第八撃「野菜上限」①
「きょうたろうくん」
聞き違いだと、顔を向けもしなかった。下の名前に「くん」付けで自分を呼ぶ人間など、学校にはいない。鮎の声に似ていたが、あの人とはもちろん互いに苗字呼びだ。
中間試験も終わった6月の木曜日。2時限目と3時限目の間の休み時間に、隣の席の鈴木紋子から、スマホの「祝♡」フォルダについてあれこれ訊かれている時だった。だが鏡太郎の背後を見た紋子…やーさんの表情が変わった。顎をしゃくって、そちらを見るよう促してくる。
なんだいったい。
顔を上げ、後ろを向くーーぎょっとした。
陸奥 鮎と、同じA組の添田美琴、そしてなぜか秋山が立っていた。
髪をポニーテールに結んでいない鮎は初めて見た気がした。D組の教室にいる全員が、視覚と聴覚の数十パーセントをこちらに割いた気配が伝わる。
大した人だよな…。弟子だけど。同時に、鮎のレイヤーで生きる世界はいろいろ鬱陶しそうだと改めて感じる。
美琴が不思議そうな顔で言った。
「ねえ。北森って、鮎と幼なじみなの?」
秋山が前のめりになって続けた。
「まじなわけミラ。黙ってんの水臭くね?」
おいおい。…おいおいおいおいおい!
鮎と視線が合った。平然とした目の奥に「お願い、話合わせろ!」という必死の指令が見える。鮎が秋山に言った。
「黙ってたんじゃないの。わたしたちも先月まで気づいてなかったんだから」
中野のスイミングスクールの件を強引に膨らませ(ほぼ捏造だが)て、陸奥家的には「幼なじみ」ということにしたから、とは鮎からこの前知らされていた。
〈事前に相談しなくてすまん!
そのうち、わたし学校でもこの設定、さりげなく広めとくね
人のつながりってヘンに隠すと、なんか感づいて勘ぐる人が出てくるから〉
メッセージにはそう書いてあった。しかし…この事態はあんまりさりげなくない。
「その…またムダに盛って広めるだろ、秋山に言ったらさ。それに、今さら“実は…”ってのも何様って感じだろ」
「わたしが横須賀引っ越すまで割りと仲よくしてたんだよね。スイミングスクールの帰りとか、鏡太郎くんの家行ったことあるの思い出した」
…嘘は嫌いなはずの鮎が、ここまで「フィクション」にハンドルを切るのは、今後も考えてのことなのだろう。何もかも北統麝汞流の秘密主義のせいである。
「まあ、あの頃はね…。だからおれも『ええっ』ってびっくりしたんだって。まさか、むつ…」
「なんて呼ぶん?」
秋山の横に、一人だけ私服のさやかが、今にも吹きだしそうな顔で立っていた。
呼び方…? 確かに、アドリブ芝居にリアリティを出すため、鮎は(きっと)やりたくもない下の名前呼びをしてくれているのだ。合わせるべきなんだろう。
「鮎ちゃん」? ない。今後も、人前ではそう呼ばないとならなくなるかもしれないのだ。ライフゲージをいちいちとんでもなく消費してしまうーー。
大脳の言語野を全力で稼働させつつ、鏡太郎の頭には昨日の下校時のことが浮かんでいた。
都営バスの「柿星学苑前」停留所は車道から学苑の敷地側に少し入ったところ、大きなイチョウの木が目立つ駐車場を兼ねた正門前の広場にある。
昨日、水曜日の放課後、鏡太郎は教室から秋山と一緒にバス停まで来た。ちょうど荻窪駅南口行きのバスが到着したところだった。
クリーム色の地に、斜めの緑のラインが入ったバスの大きなタイヤが、砂利の敷かれた広場の地面をぶつぶつと音を立てて踏みしめ、バス停までゆっくりと回り込んでくる様子は、大型の草食恐竜みたいで鏡太郎は気に入っている。
バス停には一人、高等部の生徒が並んでいた。
山﨑だった。
鏡太郎も秋山も、中等部1年の時に同じクラスだったが特に親しくはなかった。かといって話しかけないわけにもいかない。コミュ力お化けの秋山が一緒でよかったと鏡太郎は思った。まして少し前に、山﨑について微妙な話を聞かされたわけであり。
「おう山﨑! ぶりだな」
秋山が「久しぶり」の「久し」を略すのはいつものことだ。山﨑はこちらを向くと、静かな声で「…ああ」と答えた。伏せ目がちで、長いまつ毛が目立つのは変わらない。鏡太郎は右手を挙げながら「よっ…」とだけ言った。
ビーッという音と共にバスの後部ドアが開く。乗り込んだ三人は、いちばん奥の座席に並んで座った。バスはすぐに発車し、またぶつぶつと砂利を踏みながらゆっくりとカーブを切って車道に出た。
「山﨑、そういやA組じゃん。ど・う・よ、“噂の外部生”と同じ教室で吸う酸素は?」
真ん中に座った秋山が、山﨑の肩を摑んで揺らしながら尋ねた。
「お前さぁ、最近のトピックそれ以外ないのかよ…」
たしなめるようにそう言った後、窓際の鏡太郎は外に視線を向けた。なんとなく、山﨑の反応を直視するのがためらわれた。梅雨入りしたばかりなのにとっくに真夏のような日差しの下、バスを追い抜いてツバメがまっすぐに飛んでいった。
