拾伍:人には添うてみよ、犬猫は飼うてみよ
「別にこんなことしなくても俺は……」
凛子をギュッと強く抱きしめると、真人は弱音を吐く。背中に真人が顔を埋めている感覚がある。
「悪ぃな、リン。痛かっただろ」
まるで深い深い沼に沈み込むように、消え入りそうな声で言う。そして、顔をさらに深く背中に押し付け「すまん」と蚊の鳴くような声で呟いた。
その様子を見て、凛子はふと思った。真人にとって性行為とは悪行であると感じているのかもしれない、と。
家庭内における性虐待、そして兵士時代のレイプ被害を受けていたら当然あろう。凛子はこの事実を聞いてから、当初は心因性EDを疑っていたほどであった。このようなことは、部外者であるメイには真人の尊厳を考えると、なかなか言えそうもなかったため、誰にも相談はしていなかった。しかし、ただでさえ、性行為を伴うトラウマが無くても、強いストレスを受けることで不能になる症例はかなり多いのだ。そのため、心因性EDか否か、自身で直接診断を下すためにも凛子はこのような行動をとったともいえる。
しかし、真人はその疑いはなさそうだ。「勃起不全症です」なんて言わずに済んだことにほっとしたこと、それから、普段の言動から想像できないほど繊細な真人に凛子は「あはは」と、思わず笑ってしまう。
「真人さんってば、謝りすぎ……って、イデデデ」
「俺がこんなに謝ってやってるっつーのに、それを笑い飛ばすなんざぁ、いい度胸してるじゃねーか。リン」
凛子は苦悶の表情を浮かべてよがった。自分の体を何回りも大きく長い真人の手足が絡みつき、縛り上げたのだ。
「ご、ごめんなさい!! 死ぬ! 死ぬ!」
腕をぽんぽんと叩きながら、「ギブギブ」と言うと、ふっと力を抜かれ拘束を解かれる。凛子はくるっと寝返りを打って、大きな懐に潜り込む。
「大丈夫ですよ。痛くないし、めっちゃ今幸せです」
本当のところ、明日に響かないか心配なレベルで股がジンジンとした。しかし、甘美な充足感がそれをゆっくりと上塗りしていく。
真人は「そうか」と呟くとやがて、凛子を抱きしめたまま寝息を立て始めた。
そういえば、こうして真人が先に寝るのは初めてだということにふと気付く。凛子は、真人の寝顔を隅々まで眺めて楽しんだことは言うまでもないだろう。
凛子は先ほど撮ったメモを見ながら小さくため息をついた。現代人がほとんど使う場面や目にする場面はないであろう、変体仮名が使われていたからである。よって、このメモは“海兵時代の後輩”が真人に宛てた可能性が高い。
(めっちゃ読みづらい……)
そうはいっても所詮はここ数十年前の日本語である。さらに、走り書きとは言えども、とてもきれいな筆質でしたためられており、書き手の高い教養が伺える。
凛子は目を細めながら、ゆっくり読み解いていくと、大筋は理解できた。と、同時に真人が、大したことない、と言って事態をひた隠しにしたい理由はよくわかった。
メモには【十月一日……同じ時刻……一人で来い】と書いてある。その下に住所が書き散らしてある。
凛子はスマホのマップでその住所を検索すると、案の定“閉業”とある。
先ほどの熱がサーっと去り、体が冷たくなるのを感じた。それにも関わらず、スマホを持つ手は汗が滲んでいる。
一人では絶対に行かせてはいけない、という気持ちと、着いて行っては足手まといになってしまう、という気持ちの間で揺れていたのだった。
時は変わり、翌日。凛子は落ち着きなく周りをきょろきょろと見渡しながら人を待っていた。
「ちょっと、凛子ったら落ち着きなさいったら」
横に座っている薫がさも不快そうに眉を顰める。
「私、まだサクちゃんのご相手、会ったことないのよ! 写真も見たことないし。すっごく緊張する……。やっぱり叶君みたいにイケメンなの?」
「あんたネェ、間違っても旦那さんの前で元カレの名前なんて絶対出すんじゃないわよ」
薫はさらに深く眉を顰めると、凛子の質問には答えずに足をピシャリと叩いた。
