3.夕闇
鈍いエンジンの音を響かせながら、故郷へ向かう長距離バスは走り続けた。
車窓から見える景色が、都会から田舎の町並みへと変わっていく。
一番後ろの座席に座り、男はじっと身をかがめながら、それを眺めた。
彼の風貌は、異様なものだ。
日の光を遮るため時期はずれのコートを身につけ、フードも頭からすっぽりと被っている。
手には大きな袋を持ち、中は水で満たされたガラス瓶やペットボトルが何本も入っていた。
ゴクリ……ゴクリ……。
時折、男は袋の中にある水を飲み、渇きを誤魔化した。
あれほど苦痛だった水道水さえも、いつか自由に泳ぎまわれることを思えば我慢ができた。
バスの中でも、男の変化はさらに進んでいく。
全身は魚のような赤い鱗に覆われ、手にははっきりと水掻きの膜ができていた。
左右の首筋には、エラのような切れ目がうっすら見える。
時間がない……と、男は焦った。
やがてバスが停まる。
ついに男の故郷に着いたのだ。
最後にこの光景を眺めてからずいぶん年月が経っていたが、不思議なことに故郷の町並みは幼い頃と、何一つ変わっていなかった。
しかし男には足を止め、懐かしさを感じる余裕はない。
体の変化もあと僅かなのだ。
今、記憶の池で自由に泳ぐことだけが彼の全て……。
男は歩きはじめる。
歩く男の真上から、夏の太陽が照りつける。
喉の渇きが、さらに強まった。
男は手に持つ水を飲み、そのまま頭から水を浴びた。
流れた水が男の肌に染み込み、僅かに潤す。
一本、二本、三本……と、空になったガラス瓶やペットボトルが歩く男の足元に転がっていく。
やがて日が沈みかけた頃、急に目の前が開けた。
そこは広い空き地だった。特に手入れもされずひどく荒れた土地だ。
空き地からは、子供たちの声が聞こえる。
ふと見れば、半ズボンを履いた少年たちが草野球をしていた。
男も幼い頃、同じ様にここで野球ボールを追いかけていたのだ。
その光景を見ても、男は何も感じなかった。
彼は再び、池を目指して歩く。
空き地を抜けた先に、目的の池がある。
幼い頃の古い記憶が、そう教えてくれた。
あと少し……。
もうすぐ……。
そして……。
ついに目的の池へと、男はたどり着いた。
記憶の池の前に立つ男。
彼の手には最後のガラス瓶が握られていた。
瓶の中にはまだ水が半分ほど揺れている。
男は安堵した。
最後に一口、ガラス瓶に口をつける。
ゴクリ……と、彼は大きく水を飲んだ。
夕暮れ、一人の少年が空き地の草むらを下を向いて歩く。
彼は遠くに飛ばされた野球ボールを探していた。
池のすぐ近くまで来た時、少年は不思議な物を見つけた。
それは水の入った……透明なガラス瓶。
キラリと夕日に反射して、瓶の中で何かが赤く光った。
……なんだろう?
少年は好奇心に駆られ、その瓶を手に持って、中を見る。
赤い光は、一匹の金魚だった。
狭いガラスの中、金魚がゆらゆらと揺れている。
沈みかける夕日の光が、金魚をさらに赤く染めた。
突然、後ろで仲間の誰かが、少年の名を大きく呼んだ。
一瞬、ガラス瓶の水が強く波打つ。
びっくりした少年の手からガラス瓶が滑り、地面に転がった。
トクリ……トクリ……と、転がる瓶から水がこぼれ落ちる。
もう一度、後ろで仲間が少年の名前を呼んだ。
彼は返事をして、一度だけ哀れな魚を見る。
そして仲間のもとへと走り去った。
「なぜだろう……」
走りながら少年は、ふと考える。
「なぜ……あの金魚が、僕の名前で振向いた気がしたのだろう」
転がった瓶の水は、少しずつ地面へと消えていく。
瓶の中……金魚はただ揺れている。
夕闇の影がさらに濃いものとなる。
夜の帳は……すぐそこまで……。
[完]
ここまで読んでいただき、ありがとうございました!
少しでも楽しんでいただけたら幸いです。