第二話 蜻蛉省の役人
勧誘から三日が過ぎた、正午過ぎ。
紹藍は宮城の一角で、後宮に比較的近い場所に与えられた自室で自分の荷物を解いていた。
(こんなところに足を踏み入れるどころか、まさか住むことになるとは……)
本来ならば通いでも構わないらしいのだが、紹藍の住まいである下町から通えば服装だけで激しく目立つ。
その上仕事の内容が皇帝に関わることなので、外部との接触を減らし、下手に口を滑らさないようにしておくほうが無難だ。住み込みの提案を受けた紹藍は迷わず住み込みで働くことを選んだ。
(前払いの給金でお母様も療養所で暮らせることになったし、この選択は正しいはず)
ただ、この状況にまでなっていてもなお『本当に雇われたんだよね?』と、何処か実感が湧かない部分もある。
騙し討ちのように雇われたので、雇われたこと自体も騙し討ちではないかと何処か疑ってしまうのだ。
そんなことを考えていた時、扉の向こうから声がかかった。
「開けても構わないか」
「あ、どうぞ」
江遵の声に紹藍はすぐに了承した。
そして、その姿に少し驚いた。
「どうかしたか?」
「いえ……下町のお姿は私服だからかと思っていたんですが」
「ああ。堅苦しいのは苦手だからな」
いくらか着崩したように見える姿は、本人にも自覚があるらしい。
官吏、しかも副長官という立場ながらそのような振る舞いでいいのかと紹藍は深く疑問を感じたが、誰も注意をしていないのであれば、少なくともこの男に関しては問題がないのだろう。
同時に、服装程度では何も問題とされないほどの実力者であるのだろうとも思う。
「そんなことより、雇用契約を記してきた。目を通してくれ」
「はい。ええっと……一つ、官吏に準じて登用する。配属は蜻蛉省と定める……って、実際に官吏扱いなんですか!?」
「言っていただろう?」
「お給金面での待遇は確かにお聞きしていましたけど、官吏扱いでの登用とはお聞きしていませんが!?」
「なんだ、そんなことか。似たようなものだろう」
「ですが、私は科挙に受かるほどの頭脳など持ち合わせていません!」
それなのに準じた扱いなどを受けては、勉学ができなければこなせない仕事まで回ってくるかもしれない。そう紹藍は焦るが、江遵は軽く笑った。
「ああ、問題ない。ただ単に宮廷画家の定めが現在ないゆえに、そうするしかないといっただけだ」
「ですが」
「それに元々、蜻蛉省には科挙の合否など関係ない」
「どういうことでしょうか?」
「その前にひとつ。蜻蛉は如何なる存在か、知っているか?」
「ええ、まぁ、一応おとぎ話程度なら」
この国で蜻蛉といえば、他の昆虫より親しみを持たれている。
その一つが、神話の中で蜻蛉は人の魂を天に届ける役目を担っているとされているからである。
そして、同時に天から天子……つまり皇帝に言葉を伝える使いともされている。
「蜻蛉省の名の由来は、各々が皇帝の使いとなり利益を届けることを目的としている。つまり陛下のお役に立つか否かが最も重要視されることである直属部隊……もとい雑用係だ」
「最後、えらくぶん投げましたね」
「堅苦しくしたいわけではないからな。自由に勧誘可能で予算も別枠でやりたい放題と言えば、それも納得してもらえるとは思うが」
「なるほ、ど……? あまりにも自由度が高いと、他の部署に贔屓だと妬まれそうですね」
しかしこれは実際よりよく言っているのだろうと紹藍は冗談まがいに言ってみると、江遵は笑みを浮かべるものの言葉を発さない。
「え。本当にそうなのですか?」
「まあ、あったりなかったり……というよりは、珍しくはないと言っておこうか」
「えらく不吉なことを言ってくださいますね」
絵を描くという業務のみであれば他者と共同で仕事をするということはないだろう。だから紹藍に大きな影響があるわけではないとも確かに言える。
(でも官吏自体が珍しいのに、女性官吏なんて今の陛下が皇位を継がれてから始まったことだし……ちょっとしたことでもすぐに浮きそう)
ただでさえも目立つのであれば、下手に目立つことはしないよう平穏に過ごそう。
そして、常識の枠から少し外れているらしい江遵の言葉は裏があるのではないかと常に気を配りながら過ごそう……。
そう、紹藍は遠くを見つめながら改めて考えていると、江遵が思い出したかのように廊下を見た。
「そうだ、まずは仕事道具が必要だろうと思い、いくつか持ってきた」
「え? もういただけるのですか?」
「ないと仕事ができないだろう」
そう言った江遵は廊下へ向かって「いいぞ」と話しかけた。
どうやら人を待たせていたらしい。
その人物は江遵と違いきっちりと服を着ているのだが、江遵の指揮下にいるのでおそらく部下、つまり紹藍の同僚なのだろうと想像できるが……それ以上、その人物に対し注意を向けることはできなかった。
なぜなら……。
「紙の山ではありませんか!!」
しかも見たことのない上質な紙が山積みされている。
好きに使えるとは聞いていたが、これほどのものが用意されているとまでは想像できていなかった。
「筆も太さが異なるものがこんなにもたくさん……! 触り心地も素晴らしいではありませんか」
「目が輝いているな」
「だって、こんな素敵なものは見たことありませんよ!?」
興奮するなという方が無理な状況に、紹藍は先ほどまで大量に抱えていた不満を一時的にとはいえ忘れていた。
「ならばよかった。しかし慣れぬ道具であることには違いない。まずは使い心地を確認する上で、いくらか描いてきてはどうか」
「よろしいのですか!?」
「ああ。ついでに後宮で景色を描くのであれば、雰囲気も掴めばいいだろう」
その言葉に紹藍は少し現実に戻された気もしたが、仕事だとしてもこれらのものが使えるならばすぐにでも試してみたいところでもある。
しかも後宮で描くのであれば、絵になる、見応えのある建物も少なくはないだろう。
「ああ、あと墨はここにあるんだが」
「わかりました、すぐに支度をして行ってまいります」
いずれにしてもやらねばならぬことであるなら、やる気が高まっている時の方が断然良い。
そう思いながら、紹藍は早速持ち出す筆などを厳選し始めた。
「やる気が溢れているのはいいことだ。後宮内の略図を渡しておこう。皇太后の住まいである幻冬宮には近付かないように。警備もいるため間違ってはいることはまずないと思うが」
「ありがとうございます」
「あと、描いてもらう予定の妃はひとまず四色夫人をお願いしたい。現在皇后は空位ゆえに、事実上最上位である四名だ」
「……ええ、そうなるだろうなと覚悟はしてますよ。全員いきなり描くことにならなかったことは感謝します」
少し気持ちに水を差されたような気分にもなったが、仕事は仕事だ。
そして仕事をきっちりと仕上げるためにも、まずは下見がてらの写生を行うことが必要なのだ。