凛子は手鏡で自分の顔や胸元を写し、もう何度やったかわからない身なりに整えを施す。超のつくフォーマルなレストランとは言っても、久しぶりのドレスコードは落ち着かないのである。
窓から見えるお台場をはるか遠くまで見渡しながら、凛子は気持ちを落ち着けることにした。
そして、手鏡を見ながら前髪を触っていると、薫が「あ!」と声を上げた。
「咲良! 武道くん!」
薫は、個室から身半分乗り出すと二人を呼んだ。
「結婚おめでとう!!」
咲良とその夫武道が手を組んで入って来ると、いの一番、凛子と薫は口をそろえて言った。
「ありがとう、二人とも。ほんっとうにありがとう」
咲良がここまで頭を下げるのも無理はない。二人がこうなるまでに、色々あったのである。凛子が広島旅行に行っている間に、薫は「私が見定めるわ!」などと言って、会いに行く始末であった。
「あ、たけくんは凛子とは会うの初めてよね?」
「幼稚舎時代からお世話になってました、椿木凛子です」
凛子はすかさずペコっと頭を下げる。
「咲良ちゃんと同じ職場で看護師をしています、伊藤武道です」
(そっか、サクちゃんは苗字も“伊藤”に変わっちゃうんだ!)
凛子は改めて、咲良が結婚する事実をじわじわと実感していく。
人懐っこそうな笑みを浮かべる武道を凛子は、思わず食い入るように見つめた。
真人を見慣れているせいで、一七〇あるかないかくらいの背丈に、痩躯で色白の武道は酷く頼りないようにも見えた。顔も取り立ててイケメンではないし、かといって弁が立つタイプでもなさそうだ。
つまり、まるで咲良の以前の男性のタイプとかけ離れているのだ。
咲良と言えば、小学校でも中学校でもそして高校……、さらには一年前まで付き合っていた元カレの叶君に至るまで、クラスどころか学校中を沸かせるようなイケメンとしか付き合ってこなかったのである。
どれだけ派手な男たちが咲良にアプローチしようとも、結局は武道のような平凡な男と最後は結ばれるなんて、何とも幼馴染の凛子たちにとっては面白い話であった。
「それにしても、あの慎重な咲良が交際一年未満で結婚なんてね。随分と思い切った判断だったわネ?」
薫は見定めるような視線を二人に投げかけた。
「平凡な僕のような男に、咲良ちゃんは到底釣り合いません。咲良ちゃんの気持ちが変わらないうちに、勢いに任せるしかありませんでした」
武道は照れ臭そうに頭を掻いた。咲良を見る視線がとても優しいもので、凛子は思わず微笑む。彼の嘘偽りなさそうな飾り気のない態度、親しみやすい風貌、そして咲良への愛が溢れるような表情のお陰で、凛子の先ほどの緊張感はいつのまにか消え失せていた。
「鉄は熱いうちに打て! 恋愛に大切なのは、タイミングですもんね!」
凛子は恋愛マスターであるメイの受け売りを、さも自分の言葉のようにひけらかした。
「あら、凛子の癖にいいこと言うじゃん?」
咲良が面白おかしそうにおちょくる。
凛子は自分で言いながら、本当にその通りだ、と再確認した。一年前、初めて咲良が泣いた日を思い出しながら――。
★
咲良と西宮グループの長男である西宮叶は、絶対に結婚すると思っていた。高校三年生のころから、去年までずっと二人は付き合っていた。二人の相性は最高に見えた。咲良の隣は叶しか似合わなかったし、叶の隣もまた咲良しか想像できなかった。動物が大好きな咲良と共に、叶は将来、西宮グループの売り上げを使って保護シェルターを作ろうと二人で夢を熱く語り合っていたのをよく覚えている。
しかし、事件は訪れた。
「叶のお父さんが暴力団と関わってるかもしれない」
咲良が私たちにこう告白したすぐ後に、西宮グループが暴力団と深い関係にあることをマスコミに取り上げられた。当然、西宮グループはそれを否定。証拠も不十分で、すぐに西宮グループへの批判の波は落ち着いた。しかし、これは皇族である咲良に飛び火した。
