外野席の人
緑は娘・ゆりから辰雄の話を聞いて言葉を失った。やはり、血は争えないと言うことか…。それにしても二八年前、勇務と緑が離婚した時、誰よりも泣いていたのは辰雄だった。
本当は辰雄とゆりの二人を連れて行きたかった。しかし、あの時は元夫・勇務から逃れることで精一杯。かつての夫の浮気や暴力にもう耐えられなかった。普段は優しい人だったが、酒癖が悪く、酒を飲むと日頃のうっぷんを吐き出すように暴力をふるった。見栄っ張りで、外で女を作る事が男の勲章だと思っているような人だった…。だからゆりだけを連れて逃げた。
ゆりの話では、勇務も今ではすっかり改心して、仏門にて懺悔の日々を過ごしているようだ。しかし、緑にはそれすらも上辺だけにしか思えなかった。
初め、辰雄は家を出て行った緑が悪いように思い込んでいたが、大人になるにつれて、勇務のせいで母は出て行かないといけなくなったことが分かるようになった。
親が離婚して苦労している所を見ているし、二人の子どももそのせいで苦労しているはずだ。だから、辰雄とゆりは誰よりも「幸せな家族」に憧れていたし、誰よりも家族は守るべきものだと分かっていたはずだ。
それなのに、辰雄ときたら…。勇務よりもひどい浮気をしてしまったのだ。浮気相手を妊娠させてしまったなら、もう元には戻れないだろう。きっと、自分たちのようになってしまうのではないかと、あまり考えたくないことまで考えてしまった。
もし、辰雄に子どもの心が少しでも残っていたら、こんなことにはならなかったはずだ。人間って奴はどんな深く絶望の淵で苦しんだことであったとしても、何十年も経てばケロッと忘れてしまう。
だからこそ人はいつでも笑って生きていくことができる。その反面、昔受けた苦痛や悲しみを他の人に平気で与えてしまう。昔、もう二度と人を傷つけずに行きていこうと堅く誓ったとしても…。
そうやって、人は人の世が続く限り人を傷つけていくし、また人はそこから力強く立ち上がっていくことを繰り返しているのか…。
そうだとしても息子が浮気してしまうとは…。人生とは何ともはかないものである。…なんて、悟っている場合ではないのだが、そんなことでも考えないとやっていられないのである。
緑には息子の浮気を正面から受け止める強さも余裕もなかった。そんなことをしたら、二八年前の嫌な思い出を思い出してしまうからである。
「小秋さんはいつまで正気を保っていられるかしらね…」
緑はそんなことをつぶやく以外、何もできないことも分かっていた。こんな状態になってしまったら、もう何もできやしない。一番簡単なのは、何もかも捨てて逃げること。そうすれば全てを失うが、自分を守ることはできる。自分も守れない人に他の人を守ることなんかできるはずもない。
余計なことをしたら何も守れないし、全てが音をたてて壊れるだろう。今にも大きな音をたてて崩れる音が聞こえてきそうである。今の緑には母親として、息子を守る力もなければ、守ろうとする気もなかった。ただ、とても遠い場所で、固唾を飲んで傍観する事しかできないのだ…。