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三章その6 心的外傷

 まほろのピアノの教師をしていたという人物を訪ね、話を伺った。

 吹雪の言うように教師が『幻想即興曲』を弾きだすとまほろの様子がおかしくなり、能力が発動したという。

 実際に『幻想即興曲』を教師に弾いてもらったが、言うまでもなく恐怖を覚えるような曲だとは思えなかった。やはりまほろの過去の記憶が、この曲に恐怖のイメージを植え付けているのだろう。


 結局新しい情報を得ることはできず、俺はお暇した。

 このまま家に帰ろうかと思ったが、ふとまほろ達のことが気になった。

 無事に喜久子に会えただろうか、それとも門前払いを食らったか……。

 一度心配しだすと、どうにも頭から離れなくなってしまった。

 行って何かが変わるわけではない。分かってはいるのだが、俺の足はすでに賀集家の方へ向いていた。




 時刻は午後六時。

夏場である今は普段ならまだ明るいが、今日はすでに薄暗くなりだしている。昼間の晴れ模様が嘘のように、空に雲が立ち込めているからだ。

 風が吹きだし、木立の梢が擦れる音が響く。

 嫌な予感が胸中を占め、不安に煽られ徐々に駆け足気味になる。


 もうすぐ門が見えるという角を曲がりかけたが、寸でで俺は脚を止めた。

 門前には三人の人間がいた。

 金之助、吹雪、それにまほろだ。

 金之助はまほろ達の行く手を遮るように門前に立ち、また二人は彼と対峙するように向かい合っていた。車道には吹雪の車があった。おそらく金之助の屋敷の駐車所に停めさせてもらうつもりなのだろう。


