第十四話 歴史の記録(一)
使節団が去ってから数日が経過したその日、紹藍は自身の執務室にて筆を持ったまま、自身の描いた絵巻物を見て思わず呟いた。
「……今回の絵は、なかなかの出来かもしれない」
同じ題材で描くとしても、どの場面を切り取るかで印象は大きく変わる。
その時は一番いいと思った場面を頭の中で思い浮かべて描いたつもりでも、きっとまだより良い場面がまだあるはずだと思い続け……ようやく、巻物の初めから最後まで納得できる仕上がりになった。
「一応前のものでも記録としては合格だと言われていたから、今回のものも問題はないはず。これなら私も納得して提出できるし。これでやっと肩の荷が下りるわ」
使節団の接待も大事な仕事であったことは理解しているが、本業が止まっていたことは気になっていた。
(仕事も無事片付いたし、今日は夜に何か絵を描こうかな)
久しぶりに持ち越しの仕事がないと、気分はいつもより開放的だ。
しかし出来上がっても提出するまで気を抜くべきではないと思い直し、紹藍はさっそく画材を片付けてから提出に向かうことにした。
しかしその道中、この近辺では見かけたことのない顔を発見した。
相手は紹藍より二十は年上である、男性官吏だった。
そして男性もほぼ同時に紹藍の存在に気付いたらしく、ゆったりと微笑むと紹藍の方へと近づいた。
「初めまして、お嬢さん。私は蕭承と申します。お嬢さんが噂の宮廷画家殿でしょうか」
「私は鴻 紹藍と申します」
噂がどのようなものかわからないので肯定も否定もできなかったが、名を告げたことで蕭承の目が少し見開かれた。
「鴻……?」
「あの、何か?」
「いえ、知り合いの御息女かと思いまして」
蕭承の言葉に紹藍も首を傾げた。
母親に官吏の知り合いがいるとは聞いていないし、そもそも珍しい姓ではない。
ただ、紹藍には鴻姓を名乗る知り合いはいないのだが。
いずれにしても知り合いの娘ということは考えにくいだろう。
「もし鴻という官吏が他におり、その方と親族かという意味でしたら、私とは関係ない方かと。私はここで働く以前は官吏の知り合いはおりませんでしたので」
「……失礼いたしました。いえ、私も突飛かとは思ったのですが」
「それほどお知り合いの方に似ているのですね?」
今まで父と似ていると言われたことはあっても、母の姓で誰かの親類だと思われたのは初めてなので少し不思議な気にもなった。
紹藍の言葉に蕭承は苦笑いを零した。
「大変失礼いたしました。改めて本題でございますが……私は工部で働く者であなたに仕事を依頼したく参りました」
礼部に続き工部でも仕事があるということに紹藍は驚いた。
しかし、ここで詳しい話を聞いても二度手間をかけることになる。
宮中での仕事を受けるか受けないか、その決定権があるのは自分ではない。
「では、まず江遵様のところに参りましょう。私もちょうど向かっているところですので」
次の仕事は決まっていないので、そこで許可が出ればそのまま依頼を受けることになるだろう。幸いにも今の雰囲気からは急ぎの用件ではなさそうなので、今日の夜に絵を描こうと思っていたことには影響もしないだろう。
そんなことを考えながら連れ立って江遵のところに向かったのだが……江遵は二人が並ぶ姿を見るなり、何度か目を瞬かせていた。
「江遵様? いかがなさいましたか?」
「いや……意外な組み合わせだったからな」
「ここに来る途中からご一緒することになりまして。江遵様は蕭承様をご存知なのですか?」
「ああ。ようこそ、蕭承殿。今日はどの様なご用件でしょうか?」
本当に顔が広いんだなと思いながら紹藍は邪魔にならないように一歩下がった。
「実は、宮廷画家殿にお願いがございまして参りました。ご存知かもしれませんが、間も無く商人たちが行き交う朱雀大橋の架け替え工事が始まります。新たな橋も長年親しまれた橋同様立派なものを作る所存ですが、せっかくこれまで我々を支えてくれた橋です。美しい姿を残してもらえたら、と思いまして」
「なるほど」
「もちろん我々のほうでもすでに記録はしているのです。ただ、陛下の好まれる画風でも残すことができれば、様々な美しさを後世に伝えられるのではないかと思いまして。先の祭典の絵もとても好評であったとは存じております」
「今のところ予定に問題はない。急ぎの仕事はないな?」
「ええ。この絵巻物を提出すると、手持ちの仕事はなくなります」
「では蜻蛉省としては問題ない」
「ありがとうございます」
蕭承は穏やかな表情で嬉しそうに礼を口にする。
紹藍としても本業らしい仕事であるので大歓迎だ。
「蕭承様、ひとつだけお願いをさせていただきたいのです。朱雀大橋の場所はわかるのですが、もしよろしければ一度現地までご一緒願えませんか? お忙しいとのことでしたら無理にとは申しませんが、どのような角度で描くことをご希望なのかお聞きできたらと思っております」
自分が一番いいと思う角度で描いてもいいのであればそれで済ませるが、これは仕事だ。
相手の希望があってこそであるし、記録として残すことに重きを置くのであれば、なおのことその意図が一番出る角度がいいだろう。
「そうですね。ご一緒いたしましょう。私はある程度時間の融通が効く立場ですので、いつでも構いませんよ。近日中でしたら、明日にでも。詳しい時間の候補は後で使いを送ります」
「お気遣いありがとうございます。ですが私は本当に何時でも構いませんので、ご都合の良い時間をお知らせいただければと思います」
見た目通りであるなら、おそらく蕭承はそれなりの地位にいる人間だ。
時間を融通できるというのも、そういった意味合いがあるだろう。
だがどう考えても次の仕事がこの仕事である自分のほうが時間の都合はつけやすいという自信が紹藍にはある。
「ありがとうございます。では、よろしくお願いいたしますね」
そうして蕭承が去った後、紹藍は江遵に絵巻物を提出した。
広げるには江遵の机は様々なものが広がりすぎているので、今日も後ほど中身の印象を伝えられるのだろうと紹藍も早々に退出しようとした。
が、部屋を出る前にどうしても紹藍は江遵の表情が気になった。
「……江遵様、なんとなくですが……今、面倒なお仕事を抱えておられるのですか?」
「いや? どうした」
「いえ、なんでもありません」
「そうか。ああ、もう今日は仕事を終えて構わないぞ。頼む雑務もないしな」
「ありがとうございます」
先程はやや違和感があるように感じたが、今の声に偽りはない。
(江遵様の仕事で何かがあるわけじゃない……じゃあ、私の仕事? いや、それもないか)
少なくとも蕭承からの仕事に面倒ごとが含まれているのであれば、江遵は一旦考慮するという形で蕭承を帰したことだろう。そして説明をしてくれると思う。
しかしどちらでもないというのであれば、もう紹藍に思いつくものはない。
(……まあ、いいか)
自分に関係がないのであれば、詳しく聞いても仕方がない。
もしかしたら他の蜻蛉省の一員のことなのかもしれないが、それなら聞かない方がいいことだってあるだろう。
そう考えた紹藍は軽く背伸びをしてから自室に帰ることにした。
次の仕事は朱雀大橋を描くことだとわかっているだけで、今は充分なのだから。




