拾:狼子獣心
一九一七年、村形真人は東京市麻布区に生まれた。血の繋がりの無い父親が遊郭で母親を身請けした時、既にお腹に居たのである。本当の父親は不明。
母親は正妻ではあったが、いつ捨てられるかも分らぬ重圧があった。その皺寄せは真人に向いたのである。
幼少期から読み書きそろばんを教え込まれた。出来なければ折檻である。飯を抜かれることや外に締め出されることは度々あった。
この気概は母親が結核で死ぬまで続いた。
母親の教育への熱を加速させたのは、異父兄の存在もあった。彼は文武ともに秀出していたからだ。
母親は父親と兄に迎合し、毎日歯の浮くような言葉で機嫌を取った。一方で真人少年も小中共に成績優秀であったが、学年で一番をとっても、喜ばれることは決してなかった。
しかし、母が遊女であることは知っていた真人は、心の中で男に媚び諂うことでしか生きられない哀れな母親を見下すことで、何とか自我を保っていた。
真人の女性蔑視な言動の根源はこうして形作られていったのであった。
父親は寡黙で、幼少期は全くと言っていい程関わった記憶が無かった。
しかし、小学校に上がって程なくしたころから、徐々に父親の態度が変わり始めた。
真人の著しい体格の変化に、さらに母親の“熱心な教育”も合わさり、無期待が向いたのである。関心であった幼少期の態度が一変した。この時に母親に加えて、父親の体罰も加わったのである。
「根性を叩きなおす」
父親は海軍精神注入棒――いわゆるバッターで事あるごとに殴った。
尾てい骨が折れたこともあった。毎日生傷と痣が増えて行った。同級生も、先生も、近所の人たちも見て見ぬ振りをした。村形家は地元で最も権力のある良家だったからだ。
目上の者に逆らってはいけない、と徹底的に扱かれた。中学生になって、体格で父親を凌駕する年齢になっても少年が逆らうことは無かった。
稀に家に帰って来る兄も、稽古をつけるという名のもと痛ぶったが一度も逆らわなかった。
しかし一度だけ、父に手の甲を葉巻で焼かれたことがあった。驚いた少年は、父親を突き飛ばしてしまった。ほぼ反射的な自衛であった。
だが、何とも不遇にも逞しく成長を遂げてしまったために、あろうことか父親を打撲させてしまったのである。
父親は能面のような顔付きになると、彼の首根っこを掴み炊事場に連れて行った。窯の前に立たせると、まだパチパチと仄かに燻っている火元目掛けて、頭を突っ込んだのである。
何が起こったか分かった瞬間、余りの痛みにのたうち回った。叫んでも、顔を動かしても、涙を流しても痛くて堪らなかった。自分の顔が焼ける匂いは何日も続く思いがした。
顔の左半分に渡る焼け爛れた痕は、この時に出来たものだったのだ。
中学の半分を過ぎた頃母親が死んだ。
そして、これを転機に父親の性虐待が始まった。始めは抵抗したが、縛り上げられ動けなくなるまで殴られた。
その内、考えたり抵抗したりするのを辞めるようになった。バッターで殴られるよりは楽な仕事だった。しかし、唯一嫌悪したのは、見下していた母の“女の役割”が自分に回ってきたことである。そう、村形家で真人少年はヒエラルキー最下層であったのだ。
そうだと分かった瞬間、自分の中で何かがぐちゃぐちゃになる感覚を覚えた。
そして、家に帰らなくなった。
しかし、もし学業を疎かにでもしたら殺されるという恐怖があったため、勉強道具は一式常に持ち歩いた。学校も通っていた。
女や老人しかいない家を狙って、天井裏に住み着いた。バレたら女子供老人問わず、殴って逃げた。躊躇したら殺される未来が待っていたからだ。それからというもの、盗み、強請り何でもやった。
この時から真人青年は、喧嘩は負け無しという程に強かった。そのため、生活に困ることは無く、益々家から足が遠のくのだった。
中学を卒業し、暫く放浪していた。やがて業を煮やして顔を利かせた父親が勝手に海軍兵学校に入学させた。19歳の時だった。
「親の顔に泥を塗るような奴は死ねばよかったのに」と言って、久々に帰路につくと、そう言ってまた動けなくなるまで嬲られた。しかし、海軍兵学校は江田島にあったため、今宵が最後だと歯を食い縛った。
さらに、江田島の生活は苦痛だった。寮生活で他人との生活を強いられる。紳士であることを強いられる。さらに同級生の仲間意識も強かった。未来についてお互いに熱く語り合う彼らとは、全く打ち解けずにいた。
戦争の色が段々と濃くなり始めた頃、同期たちは、次第に“どうやって戦地で散っていくか”について語り合うようになっていった。一方、学業でも、如何にして生き残るか、というより如何にして死ぬかに重きを置いた教えがなされた。
そして卒業する直後に退学。志願兵として大日本帝国陸軍に服役することとなる。
「なまじ、寮ではいい生活をしていたからな。路上生活にはもう戻れなかった。飯も寝床も仕事もあると思って志願した」
志願兵としての服役は見込み通り、生きていく分には何の不自由もなかった。きらきらとした目で夢を語る少年兵が少数いる程度であった。古参兵によるリンチは酷かった。ずば抜けて体格のいい真人は目立つ。すぐに目を付けられた。
毎晩理不尽なリンチが行われた。しかし、ほとんど鉄拳、革靴、拳銃の帯革で殴られる程度である。下手すれば死ぬバッターより痛い折檻は無かった。周りが失禁したり逃げ出したり泣き叫ぶ中で、真人は涼しい顔で乗り切った。
そして、1945年の沖縄戦の配属に至るのである。
