第77話 手が覚えていた
午後。
私は机の上に置いたままのボールペンを手に取った。
特に意味はなかった。
ただ、
目についたから。
買い物のメモを書こうと思い、
紙を一枚出す。
牛乳。
卵。
洗剤。
いつもの買い物を書いていく。
その下に、
冷蔵庫にあるものを思い出しながら、
必要なものを追加する。
ふと、
ペンが止まった。
私は書いた文字を見た。
買い物のメモなのに、
項目の横に小さな印が付いている。
丸。
三角。
線。
いつの間にか、
昔と同じ書き方をしていた。
重要なものには丸。
確認が必要なものには三角。
終わったものには横線。
私は少し驚いた。
「こんなところまで……」
昔、
仕事の資料を整理するときも、
同じように印を付けていた気がする。
でも、
どうしてそんなことをしていたのかは、
やっぱり思い出せない。
私は紙を見つめたまま、
しばらく動かなかった。
その時、
スマホにメッセージが届いた。
夫からだった。
『今日は少し遅くなる』
私は、
『分かった』
とだけ返した。
スマホを置く。
また紙を見る。
その時、
一つだけ気になった。
買い物のメモの下に、
知らないうちに文字を書いていた。
『確認』
私は眉を寄せる。
何を確認するつもりだったのか。
もちろん、
覚えていない。
紙を丸めて捨てようとして、
手を止める。
結局、
そのまま机の端に置いた。
夕方になり、
夫が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり」
夫は鞄を置き、
手を洗いに行く。
私は夕飯の準備を続けた。
いつもの夜。
特別なことは何もない。
食事を終えたあと、
夫が机の上の紙に気付いた。
「これ、何?」
「買い物のメモ」
そう答えてから、
私は少し笑った。
「昔の癖が出ちゃったみたい」
夫は紙を見る。
丸や三角の印。
その横に、
小さく書かれた『確認』。
夫の手が、
一瞬止まった。
けれど、
何も言わずに紙を元の場所へ戻した。
私はその様子を見ていた。
「知ってる?」
そう聞きそうになった。
でも、
聞かなかった。
夫も何も言わない。
しばらくして、
テレビの音だけが部屋に流れ始めた。
私は机の上の紙を見た。
たった一枚の買い物メモ。
それなのに、
そこに残った小さな印が、
昔の自分につながっている気がした。




