殺人者の手
忘れられない話は、普通の会話のそこかしこにあって、時がたって今も、鮮やかに思う事があります。
私が印刷会社に勤めていた時のこと。
そこの事務のおばさまと、昼食を共にする私です。会話、何でもないこと、色々世間話。
おばさまが言うには、殺人者と握手をしたことがある、と。
検索すれば今も誰か出てくるのですが、歌手で。殺人を犯して、償って出所した後も、歌うのを続けた人、というのがいるのです。
おばさまは、その歌手の歌うお店に行った事があり、そこで、歌が終わった後に握手を求められて(うん、サービスとしてそういうことはあるよね、だけど……。)拒む事もできずに、握手したそうです。
でも、人を殺した手なんだなあ、と思うと、なんか、や、や!で、ウヒィィィィ!って気持ちになったそうです。
というのを、私に話すおばさま。
思える事は幾つかある。
最近になって、この歌手の人のことを検索してみたので、あんまり幸せな生涯ではなかったことを確認しています。事件後も歌手としてやっていきたかったようですが、公の場では無理で、お酒を飲ませるようなお店で歌っていたと。
おばさまはそこに行ったってことですね。
犯罪を犯した人を穢れと思う心、について。
私も、きっとおばさまと同じに、ヒエエエェ、と思うと思います。
でも、人は、その歌手さんのいるお店に、行く。
好奇心なのか、知らないで行くのか、色々でしょうが、そこに、暗い面白がる興味が全くない、とは言い切れません。
そうして、その人を穢れとして、自分からは切り離して遠く置く。
実際に犯罪を犯した人が、どんな犯罪で、どんな経緯で、にもよりますが、やっぱり、またするのじゃないかな?側にいたら、巻き込まれないかな?と、きっと人は思うのですよね。具体的にそこまで思わなくても、死は、そして真っ当ではない死は増して、穢れと思われます。
もう、その歌手の人は、穢れに侵されてしまったのです。そうならない選択肢はあった。でも、その人が選んだ。
だからこそ、それを選ぶ人を、自分とは違うと、遠ざけたい。
そうすることで、自分を安全な位置に置きたい。
穢れを見たい気持ち、知りたい気持ちは、知らずに巻き込まれたりしないように、興味が湧くように、人はできてるのでしょう。
私自身は、そう思う、穢れに感じる感情も持っていますし、そうして、また。
犯罪を犯した人は、自分とそんなに違う場所にいるのではないのではないか。私自身もそんなに強く、清廉潔白な精神で生きていない。理性はあるけれども、ある条件や環境になったとき、犯罪を犯さずにいられるのだろうか。
と思う気持ちがあります。
いや、普通に悪いことしないで、生きていますが、切羽詰まった時、やらないでいられるか、試す訳にはいかないではないですか。
そうして、それは、答えのないイフなのです。
まあ、だからこそ、その前に切羽詰まった状態にしない、という知恵を働かせる、ってことはあります。
犯罪を犯した人を穢れとしてハズして扱うことで、その人は確かに失敗をしたけれども。その後も生きていかなきゃならない世の中じゃないですか。人はそんなに簡単に、いなくなれない。
だけど、世の中を、ハズされては、なかなか上手く生きていかれないのではないか。
生きにくくなる、そうなる事で、また、失敗を繰り返す。
それは、今生きている世の中の治安が、少し悪くなる事にも繋がる、やだな、という利己的な気持ちと。
やり直しのできない世の中は、自分も生きにくい感じがして、嫌だな、という気持ちが、複雑だけど確かにあります。
だけど、贖罪の事を考えると、許せないという人の気持ちも分かる。戻らない、返らないものが、ありますものね。そして、簡単に許すことで、他にも穢れに対して境目を乗り越える人が増えるのではないか、という懸念もあります。
人は違うものを排除する、基本そういうところがありますが、人の道を外れて、排除される側になった時のことを、なんか、想像しちゃうんですよね。
私はあまり、正義について、バシッと言える強い気持ちを持っていません。
世の中も、人の立場も、正義も、不確実で、立ち位置によって違う。
優柔不断なのですが、視点を変える、という試みを色々やるからこそ、小説なんか書いてるのでしょうし、何でも物語として考えがちなのでしょう。
自分の現実から遠いからこそ、呑気に、そう思えるのです。実際には怖くて逃げちゃうかもしれません、犯罪を犯した人に会ったら。負けるよ、きっと。その負の波動に。
ひええ。
被害者だったら………。
犯罪を犯した人、本人だったら。
その周りの人だったら。
歌手の人を見に行った、握手の手を差し出された人だったら。
おばさまが私に話をした、という事は、話として面白い、話題になる、という気持ちが多少あったことと思います。
うん、確かに、話題になりうる、ずっと今まで覚えている話です。
その、手。
その手を、私は、握るのだろうか。
差し出された手は、きっと罪の形の、具現化です。
私はその人を、断罪する権利が、あるのだろうか。
自分の中にもある、けれど、困ったことになっても理性で自分はとどまると思いたい、その、罪の形を、確かめることを、するだろうか。
答えはないのですが、そういうことを考えながら、小説を書いていたりします。
そこには自分なりの、こうなりたい、があり、書き分けがあり、書き終わるとスッキリします。
この殺人者の手について、いつか物語で書くときがあるのだろうか。
あんまり怖い話を書くのは好きじゃないので、きっと形を変えて散りばめられるのでしょうか。綺麗なもの、汚いもの、単純にその2つではなく、ならば、こうあってほしいと、こんな世界ならば、きっと上手くいくと、希望を描ける未来の私よ、頑張るのだよ。
若い頃は、ハッピーエンドの物語が、なんだか簡単な気がして、あまり好みではありませんでした。
でも、歳をとって思います。
ハッピーエンドが一番難しいんだって。
幸福で、それでいいんだ、って。
皆、それを目指して、それで世の中が、良い方へいくのだって。
思っています。
そうして今日も、物語を書きましょう。
人には、幸せな物語が、必要なのです。




