玖:狐は何匹?
『じゃあ、真人さんの話をしてくださいよ。家族とか友達とか。何でもいいですよ』
『そんなことでいいのかよ』
このひょんなやり取りから、凛子たちの奇妙な関係が始まった。
とはいっても、初めての夜は真人の話を聞き出すことは出来なかった。なぜならば、凛子はあまりにもくたびれていたので、敷布団に滑り込むとすぐに盛大な寝息を立てて寝てしまったからである。
真人は律義にも、約束通り全く何もせず、それどころか布団から半分以上はみ出して寝ていたことを凛子は知る由もなかった。
「結局昨日は血眼にして起きていたのに、聞けなかった……」
恨めしそうに呟いた凛子に、真人は「残念だったな」といって笑ったのだった。
☆
「何よ、いいことがあったわけ?」
「うふふ」
向かいで凛子があまりにも、さも聞いてほしそうな雰囲気を出して見つめている。咲良は一向に興味がわかなかったが、訳を尋ねずにはいられなかった。
(どうせ、真人さんの話でしょう)
咲良は二人の間で何かあったのだろうとは気付いていた。
七冶は凛子のもとを去ったという話は聞いていた。しかし、てっきり咲良は毎晩愚痴やら泣き言を聞かされるかと思えば一向にそういうことはく、ケロッとしている。その上、あれから今日あったのが初めてにも関わらずこの間抜けな表情である。なんとも単純明快な女だ、咲良は思わずにはいられなかった。
「真人さんの過去の話を聞くことを条件に、毎日一緒に寝ることにしたの!」
咲良は最初、意味が分からず一瞬首を傾げた。しかし、次の瞬間笑い転げてしまった。
「ば、馬鹿じゃないの凛子……グ、グフフ」
「ちょっと笑うとこじゃないんだけど! 勘違いしてるでしょ何か」
咲良は目じりの涙を拭きながら、尚もまだ腹を抱えて笑った。おめでとう、というべきなのかと考えあぐねる。凛子は不服そうな顔をしてこちらを見ていた。
その時ちょうど、「おっひさー!」とよく響く濁声が耳に届くと同時に、肩を叩かれた。
「ぽんちゃん!!」
凛子が曇った表情を一変させ、席を立って手招きする。
「凛子、なんかかわいくなったわネ?」
ぽんちゃんは大きめのサングラスを頭の上にずらして言った。
咲良があの日――初めて二人のタイムスリップしてきた軍人に出会った日に連絡をしたのはこの中性な顔立ちのぽんちゃんという幼馴染であった。
「ちょっと、売れっ子探偵事務所の名探偵さん、凛子がまた意味が分からないこと言ってるの。助けて……ブフッ」
吹き出しそうになるのをこらえながら、咲良はぽんちゃんに抱き付く。
「もういいよ、私の話はそんなに重要じゃないし。それより七冶さんの例の件はどうだった?」
凛子が明らかに不機嫌そうに咲良を手で制す。そして、ぽんちゃんを急かした。
そうだ、今日集まったのは他でもない、あの日ぽんちゃんにお願いして調べてもらった七冶の身元の話であった。
「それもそうね! ま、単刀直入に言うと、七冶さんの娘さんはまだご存命よ」
おお、と凛子と咲良は同時に顔を見合わせると声を上げた。
「ここに住所がある。雑誌の取材ってことで話は付けといたから、夏季休暇でも行ってみなさい」
そう言って、ぽんちゃんはごってごてにネイルした爪で、七冶の娘さんの住所を書いたメモを凛子に渡した。
「それと、京極七冶という人物、確かに存在したっぽいわネ」
ぽんちゃんはiPadの電源を持ち出すと、かなり年季の入った書物のスキャン画像を出した。「ここみて」と指をさした先には、確かに七冶の名前があった。
「大和の乗組員の死亡者リストに載ってたの。それで――」
続けて画面をスクロールすると、さらに同じく年代物の書物の画像が出てくる。
「村形真人、彼もまた戦死者として載ってるの」
「お、沖縄戦……」
ぽんちゃんが見せた画像を見ながら、凛子が驚いたような表情を見せる。
「知らなかったの?」
咲良が尋ねると、凛子はコクコクと呟いた。だから、過去を知るためにあんなことを――。咲良は顔をしかめた。
「それとね、これは一つの可能性なのだけれど、二人だけしかタイムスリップしていない……なんてことあるかしら?」
「確かに、おかしいと思った。二人は顔見知りでも何でもないようだったの。分かる情報の中で、共通点は何もない。歳、生まれ、向こうでのタイムスリップ時の日付、そしてさらに場所まで」
凛子が早口に続けた。
「ワタシ、もう少し調べてみようと思うの。凛子も真人さんのこと、何かわかったら小さなことでもいいから連絡頂戴ネ」
ウンウン、と小刻みに何度も頷く凛子とバッチリ目が合う。「な、なによ」と、凛子が訝しげな眼でこちらを睨む。
「まあ、アンタも逸る気持ちは分かるけど、体を大切になさいね。男はみんな夜はケダモノよ――」
咲良が言い終わるか終わらないかのうちに、凛子は「だーかーらー!!」と叫んだ。
そして、凛子が昨日の話を事細かに話し、咲良の“誤解”を解いたころには、ぽんちゃんも交じって二人で笑い転げることとなった。なかなか笑い止まない二人を、凛子は始終白い目で見ていたのだった。
☆
その晩も、凛子は寝支度を済ませるとiPadを片手に布団に滑り込んだ。肘をついて、iPadを立てると、ルンルン顔で今日の女子会の写真を見ていた。
「何だおめーは、気味が悪ぃな。犯されてえのかよ」
凛子はふと真顔に戻ると、ブンブンと頭を横に振った。
「今日、久々に幼馴染三人集まったんでたくさん写真を撮ったんですよ」
