第三話 後宮の風景(上)
後宮の門番に身分証を提示すると、紹藍は実に不可解だと言わんばかりの表情を向けられた。
偽造だとは一寸たりとも疑われていない様子だが、官吏には見えないと言いたげだった。
尤も紹藍もそれは当然のことだと認識しているので、今更気にすることなどない。
門を通り抜けられるなら問題はなく、絵を描くことにも支障はない。
門番に普通の声ならば届かないところまで歩いた紹藍は小さく呟く。
「ここが後宮。私の職場」
そう呟きながら周囲を見回し、想像より落ち着いた場所だと紹藍は思った。
明確な予想図があったわけではないが、妃たちが住まう場所となれば煌びやかな印象を抱いていた。
しかし建物自体は宮城の一部であることもあり、厳かな雰囲気は統一されている。
とはいえ、建物の雰囲気が同じでも受ける印象までまったく同じだというわけではない。後宮はやはり女性が暮らし、働く者も宦官を除けば女性ばかり。そうなると響く声は他所より高く、同じ建物でも違う世界なのだと感じられる。
加えて庭木も花がついているものが多く見られるし、地植えの花も少なくはない。
「でも、なんだか見せるために用意された風景っていう感じがしてあんまり描く気がしないわ。それに、ここで書いていたら悪目立ちしすぎるわね」
人が通る場所なのだから特に綺麗に整えられているのだろうが、作り物らしすぎる風景は紹藍の好みではない。
(そもそも江遵様のご依頼をこなすのであれば、陛下に見ていただく絵には妃たちの人となりを描くことが必要だわ。そのためにはそもそもの後宮の雰囲気を知る必要もあるはず)
どういう人たちがどのように働いていて、どんな話をしていて、どのような環境で妃たちは暮らしているのか。
それを知ろうとするのであれば、やはり見せるための場所など何の意味もない。
そう考えた紹藍はゆっくり散歩を始めた。
(できれば周囲の邪魔にならず、私も集中できる場所がいい。なおかつ、人の雰囲気も見れる場所がいいわよね)
となれば、割と隅の方が適当だろう。そう考えながら、紹藍は都合の良い場所を探した。
すると、やがて好みの場所が姿を現した。
「水榭だわ。柳もあって素敵な場所ね」
普段妃たちが使うかどうかはわからないが、池の中央付近の岩では亀が日光浴をしており、雀の鳴き声が聞こえることも相まって平和そのものだ。
水榭自体は人工物といえども、煌びやか過ぎず風景に溶け込み、少なくとも水榭や池の手前の方には藻が多くあることで飾り気のない状態も個人的には好みであった。
「でも……この場所じゃ、あまり人の様子は見れなさそうね」
描くことで注目を浴びるのもいかがなものかと思うし、かといって人の様子が窺えないのも物足りない。
そんな我儘な希望を叶えてくれる、かつ、描きたいと思わせられる場所はないものかと紹藍が思っていると、ちょうど池の側を可愛らしい少女が通った。
服装から察するに侍女だと思われる少女は多くの荷を抱えながらも楽しそうに歩いている。
紹藍は思わずその顔をじっと見てしまった。
(あの子の主人は、きっと良い人なのね)
そのことがすぐに察せられるほどの少女の姿に、紹藍は少し緊張がほぐれた気持ちになった。
そしてどうせ初めてこの場で描くなら、楽しげな少女を描くことで景気付けにもなるのではないかと思った。
そして、その後描いた水榭の絵に少女の姿を添えた。
少女のように皆が楽しそうに働けるような場所であれば、妃の絵を描くということも困難が減る……そんな楽観的な希望をほんの少しだけ抱きたくなった紹藍だが、すぐにその希望は打ち砕かれた。
それは絵を描き終え蜻蛉省に戻ろうとしたときのことだった。
女性が集団となり、怒鳴り声のような、金切り声のような、そんな声を上げている場面を目撃した。
正確には一対二と、その他野次馬といったところだろうか。
(典型的な揉め事だわ)
ありのままの後宮を知りたいのでこれはいい場面に遭遇したといえるのかもしれないが、できれば存在しなければいいのにと思ってしまう事柄もある。
ただ、女性同士の揉め事など後宮の外でもよくあることなので、ここにだけないなど最初から思ってはいないのだが……。
(って、あのお一人様のほうはさっきの侍女っぽい子じゃない)
さらに驚くべきは二人組のほうの女性の一人は緑の……おそらく翡翠があしらわれた簪を挿している女性がいた。
(ということは、あの人は四色夫人の一人、緑妃、清梅花様か)
赤、白、緑、黒と四人の上級妃がいることは市井でもそれなりに知られていることである。
普段着の色であれば他の妃も着用することはあるだろうが、装飾品に関してはそれぞれの妃の色とあえて被せることはないだろう。
ただし緑妃はどこか一歩引いたところで状況を眺めているように見えた。
実際に叫んでいるのは、彼女の前に立つ緑妃の侍女らしき女性だ。彼女はずぶ濡れの状態だった。
「あなた以外に誰が犯人だというのよ!」
「存じ上げません!」
「惚けないで! 縁起が悪いと皆が避け、あなたくらいしか通らない池の中から緑妃様の簪が見つかったのよ。それでもシラを切る気かしら!?」
そう言いながら緑妃の侍女が前に突き出したのは、今実際に緑妃が身につけているものより多く石をあしらったものだった。
そんな光景を見ながら、紹藍は首を傾げた。
(え? 縁起悪いの?)
帰りにほかもぐるっと回ったが、人が通らなさそうな場所にある池は自分が描いたところだけだった。だから自分がいた場所で間違いないだろう。
縁起の良い亀もいる場所の何が縁起が悪いのかと不思議に思いながらも、場所が間違っていないのであれば緑妃の侍女の主張は妙だと思った。
しかし紹藍の気持ちとは裏腹に周囲もその主張に同意する空気が漂っていた。
「確かに明明は緑苑宮の側を歩いていていることも多いと聞いたことがあるわ」
「それに、明明は黒妃様の侍女だもの。緑妃様の邪魔をしたって不思議ではないわ」
少女改め明明に持論を主張する侍女の姿が濡れ鼠のようであることもあいまって、雰囲気で形勢が決まりつつある。
しかし内容が伝聞や想像で、本人を見たようなものでもない。
「黒妃様を悪く仰らないでくださいませ! 嫌がらせをするようなお方ではありませんし、私も無関係でございます!」
「なにを……!」
そうして緑妃の侍女が手を振り翳した時、紹藍は足を踏み出した。
「お取り込み中申し訳ございませんが、少し落ち着かれてはいかがでしょうか?」