「噂のって?」
山﨑は訊き返した。物静かな話し方に変化はない。
「んなもん一人っきゃいねえだろ」
「…陸奥さん? そんな話題の人なんだね」
「入学式直後からセンセーション巻き起こってたろうが。おれなんか天文部の先輩にいろいろ訊かれまくりよ。学年一緒ってだけでだぜ」
「同じクラスっていっても、ぼく席遠いし、よくわかんないよ」
秋山はバスの天井を仰いだ。
「ミラ聞いた? これが“なまじ”ってやつよ、なまじ。パリジャンはエッフェル塔ありがたがんねえんだから。山﨑お前、来年はクラス変えよ? この一年、噛みしめて過ごせよな」
「“パリジャン”って人が声に出すの、おれ初めて聞い…」
「すごい、きれいな人だとは思う」
どうでもいい方向へ話題を逸らそうとした鏡太郎の言葉は山﨑に遮られた。声に少し体重が乗っている気がしたが、考えすぎか。
「でもなんか、石英みたいな人じゃない? かわいいけど、鋭い感じ」
考えすぎじゃないかもしれない。
「せきえい?」
「鉱物だよ。地学でやったじゃない、水晶とか」
「頷きづれぇな! 有名人で喩えてくれよ。まあその辺のつまんねえアイドルよりムツアユは」
バスが学苑から3番目の停留所に着いた。秋山は発言が途中なことなど意に介さず、「おれここだから」と山﨑を押しのけるように立ち上がり、「ミラ、また後でLINEするわ!」と降りていった。
他に乗客は、いちばん前の一人席に座っている小学生と、優先席の老人の二人だけだった。バス内が消音したようになる。山﨑もたしか終点まで行くはずだ。荻窪の駅まで、まだ停留所が3つある。
なんの話題を振ろうか…。鏡太郎が中1時代の記憶を懸命に掘削していると、山﨑が前を向いたままで言った。
「ミラさぁ、今日これから時間ある?」
「あ? ああ。家帰るだけだ」
「野菜好きだったよね?」
「…覚えてんだな、そんなこと」
「サンドイッチ食ってかない?」
野菜がたっぷり摂れるのが売りのサンドイッチチェーン「TUBE」荻窪店は、駅前のコンビニの中に入っている。サンドイッチも野菜も大好きだが、他のファーストフードチェーンに比べてやや高いうえ、注文時にパンの種類やトッピング、ドレッシングなどを一つ一つ選んで伝えるのが緊張するので、鏡太郎はあまり来ることはない。
鏡太郎は野菜のみ、山﨑は野菜&アボカドのサンドイッチのドリンクセットにした。蒸しポテトは、Mサイズを二人で分けることにする。
山﨑はオーダーの最後に「野菜上限にしてください」と付け加えた。
「…上限なんてできんのか」
「できるよ。おれいつもそうだよ。値段変わんないし」
一人称が「ぼく」から「おれ」に変わっていた。山﨑にとってはここは行きつけで、“ホーム”気分なのかもしれない。
「マジかよ。あ、こっちも上限でお願いします」
女性店員はにっこり笑い「はい、お野菜上限で」と頷いた。二つに割ったパンの間(サンドイッチと言っても、ここのパンは細長い円柱形なのだ)に、手袋をはめた手で野菜を次々にはさんでいく。紫玉ねぎ、普通の玉ねぎ、きゅうり、トマト、レタス、セロリ、にんじん、ブロッコリースプラウト、オリーブ…量が通常の1.3倍くらいになったところでパンを閉じ、紙で包んだ。紫と緑の「TUBE」のロゴが散りばめられた包装紙は、破けそうなくらい膨らんでいる。
鏡太郎は、山﨑とイートインスペースのカウンター席に並んで腰かけながら興奮気味に言った。
「“大盛り”じゃなくて“上限”てのがいいよ。でも野菜の値段上がってるから…無料なの今のうちかもな」
「そんな、野菜の値段とか、ミラわかるんだ?」
サンドイッチの端にかぶりつきながら山﨑が言った。はみ出したアボカドのディップが、トレイにぽたりと落ちる。
「メシ作るの、親父とおれの緩やか分業制だからさ」
「そっか、お母さん亡くなってるんだよね…ごめん、たいへんだよね」
「ごめんは要らないって(流れで意味なく謝られると、なるほど引っかかるもんだと鏡太郎は思った)。そこまでたいへんじゃないぜ? スーパーや商店街歩くの趣味だし。高円寺だと、駅近の『ラジャー!』ってスーパーが安くてさ」
初体験の野菜上限を、鏡太郎は大きく口を開けて恵方巻きみたく突っ込んだ。ほのかに甘いかためのパンを、シャキシャキした野菜と一緒に噛みちぎる。野菜の水気がソースと合わさって、口の中がジューサーになったようだ。ドレッシングをわさびウスターソースにしたのも正解だった。
「ミラはさ。中3の時、一生童貞宣言したでしょ?」
急だな。食べながらする話かそれ。しかし山﨑は、真面目な表情で続けた。
「みんな気楽にイジって笑ってるけど。おれ、ミラはガチだよって思ってるんだ」
「…ああ。ガチさ」
「どうして?」
〈続きます〉