「沖縄は本土に攻め入らせないための捨て石だった。まともに戦ってちゃあ犬死だ。そこで、俺はやってる振りだけして生き延びることを第一に考えることにした。周りが家族や友人を守るために死ぬ、そう言って死に場所を探していたころ、俺は無様にも逃げまくった」
だが、戦局は刻一刻と悪くなって行く。それにつれて周りもおかしくなっていった。間諜を疑って味方を私刑に処す者、民間人の女子供を凌辱する者、命辛々戻ってきた味方をリンチする者……。
「岸壁から海を見たときに、沖縄の海の周りは敵船で真っ黒になっていた。それを見た時に、俺は逃げに全振りしても生き延びれるか不安になっちまった。それから俺は生きるために命を奪う側になったんだ。敵兵を何人も殺しただろう。生きることに必死すぎて、何も覚えちゃいないがな。ただ……、初めて撃ち殺した奴の顔は今でも覚えてる。あぁ殺しちまった、今死んだ、その感覚があった」
それから、彼は刺突爆雷の班に割り当てられた。これが悲劇の始まりである。
真人が最も嫌悪感があったのは、こうした特攻兵器を使った肉薄攻撃である。最初は脱走しようと考えたほど嫌な仕事だった。
刺突爆雷は歩兵が周りを歩く戦車に肉薄で突撃する作戦だった。さらに、この兵器の爆風は使用者のほんの1,2m先で起こる。使用者の安全は考慮して設計されていないのだ。それほどまでに沖縄戦の戦局は悪化していた。
「あんなモンでどう戦うって言うんだ? 俺は呆れたね。大体の奴らが誤爆したり、突撃するまえに蜂の巣さ。想定通りに攻撃できた仲間を俺は見たことない。けど、一つだけ生き残れる使い方があった。投擲すんだよ」
刺突爆雷の投擲は命中率が落ちるため、御法度となっていた。しかし、真人は当日これを実行した。その筈だった。
「投げる寸前で誤爆しやがった。それでこのザマだ」
そう言って、失った右腕を顎で指した。
「ここで死んどきゃ良かった。そん時は何度もそう思った。けど、俺の体はしぶとく、死なせちゃあくれなかった。こんな体になっても生きてやがったんだ」
野戦病院で手当てを受けて数日経ったある日の夕刻。真人は古参兵三人に外へ引き摺り出された。何かと因縁をつけてくる四人組の内の三人だった。不在の一人は真人の班に配属されていた古参兵であった。激痛と発熱で朦朧とする中、嫌な予感がした。
その予感は的中、真人は人生で二回目の凌辱を受けた。やはり予想通り、そのリンチの目的は真人への報復であった。激痛に呻きながら抵抗すると、父親の時と同じように動けなくなるまで殴られ、そして犯されていく。中盤から抵抗するのをやめた。
すべて終わった後、生暖かいものが頭から滴り落ちた。
放尿されたのだ、そう理解したとき、真人の心はポキリと音を立てて折れた。
「当時軍人や民間人問わず、集団自決が流行った。俺はその噂を耳にするたびに、馬鹿なことを、とせせら笑っていた。けど、大馬鹿なのは俺だった。俺は馬鹿にしていた自決すら、したくても出来ない状態まで落ちぶれちまった」
それから何時間、何十時間経ったかわからない。野戦病院で複数の爆発音が鳴った。建物の中で、集団自決が始まったのだ。
「逃げれない傷病兵のために手榴弾やカミソリが配られてたのさ。俺はここでもまだ死ねないのかと悪運の強さに絶望した。ここまで必死に生きてきてこれか、と。ここに来るまでのすべての自分の選択を呪った。そうして、自決の手段さえなく、のた打ち回ってたらここに来たってわけだ」
想像を絶する沖縄の惨状と鬱展開満載の生い立ちに、凛子は呆然とした。なんと声を掛けたら正解なのかさえ分からなかった。
そんな彼女にさらに真人は無茶苦茶なことを畳みかけていく。
「で、どうすんだよ? 俺を受け入れるか、ここで心中するか」
そして、その右腕は、凛子の腕をがっちりと掴んでいる。平静な表情と声音とは裏腹に、真人の腕は震えていた。
しかし、ここで凛子は初めて自分の気持ちを自覚した。
いや、ずっと前から自覚はしていたのかもしれない。やっと、認めることができた、いや、認めなくてはいけない状況になったのである。
「そ、そんなの受け入れるしかないじゃないですか!」
凛子は半泣きになりながら狼狽えた。
「だって……、私は今の、今ここにいる真人さんが好き――」
凛子はそう言いかけて真っ赤に頬を染めた。「――で、だから、あの……過去はどうでもいいですから」としどろもどろに続けた。
まさか自分からこの言葉を言うことになろうとは、と、凛子は火照りを抑えることができない。
いつからだ、一体いつから自分は真人に対し、こんな感情が芽生えたのは。最初は間違いなく七冶に惹かれていたはず……、そうに違いはなかった。しかしそれなのに、真人に向いたこの気持ちは、気づいたときには摘むことは出来ないくらいになってしまっていた。こんな感情は、絶対にアンダードッグ効果なんかじゃない。
恋愛はタイミング、ふとメイの言葉を思い出していた。
「私は平和と幸せしか真人さんに教えることは出来ません。だけど、絶対生きててよかったって思ってもらえるように頑張ります!」
凛子はそう言って左手を差し出した。
「もう思ってるに決まってんだろ」
真人はそう言ってにやりと笑うと、凛子の手を握り返したのだった。
無い筈に腕や足など体の一部が痛かったり、痒かったり……
まるでまだそこにあるような感覚があることを幻肢痛といいます。
さらに重くなると神経障害性疼痛といって
日常生活が送れないほど痛かったり痺れたりします。




