た時にね、もしかしたら違うかもって思えたの。……あなたに触ってほしくなかった。能力を使ってほしくなかった。そうすれば『真空発火』なんて持ってないかもって思っていられたから」
「事実から目を背けても、何も変わらないぞ」
「……分かってる。分かってるけど……」
まほろの笑みが歪み、崩れていく。
「そう思いたかったんだもん。本当はみんなと同じで、普通の人間だって、信じてたかったんだもん。……バケモノなんかじゃないって、思ってたかったんだもん」
彼女は涙を拭い、消え入りそうな声で言った。
「そうすれば、お父さん達も昔みたいに遊んでくれるかなって……思ったんだもん」
所持者であるまほろを死にたいとまで思わせた能力。
人の命を奪う焔を放つ、恐ろしい能力。
それから目を背けることで彼女は幸福を幻視し、生きようとしたのだろう。
「……それじゃあ、ダメなんだ」
俺は手袋をはめている方の手で、まほろの手を取った。
「ちゃんと向き合わないと、後できっと後悔する。人は弱くて脆い生き物なんだ」
「でも、だったらどうすればいいの?」
俺は片膝をつき、まほろの瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。
「お前が辛い時には、俺が傍にいて元気づけてやる」
「……本当に?」
「ああ。それにまほろには、吹雪もこころもいる。頼れるヤツは、いっぱいいるだろ?」
彼女の肩から力が抜けて顔がほころび、柔らかな笑みが浮かんだ。
「そっか……。そうだよね」
まほろの目からまた涙が溢れ出す。だけどそれは今までの涙とは、少し違うもののような気がした。
「……おじさん。本当のわたしの能力、教えてほしいな」
「ああ、任せろ」
俺は彼女の手に、そっと自分の素の手を重ねた。
すぐさま『証明指向』が発動し、俺の熱がまほろの中に流れ込んでいく。
「あっ、熱い……」
まほろの口から喘ぐような声が漏れる。
「大丈夫だ、もう終わる」
そう言うやいなや俺の中に熱が戻り、頭の中に流れ込んでくる。
「……分かったぞ。まほろの能力が」
「はぁ、はぁ……」
まほろの顔は真っ赤で、瞳は熱に浮かされたように潤んでいた。
「だ、大丈夫か?」
「うん……。それより、わたしの能力、教えて」
「あ、ああ。お前の能力は集団幻覚だ」
「これ……?」
「コレクティブ・ハルシネーション。つまり相手を幻覚状態に陥らせる能力だ」
集団幻覚は能力以外でも実際に起きる現象で、異常事態に陥った人間達は共通の幻覚を感じることがある。
沈没寸前の船に乗っている人達が水平線の彼方にある雲を陸地や救助に来た船の煙だと錯覚したり、山の中で遭難した人々が橋や人家の明かりを幻視したり、子供の声を幻聴で聞いたりする。
危機的状況意外にも、その症状は起こりうる。
以前先輩と話していたファッションショー集団誘拐偽証事件もこれを応用したものだ。
イベント会場の熱気を利用し客の思考を鈍らせ、眼前の3Dスクリーンに映った人間を本物だと錯覚させる。
仕掛け自体は幼稚だが、人はそれだけ周囲の環境に左右されやすい生き物なのだ。
これ等を簡潔にまとめてまほろに言い聞かせ、さらに続けた。
「まほろの能力はそういった大仕掛けを用意せずとも、周囲の人間に自由に望んだ幻覚を体験させられる。使い方次第では『真空発火』以上に危険だ」
「どうして?」
「『集団幻覚』は本物そっくりの体験を対象にさせられる。これを使ってもしも相手に死ぬほど恐ろしい体験をさせたら、トラウマを植え付けることだってできるだろうな。それがどんなに酷いことか、まほろなら分かるだろう?」
まほろは真面目な顔で頷いた。
「だからこの能力は、よく考えて使わなきゃいけない。そうしないと本当に人を苦しめるバケモノになっちまう。いいな?」
「うん。ちゃんと考えて使う」
しかし能力を持っている時点で、一般人からバケモノ呼ばわりされることは避けられないだろう。それを告げるのはあまりにも酷で、俺にはできなかった。
気付けば俺達を取り巻いていた焔は弱まっており、見ている内に鎮火した。
「……さて、これで一件落着かな」
スマホの時計を見ると、時刻は午後四時四十五分。約一時間四十五分で治療が終わったことになる。
ふうと息を吐いた途端、勢いよく隠し扉が開けられこころが転がり出てきた。
「おお、こころ。まほろの治療はおわ――」
「たっ、大変ですの!」
俺の話を遮り、彼女は叫んだ。
「上階で火事が起きて、地上へ上がれなくなってしまったそうですの!」
「なっ、何だって!?」