そういって凛子は写真を見せた。
「こっちがこの前会った、サクちゃんですね。んで、こっちがこの前言った七冶さんのことを調べてくれた友達。探偵やってるぽんちゃんです」
「おい、こいつ」 と言って、真人がぽんちゃんを指差した。
「どっちなんだよ」
凛子は真人の言わんとしていることをすぐに察すると、iPadのお絵描きモードで『LGBTQ』と書いた。
「ぽんちゃんはこれです。だから男であり、女である……が正解なのかな」
そういって真人にiPadを渡した。
「なので、ぽんちゃんは仕事で女性になるときはカオリちゃんになるし、男性になるときはカオルくんになります」
凛子は続けて『本田薫』とぽんちゃんの本名をタッチペンで書いた。
「真人さんの時代だと、性別って男か女しかないと思うんです。でも、今では男や女以外の性別も認めますよってなったんです。だから体は女で心は男、とか、体は男だけど男が好き、って人もいて当たり前だよねって言うことになったんですよ――」
凛子は真人の方をチラッと見ると、ハッとして口を噤んだ。何やら様子が変だった。嫌なことを思い出したのか、考え事をしているのかは分からなかったが、険しい顔つきでになった。
その表情を見て話題を変えた方がよさそうだと、凛子は判断した。
「えーっと、あの、真人さんにも幼馴染や仲いい友達っていました?」
凛子はドギマギしながら、慌てて話題を変えた。
「いねぇな」
真人がぶっきらぼうに答えた。
じわじわと手汗に嫌な汗がにじみでる。気まずい時間が流れた。
「じゃ、じゃあ家族の話を聞かせてくださいよ。昨日の約束だったじゃないですか!」
変に明るく凛子が言うものだから、真人が不審そうな顔を上げた。
「あのな、リン。お前は何か勘違いをしているようだから一応釘刺しておくが、お前の思うような楽しい話は出てこねえからな」
「だ、大丈夫です! 何かこちらの世界に来たことについて、ヒントがあればなって思って聞いてるだけですよ」
凛子は、ぽんちゃん――薫と今日話した、ほかにタイムスリップした人がいる可能性について併せて説明した。しかし、沖縄戦の下りは何だか言ってはいけない気がして、言わなかった。真人の口から聞けるまで、知らなかったことにしておこうと決めた。
「へえ、その“男女”の探偵に伝えれる話があればいいな」
「どういう意味です?」
「お前もわかっているだろうが、俺は生まれ落ちてこの方、まともな人間生活なんざ送って来てやしねぇ。人間関係もしかりだ。戦争でみんな頭がトチ狂ってやがんだよ。胡散臭え大人と、薄気味悪いガキ共しかいない。だから――」
そういうと凛子を指さすと、気短い口調で続けた。
「お前だけなんだよ、こんなに七面倒臭く俺に踏み込んで来る奴なんか」
責められたように感じた凛子は、「すみません」と口を尖らせて言った。
だが、真人はそんな凛子の頬をつまみ上げると「馬鹿が、そんな顔すんな」といって笑った。
(良かった、いつもの真人さんだ……)
凛子が安堵して笑い返すと、真人はぽつりぽつりと話し始めた。
「家族と呼ぶに相応しいかは分からないが、士官の父親と遊女の母親、血の繋がっていない兄がいた。兄は戦死、母は病死。父親は生きてるかすら知らねえし、兄は葬式すら出てねぇよ」
真人は凛子の横に転がると、続けた。
「こっから先は、お前の気持ちを聞いてからだ。俺は、お前に全て受け止めてほしいと思ってる。俺が犯した罪、受けた恥辱、俺の無様な生き様……全部。けどよ――」
言いかけて、天井を見つめる。眼帯で表情は掴めない。凛子は固唾を飲んで聞いていた。
「今になってお前を失うのが怖くなっちまったんだよ。お前は絶対に俺を軽蔑するに決まっている。顔も見たくないと思うだろうな」
凛子は先ほどの話とも照らし合わせて、凛子に固執する彼の気持ちが少しわかった気がした。凛子も似たようなものだからだ。寂しいのが嫌で犬が飼いたいと駄々をこねた幼少期の自分を、ふと思い出した。
あの頃は何て声を掛けてほしかったっけ、何をしてほしかったっけ……。そんな、遠い遠い昔の感情なんて忘れてしまっていた。
そんな凛子の心情を知ってか知らずか、真人は凛子に詰め寄ると冷たく言い放った。
「そこでだ。俺は、お前には立ち去る選択肢を与えないことにした。俺を受け入れるか、そうでないならここで八つ裂きにされて死ぬかだ」
あまりに時代錯誤すぎるセリフに、凛子はわっと冷や汗が流れるのを感じた。真人の死生観や生殺与奪の類の言葉は、とてもはったりには聞こえないのである。
「そ、そんな冷酷無情な……」
凛子は心の中で咽び泣いた。先ほどの好奇心に心躍る気分だった自分を平手打ちしたい気分だった。
「そんなこともねぇよ。お前を殺したら、俺も死ぬ」
そういって片頬笑んだ。
こりゃ太宰治もびっくりな心中の申し出だ、と言いたいのを寸でで抑える。しかし、凛子はこれを受け入れることにした。恐怖よりも、真人を知りたい、という気持ちが勝ったからである。
いままでずっとLGBTだと思っていたんですが、
最近では
Qといって
自分の性別をを決められない、分からない、または敢えて決めない人や
エックスジェンダーといって
男女のいずれかとは明確に認識していない人
などの区分もあるそうです。
参考文献
https://tokyorainbowpride.com/lgbt/