“売国奴”、“非国民”、さらには“国賊”とまで罵られた。
咲良の精神は限界を突破していた。
「私、卒業したら叶と飛ぶ」
大学卒業を間近控えた真冬のある日、凛子と薫に告げた。
凛子は、もう簡単に連絡を取ったり、会ったりすることができなくなるのは悲しかったが「わかった」とだけ返事をした。こうなることは何となく想像していたし、これが二人の幸せだと思ったからである。そして何より、顔を見て分かった。誰が反対しようと二人は止まらない、と。
きっとこの決断に至るまでにたくさん考えて、たくさん話し合って、そしてたくさん泣いたに違いない。
そして二人はお互いが唯一無二の存在になっていたのだろう。お互いのために命を捨てることができる存在なのであろう。彼らの長い交際歴の中で、二人は切っても切り離せない存在になっていったのだろう。
「サクちゃんと叶君の関係、素敵だね。羨ましい」
凛子はポツリと呟いた。
しかし、さらに事件が起こった。
「叶が、叶が来ないの!」
咲良はこれまでにないほどに気が動転していた。
「落ち着いて、何かあったんだよきっと」
凛子は電話口で宥めた。
しかし、叶は本当に来なかった。何時間、いや、何日待っても連絡はとれず、家にも帰っていなかった。数週間経ち、さすがに事件性を疑った薫が動き、彼の近辺を調べた。
だが、なんと驚くべきことに、彼は出勤していたのだ。普段通り、自社にである。タイムカードの記録もあるし、社員の証言付きであった。
しかし、あれから今に至るまで、凛子たち三人が叶の姿を直接見たことは一度もなかった。
そうして、咲良のぽっかりと空いた心の隙間に入ってきたのが武道であった。武道は熱烈な咲良のファンで、これ自体はよくある事であった。しかし、武道はそれだけではなかった。武道はストーカー行為も行っていたのだ。そのため、駆け落ちをしようとしたあの日も、尾行していた。あの夜、叶の代わりに隣にいたのは武道だったのである。
「咲良が弱っていなかったら、絶対にこうはならなかったはずよ。きっと、見向きもしなかったでしょう」
薫だけは、その様子に憤慨していた。
「何かがおかしい」
薫はよくそう言っていた。しかし、凛子には直前で思い直したか、足ぬけするのが怖くなったか、しか思いつかなかった。
咲良は毎日泣いていた。あんな咲良を見るのは後にも先にもこの時しかないだろう。
★
叶がいないと生きていけないかのように思われた咲良が、別の男と結婚する。その夢のような現実が、今目の前で起こっている。それを、凛子は感慨深げに見守った。
「武道くん、ここまでサクちゃんを支えてくれて、ほんっとうにほんっとうにありがとう」
別れ際、凛子は感極まって、目を潤ませながら何度もお礼を言った。
「ちょっとー、凛子ったら大げさ」
その様子に再び咲良が茶化すが、凛子の表情はいたって真面目であった。
「で、話し終わったか?」
凛子の視界の端で影が動くと同時に腕を掴まれる。「わ!」と思わず声を漏らして驚く凛子の肩に、ジャケットが掛けられる。ちょうど、秋の夜風はドレス一枚では少し肌寒いな、と思っていたところであった。
「待っててくれたんですか!」
神出鬼没な真人を見上げると、凛子はパッと顔を明るくした。そして、そろそろスマートフォンでも買ってあげよう、と思った。
「お久しぶりです、真人さん」
咲良がお辞儀する。続いて武道もそれに倣う。
「お話には聞いております、初めまして」
真人はそんな武道の前に仁王立ちになり、頭のてっぺんからつま先まで見下ろした。凛子はその姿があまりにも威圧的であったため、殴りかかるのではないかと内心ヒヤヒヤしていた。
しかし、真人は意外にも「どーも」と短く返事をするだけだった。
「さみぃ、帰るぞ」
「うん!」
凛子は三人に手を振ると、真人と手を繋いで歩き出した。
「次はあの二人かしらネー……」
薫はこれもまた不釣り合いな二人の後姿を見ながら、呟いたのだった。




