第七撃「ハニートースト」③
鏡太郎は、指先で楕円球に触れてみた。少しざらっとした、和紙のような感触。
「容れ物はカイコの繭玉だって。簡単に破れすぎないように、表面加工してあるらしいよ」
「これさ、ほんとはおれ、見ちゃいけないやつだよね?」
「お祖母ちゃまたちの取り決めでは、ねー。超どうでもいい」
藍は両てのひらを組んで後頭部に当て、困ったもんですなという顔で天井を見上げた。
麝汞流に「花」という概念がある。
戦闘の状況下で、助けとなり得るあらゆる要素のことを指す。
たとえば飛礫として投げつけることができる石。音を立てられる板や空き缶。逃げ出せそうな窓。通りがかった人。降り出した夕立ち。
絶望的な状況に思えても「花」は思わぬ形で、思わぬところに咲いていることがある。自己暗示法・護心で意識から恐怖や嫌悪の感情をログアウトさせ、心静かに「花」を見つけよと教える。
そして男の情欲、女に対する侮りも「それは花である」とされる。
個人差はあれ、敵である男性は、概ね女性より体格や筋力が上回っている。
大人が、10歳の子供とケンカすることになったとしよう。
その子が武道の黒帯でも、大抵の場合、さして脅威を感じず圧倒できるだろう。ボクシング等で体重ごとに細かく階級が分かれているのは、数キロの違いが危険なほどの戦闘力の差となるからだ。体格・腕力のアドバンテージは、ちょっとやそっとの「技術」や「気力」では引っくり返せない。
そもそも素肌を見られようと、身体に触れられようと、男の多くはそのこと自体でダメージを受けないのだ。男女が戦闘する場合、女性はあまりに不利である。
だからこそ、高をくくって女の戦闘力を見下している男の油断、そして性的な外部刺激に単純に反応する男の特性を、麝汞流は最大限、冷徹に利用する。
気がある素振りで抱きついて目や鼓膜を壊す、相手に押し倒されつつ睾丸を捩じってそして…などの技が伝わっている。本家には、裾をめくって肌を見せて敵の気を削ぐ、キスをしながら舌を咬み切るといった技まであるという。
麝汞流に限らず、弱者が強者に技術で対抗する場合、敵がこちらをナメていてくれたほうが与しやすいのだ。鏡太郎の祖母・夕子も言っていた。どんな相手でも…女だろうと、年寄りだろうと、子供だろうと、小柄だろうと、怪我をしていようと、ハダカだろうと侮ることなく、全力で倒しにくるような完璧な平等主義者の男がもしいたら、それは最も恐るべき敵だと。鏡太郎は「格ゲーの世界だ」と感じたものだ。格闘ゲームには露出が多いコスチュームを来た小柄な女性キャラや、老人キャラだっているけれど、超マッチョな男性キャラたちがそれで手加減したり、油断することはない。
そして夏梅は、他に手がない時に意図的に「花」を咲かせる〝武器〟である。
麝香や霊猫香など動物性の香料、黒沈香など植物由来の香料の他、本家の統主のみに代々伝えられる秘密の材料を調合して作られた、身も蓋もなく言えば催淫剤だ。流派名の「麝」は、これに由来する。
男性に激烈な欲情を促し、さらに甘い快美感と陶酔感も与えるという。薬効は1分前後続き、その間、敵は自分の身を守ることなど頭から飛んでしまうそうだ。
本家では、初伝初段に達した16歳以上の門人は夏梅の携行が許されると鏡太郎も聞いていたが、粉末で持ち歩いて、花咲か爺さんの灰みたく敵に投げつけるものと思っていた。個包装されてるなんて。
藍は右手をさっと缶の上に伸ばすと、てのひらを鏡太郎に向けた。掌の窪みに、繭玉が一つはさみ込まれている。
「本家だけ、しょっちゅううずらの卵手品やらされる意味、やっとわかった。最初こうやって見えないように持っといて…」
藍は手首をくるっと半転させ、鏡太郎の視界から夏梅を隠した。
「…男さんの鼻の下のなるべく近くで潰すんだって。ぱすっと」
「ほんとに効き目あんのかな?」
「ええっとね…ある…みたいだよ」
藍が、何か思い出すように眼球を上に向けながら言った。
「ふーん…」
半信半疑な再従兄弟の様子を見て、藍は目をキラキラさせ「実験せむ」と鏡太郎の顔の前に夏梅を突きだしてきた。
「いやいやいや。おかしいおかしいおかしい」
「やっぱわたしほら、理系としてさ」
「やばいってば。こんな密室で藍ちゃんにガォー! とかなったらどうしてくれんの。おれ、本家の胡蝶鞭喰らいたくないんで」
「そっか…再従兄弟同士って、別に結婚できるんだもんね」
「いや、その返しもおかしいから」
「それに胡蝶鞭はきっと北統のやつのが痛いぞ?」
「いや、そういう問題じゃないから」
夏梅は、鏡太郎の祖母が本家を破門扱いとなった理由の一つだった。
夕子は、故意に素肌を見せるなどで男の隙を作る陽動や、夏梅のことを問題視していた。
心を閉じていようと、敵に媚態を示すような技や媚薬まがいの怪しげな薬の活用は断じて現代に相応しいものではない。使う者の心も、大なり小なり傷つけ歪ませてしまう。そんなことをせずとも麝汞流の技は十分に実用に足る。違う面から整理し磨きなおすべきと、若い頃から主張し続けたという。
だが師匠である母…鏡太郎の曽祖母も、双子の姉である夜子も「麝汞流は運動神経に恵まれ、性格的に『護心』の天賦も備える貴女のような人だけのものではない」とついに認めなかったーー。
藍は、夏梅をベビーパウダーの缶にしまいながら訊いた。
「鏡太郎くんは高校どんな感じ? 襟章以外になんか変わったの」
「いや…購買でいつでも焼きそばコロッケ買えるようになったくらい…かな」
「うわぁ本家に虚偽報告しとるわ」
さやかが、カラオケルームの入り口のドアに寄りかかってニヤニヤ笑っていた。
「取ったやんか直弟子」
鏡太郎は、視線をタブレットに落とした。目のほんのわずかな泳ぎすら、再従姉妹は何かを感じ取りかねない。
ドアがノックされて、さやかの姿はかき消える。「お待ちどうさまでしたー」と言いながら、男性店員がバナナチョコハニートーストと飲み物の載ったトレイを手に入ってきた。
〈続きます〉