 吹雪は金之助に深く頭を下げ、彼女にしては大きな声で言った。

「お願いします。お嬢様を奥様に会わせていただけませんでしょうか」

 彼は肩を竦め、ゆっくりと首を振った。

「さっきから言っているだろ。答えは何度頼まれても変わらん」

「どうしでですか!」


 金之助は鼻を鳴らし、まほろを指差して言った。

「せっかく喜久子が正気に戻ったというのに、『真空発火』なんて持っているこいつに会ったらまた無感情な状態になってしまうだろうが」

「奥様が正気に戻られたのは、お嬢様を診ていらっしゃるジー様のおかげじゃないですか!」

「人のプライバシーを勝手に暴くとは無礼な……、ん?」

 金之助の目が、まほろが手に持っているものに留まる。

「おいまほろ、その手に持っているものは何だ?」

 呼ばれたまほろはびくっと体を震わせた後、おずおずと答えた。

「……クッキー。お母さんに、食べてもらおうと思って作ったの」

 彼女の手にはついさっき見た、クッキーの入った水玉模様のラッピング袋があった。

「ほう……。どれ、お父さんにも見せてくれないか?」

「え、あ、うん」


 まほろは手に持っていたその袋を金之助に渡した。

 彼は人差し指と親指でつまみ、顔の前に近づけた。

「おお、よくできてるなぁ。なかなか美味そうだ」

「お嬢様が心を込めて作ったのだから、当然です」

「ふむ……心をこめて、なあ!」

 金之助は口の端を吊り上げて笑い。

 持っていた袋をぱっと手放した。

 スローモーションのように、クッキーの入った袋は落下していく。


 まほろと吹雪は何が起きたのか分かっていないのだろう、間の抜けた顔で金之助の不気味な笑みを眺めている。

 そうこうしている内に、クッキーの入った袋は地面に叩きつけられ。

「うぉらぁッ!!」

 金之助のデカい足の下敷きになり、悲痛な音を響かせた。

「……え?」

 まほろはぽかんと口を開き、クッキーを踏み潰した金之助の足を見やる。

 その足が、ゆっくりとのけられた。

「あ……あっ……」

 眼前の事実から逃れるように、まほろは一歩、また一歩後ろに下がっていく。

 ここからではよく見えない。

 しかし金之助に踏まれたクッキーの末路は、容易く想像できた。


 まほろはショックのあまり、悲鳴のなりそこないである声しか出せないようだった。その気持ちは痛いぐらいによく分かった。

 吹雪は後ろに倒れそうになったまほろを受け止め、金之助を睨んだ。

 だが彼は動じた様子もなく言う。

「まほろを喜久子に会わせるわけにはいかん。帰りたまえ」

「……くっ」

 吹雪はなおも何か言い返そうとしていたが、声も出さずに泣き震えているまほろを見やると唇をかんで、彼女を車に乗せて去っていった。


 そこでようやく呪縛から解かれたように俺は我を取り戻し、体を動かせるようになった。

 金之助はクッキーを見下ろしたまま、じっと動かない。

 俺は彼の元に歩いていき、声をかけた。

「娘が心を込めて作ったクッキーを台無しにするなんざ、父親のやることじゃねえだろう」

 金之助は俺の声に顔を上げた。

 だが目は合わせず、歯の痛みを我慢しているような表情をしていた。

「……見ていたんですか」

「一部始終、全部な」

 溜息を吐いて、金之助は頭を掻いた。

「これで分かったでしょう。わたしぁ、まほろが大嫌いなんですよ」

「いいや、そうは思わない。お前は本当はまほろのことが好きなはずだ」

「何を根拠に……」


 俺は指を一本突き立てて切り出した。

「まほろの現在の状況がお前の本音を物語っている。まほろのことが本当に嫌いなら、車で簡単に行き来できるような近所に彼女を住まわせるはずがない。それに『真空発火』なんて前代未聞の能力を持っているのに自由に生活させているのも不自然だ。病院か何かの施設に隔離しておいた方が、保身面で考えたら安全なのにな」

「病院なんかに入院させたら、能力のことがバレてしまうではないですか」

「お前が大金で人の口を封じることができるのはもう知っている。もしも本気でまほろを閉じ込めようと思ったら、病室や牢屋の一つぐらい用意できるはずだ。それが不安なら屋敷のどこかに幽閉すればいい」

 金之助は下唇をかみ、ぐっと拳を握る。


 俺はさらに続けた。

「それに、最初に会った時に使っていたハンカチ。あれには女児向けアニメの主人公、サタンちゃんがプリントされていた。無趣味だと言っていたあんたがアニメもののグッズを買うとは考えられない。あれは昔、娘にもらったプレゼントなんじゃないか?」

「……そうだ。七年前の父の日にまほろからもらった、わたしの大事な宝物だ……」

 腐るほど金を持っている金之助。

 そんなヤツが宝物だと言ったのは千円かそこらで買えるハンカチだった。

 資産家の金之助なら、もっといい素材のハンカチなんかいっぱい持っているだろうに。

 ただ娘がプレゼントしてくれたからというそれだけの理由で、彼は七年間ずっと安物のハンカチを使い続けたのだ。


 俺は痛む心から目を逸らし、再び口を開いた。

「ではなぜ、あんたは娘を遠ざけようとするのか? それはまほろの能力『真空発火』を恐れているからだ」

「……わたしが、まほろの能力を恐れている?」

「根拠ならある。まずあんたの家の中に異様に多く設置された消火器。この屋敷は内装の見栄えを大事にしているのに、それを損なうぐらいに多く設置されている。どこにいても、すぐ視界に入るように」


 金之助は弱々しく笑って言った。

「……昔、火事にあったんだ。それぐらいの備えをして当然では?」

「それだけならな。もう一つは、あんたが火に対してトラウマを負ったからだ」

 金之助の目が大きく見開かれる。何かを言おうと口を動かしているようだが、いくら待っても言葉が発せられることはない。

「先日、スマホで奥さんの写真を見せてもらったな。その写真に写っていた蝋燭はLEDライトの贋物だった。しかし今日、まほろ達の住んでいる家で見た写真ではバースデーケーキに立てられた蝋燭には銀紙が巻かれていた。つまり本物だ」

「ただ単に、LEDライトの方がゴミも出ないしきれいだから、蝋燭として使うようになっただけだ」

「そうか、それなら火が怖いわけじゃないんだな?」

 しばらく唇を舐め黙していた金之助は、やがて小さく頷いた。

 それを確認した俺は、ポケットからあるものを取り出して彼に見せた。

 その瞬間、金之助は停止ボタンを押された映像のように硬直した。


「だったら火、つけてみろよ」

 俺は駅前でもらったマッチを金之助の鼻先で振ってみせた。

「怖くないなら、できるよな? マッチの使い方ぐらい小学校で習うもんな」

 金之助の顔が青ざめていく。しかしそれでも彼は震える手をマッチに伸ばしていく。

 その手がマッチに触れるやいなや。

「うわぁあああああっ!」

 金之助は悲鳴を上げ、俺の手からマッチを払い飛ばした。

 瞬間、瓦解音のような雷鳴が轟いた。

 彼は顔中にびっしりと汗をかき、浅い呼吸を繰り返している。


 俺は彼が落ち着くのを待ってから言った。

「……なあ、金之助。あんたも苦しんでいるのは分かるよ。でももう少し頑張って、娘と向き合ってみないか?」

「……無理なんだ。火だけは、火だけは……」

 全身を震わせ、金之助は顔を手で覆った。

 彼は重度の火傷を負い、半年間入院している。

 そんな目に合うぐらい苦痛な経験をしているのだ、火に対して恐怖心を抱くようになってもおかしくはない。

 それ以上金之助に対して何も言うことができず、俺は踵を返してその場を立ち去った。

 地面に一滴、雨粒が落ちる音がした。

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