『孤独なる玉座の決断』
オーレリア帝国の宮廷において、長年にわたり群臣たちが不可解に思い、密かに議論を重ねていた最大の謎——それは「立太子(皇太子決定)」の引き延ばしであった。
皇帝ヴィンセントには、正室である皇后の産んだ輝かしい第二皇子が存在していた。高貴な血統、後ろ盾となる強力な門閥貴族、そして皇子本人の優秀さ。誰が見ても第二皇子が皇太子に立てられるのが当然であり、帝国を揺るがさぬための唯一の道であった。しかし、ヴィンセントは何年もの間、臣下たちの「皇太子を早急に定められたし」という上奏を、曖昧な言葉で退け続けていたのである。
臣下たちは「陛下は第二皇子の慎重な資質を見極めているのだ」あるいは「政治的バランスを図っておられるのだ」と推測していたが、真相は全く異なっていた。
ヴィンセントが立太子を遅らせていた理由——それはただ一つ。自分が最も愛した女性、フレデリカの産んだ第五皇子イリアードを立太子させる可能性を、最後まで模索し続けていたからであった。
◇
ヴィンセントとて、愚かな暴君でもなければ、完全に情愛に溺れて正気を失った男でもなかった。帝王としての冷徹な眼光と政治的直感を持ち合わせているからこそ、自身の抱く理想がいかに「狂気」に近いかを誰よりも理解していた。
フレデリカは、宮廷の底辺に属する「女楽」の出身である。ろくな後ろ盾もなく、正五品・婕妤という低い身分に甘んじている側室だ。そのような女性から生まれた第五皇子イリアードを帝国の後継者に指名すれば、皇后実家の門閥貴族のみならず、帝国全土の貴族層が猛反発を起こし、宮廷は激動の紛糾に見舞われる。最悪の場合、帝国内乱へと発展することすら目に見えていた。
(分かっている……そんなことは百も承知だ。だが……)
執政室の玉座で、ヴィンセントは頭を抱え、深く溜息をついた。分かっていながらも、皇后の産んだ第二皇子をそのまま皇太子に指名してしまえば、イリアードが皇帝になる道は永遠に閉ざされる。そして何より、愛するフレデリカの血を引く者を帝国の頂点に据えるという、至尊としての個人的な「夢」を自ら手放すことになってしまう。その葛藤と執着こそが、彼に立太子の詔書を出させない唯一のブレーキとなっていたのだ。
◇
しかし、その幻想は先夜、フレデリカ自身によって残酷なまでに打ち砕かれた。
『イリアードの封地には……私の故郷であるアルヴェリアを賜りたく存じます』 『成婚と同時に、私めも後宮を出て息子と共に移住いたしたく存じます』
古琴『水鏡』の音色が響く寝殿で、彼女が口にした決別にも似た申し出。自分を手元に留め置くための配慮も、皇位継承権からあえて遠ざけて守ろうとする親心も、すべてを跳ね除けて「皇帝の側を去る」ことを選んだフレデリカ。
「……くそっ!!」
ヴィンセントは執政机を激しく拳で叩いた。激怒の炎は未だ収まっていなかった。自分を置いて去ろうとする彼女への裏切られたような寂しさと猛烈な執着。だが、その激怒の裏側で、ヴィンセントの胸にはもう一つの感情が渦巻いていた。それは、「愛する女性の切なる願いを、最後には叶えてやりたい」という、情けないほどの自虐的な慈愛であった。
(お前はそこまでして……余の元を去り、我が子を守りたいのか。余が与える富も、権力も、寵愛すらも要らぬと……そう言うのだな、フレデリカ)
彼女の徹底した無欲と覚悟を知った今、イリアードを皇太子にするというヴィンセントの密かな野望は、もはや彼女たち母子にとって「救い」ではなく「最大の毒」でしかないと思い知らされたのだ。
◇
「——来い! 筆記官を呼べ!!」
ヴィンセントは半ば自暴自棄のような、ヤケクソ気味の叫び声を執政室に響かせた。慌てて駆け込んできた筆記官に対し、皇帝は血走った眼で凄まじい気迫を放ちながら宣言した。
「勅書を起草せよ! 第一に——皇后の産みし第二皇子を、正式に帝国の皇太子と定める! 儀式の手配を直ちに進めよ!」
筆記官は驚愕に目を見張った。長年焦らし続けれていた立太子の決断が、今この瞬間に突如として下されたのだ。しかし、驚きはそれだけでは終わらなかった。
「第二に——第五皇子イリアードの婚礼後における封地を、最果ての『アルヴェリア』と定める! さらに、親王は成婚と同時に封地へ赴き、直接統治に当たらせるものとする!」
「へ……陛下!? アルヴェリアと申しますと、あの不毛の湿地帯でございますか!? 皇子を下賜されるにはあまりに……」
「黙れ! 余の決断に口を挟むな!」
ヴィンセントは怒声を浴びせ、さらに言葉を続けた。その声は微かに震えていた。
「第三に……国法に基づき、第五皇子の母・婕妤フレデリカに対し、親王成婚後の後宮退出および、息子イリアードの封地への同行移住を特別に許可する……!!」
◇
勅書を書き終えた筆記官が、恐れおののきながら退室していった。
静まり返った執政室で、ヴィンセントはぽつんと一人、豪華な玉座に深く背を預けた。窓からは茜色の夕闇が差し込み、皇帝の孤高な影を長く床に引き伸ばしている。
「……満足か、フレデリカ」
ヴィンセントは誰もいない部屋で呟いた。
第二皇子の立太子を決めたことで、帝国の政治的混乱は避けられ、朝廷は歓喜に包まれるだろう。そして第五皇子イリアードを辺境へ追いやり、側室フレデリカを後宮から出すことで、彼女が望んだ「完全な安全」と「静かな安寧」は完璧に保障された。
皇帝としての責務を果たし、最愛の女性の願いも叶えてやった。しかし、その代償として、ヴィンセントの手元には何も残らなかった。残されたのは、最愛の側室を永遠に失うという、帝王ゆえの深い孤独と喪失感だけである。
「お前がそれを望むのなら……余の愛すらも引き裂いて去るというのなら、望み通りにしてやる。……だが、婚姻までのあと一年。それまでは絶対に余の側を離れることは許さんぞ……」
遠く後宮の方角を見つめるヴィンセントの瞳には、帝王としての冷徹さと、一人の男としての深い情念が重たく残り続けていた。ろ




