13.今川との駆け引き
初夏の風が、岐阜の城下を撫でるように吹き抜けていった。
城下では市が立ち、尾張と美濃をつなぐ街道を商人の列が絶え間なく通っていた。
だが、その空の下――信長の脳裏には、常にひとつの“影”があった。
今川氏真
駿河の太守。かつて桶狭間で信長が討ち果たした今川義元の嫡男であり、尾張と三河の隣に座するもう一つの“巨大な目”。
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◆ 今川の焦燥
駿府城。
今川氏真は庭園にて弓を引いていたが、その顔は晴れなかった。
「信長め……父を討ち、今や美濃を手中に収めたとな」
その声には、復讐と焦りが入り混じっていた。
父・義元が討たれてからすでに数年。
三河では家臣の裏切りが相次ぎ、ついには松平元康――後の徳川家康までもが独立を果たした。
氏真の今川家は、もはや往年の威光を失い、内政も綻びつつあった。
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◆ 信長の次の一手
「今川は、動かんよ」
信長は、報告書を読みながらそう言い切った。
「松平元康――あの男は、今川にとって最も危険な“不安定要素”だ。
奴らは尾張を攻めるより、まず“三河の統制”に全力を注がねばならぬ」
柴田勝家が眉をひそめる。
「では、我らは静観と?」
「いや――こちらから、“毒”を流す」
信長が差し出したのは、書状だった。
>「三河・遠江にて、通宝の流通を拡大する。
> その地の商人に免税特権を与えよ。
> また、元康の意志を尊重し、尾張は軍を向けぬ旨、密書を送る」
つまり――
**今川を挟み撃ちにできる環境を整えながら、“自らは何もしないように見せる”**という策である。
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◆ 三河の動き
松平元康のもとにも、信長からの密使が届いていた。
「信長公より、貴殿に“尾張の和平”と“通商路の開放”の申し出あり。
駿府を刺激するつもりはないと」
元康は静かに微笑んだ。
「信長公……恐ろしい御方だな。こちらの心の動きまで、見透かしておる」
彼は、この時すでに“独立”をほぼ成し終えていた。
だが、公に今川に背を向ければ戦となる。
信長の一手は、元康に“逃げ道”と“交渉の余地”を与えるものだった。
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◆ 駿府、ざわめく
やがて、遠江と三河の市場で“尾張通宝”が静かに使われ始める。
信長の商人たちが、物資を流し、安価に塩や鉄をばらまいていた。
今川家中が動揺する。
「通宝が、すでに遠江の市に……」
「三河の村では“尾張の米”が売られておりまする!」
氏真は歯ぎしりをした。
「やつは、戦わずして我らの背を崩す気か……!」
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◆ 信長の真意
岐阜城。
信長は、報告を聞きながら筆を走らせていた。
「戦とは、刀を交えることではない。
“相手の動きを縛り、心を削ること”だ」
いま、尾張は軍を動かしていない。
だが、経済・情報・外交――あらゆる手で、信長は東の地に“無言の圧力”をかけ続けていた。




