水滴奪って乾く
今にも切れてしまいそうな明るくない照明。
小綺麗な壁と床。
「うぅ……」
この牢獄は、時を経ることに寒くなっていた。
ボクは冷えた二の腕を掴む。
それは、あの子もそうだった。
細く小さい体が、毛布にくるまっている。
でも……1人だけ様子が違った。
「……かおりおねえさん……?」
「んー?」
香さんだけ、変だった。
いつもだったら、2人は毛布に包まって温もりを共有している。
でも、長い『何か』を経て戻ってきた後は、寒さをまるで感じていない様子だった。
今は、結露してしまったコップをじっと握って、水を飲んだり見つめたりしている。
「さむく……ないの?」
「えっ、ああー……寒い……かな。」
疑問のような同調のような、どっちともとれるイントネーションで、香さんは答える。
彼に向ける笑顔で判る。
香さんは香さんだ。
例え姿形が変わったとしても……
「……」
「……?」
香さんは、少し笑顔を向けた後、また水を覗き込むように俯いた。
じっと黙り込む姿に、彼は疑問の表情を浮かべる。
「かおりおねえ──」
「あい。」
声が反響する。
たった2文字の短い名前。
それを呼ぶ声に、迷いを感じた。
「……どうしたの?」
「……っ……」
コップの中の水が揺れている。
小刻みに波を作り……
そして……止まった。
「──わたし、人じゃなくなっちゃった。」
「……え?」
声が漏れ出る。
それは誰にも認識されないボクの声。
香さんは、困ったように笑っていた。
隣にいる男の子に向けて。
「……」
彼は一言も発しない。
ただ、笑顔を見つめている。
その表情は、驚きでもなんでもなかった。
「……わるいことなの……?」
純粋な疑問の顔。
事の重大さを知らない子どもの顔だった。
「…………ぷっ……ふふ……!」
「……?」
突然、香さんは急に吹き出した。
なんとかこらえようと身体を丸めている。
彼は眉をひそめた。
それはボクもそうだった。
─バシャ
香さんの膝に水が溢れてしまった。
地面にまで滴っている。
「あ……水……」
そう言って、彼は心配そうに彼女を見ている。
「ふふ……ありがとう。」
彼女は優しくそう言った。
コップから右手を離し、そっと濡れている膝に触れた。
「……でも、大丈夫。わたしは……」
指先が水に触れる。
そっと波が立つ。
指先に水がくっつき、それは次第に集まっていった。
水と水が繋がっていく。
「『突然変異体』なんだから。」
見覚えがあった。
知っている。
あれは現実世界でみんなを苦しめている力だ。
ボクをここに誘ったきっかけの力だ。
指先に集まった水は、次第にコップへと戻っていく。まるで意思を持っているかのようだった。
「……すごい……なぁ……」
意思を持った水が揺れる。
「そっか……そっか……」
彼女は俯いた。
水は全てコップに戻っている。
さっきと同じような状況になっていた。
違うとすれば、それは身体がもっと丸まっているということ。
ポタポタと、水の滴る音が聞こえる。
水に波が立つ。
「…………あい……」
顔は見えない。
でも、声は聞こえた。
……震えている。
「かおり……おねえさん……?」
彼は驚いたように目を見開く。
すると、彼は毛布に包まうのを辞め、彼女の背中に回った。
「っ……」
その小さい手は、毛布を掴んで、そっと彼女の肩にかけた。
「……さむいの?」
「っ……うぅっ……」
毛布によって隠れた肩は、小さく震えていた。
「…………怖い……の……」
「え……?」
ボソッと彼女の口から言葉が溢れた。
後ろに回って毛布をちゃんとかけようと奮闘していた彼の手が止まる。
「わたし……水を触ると……怖くなるの……」
呼吸が乱れていた。
「まるで、わたしじゃなくなるみたいで……怖くて……怖くてっ……!」
彼女の口数は徐々に増えていく。
言葉の流れが強くなる。
「水滴と水滴がくっついて一つになっちゃうみたいにさ、わたしが水に触れると、『わたし』が、わからなくなってきてっ……!」
「かおりおねえさ──」
「もう嫌だっ!!」
「っ……」
「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! わたしは、わたしがいいっ……わたしでいたいっ……わたしのまま生きていきたいっ……これ以上、何も失いたくない…………」
水が溢れていた。
さっきよりもずっと、床に広がっている。
地面には、小さなコップが転がっていた。
###
場面が変わった。
そこは、冷たい扉だらけの廊下。
隣には大人がいる。
手をつないでただ先を歩いている。
視線が固定されている。
……ああ、この子はまた受けるんだ。
また、ボクもそれを体験するんだ。
いつまで続くのだろう。
終わりが……見えない。
「うわぁあああああっ!!」
身体が一瞬こわばった。
胸が苦しくなる。
──香さんの悲鳴だった。
隣の扉。数ある悲鳴の中から鮮明に聞こえた。
あそこに彼女はいる。
『突然変異体』……その研究を受けて。
でも、それを気にせず大人は進んでいく。
手は離れず、逆らうことはできない。
ただ扉を通過していく。
###
次に目を開いた瞬間、眩い光がボクを襲った。
そこには2人の影がある。
知っている光景だった。
きっと、また注射を……
「……では、移るとしよう。」
「わかりました。おい、ミックスの用意をしろ。」
……え?
……内容が……違う?
目の前の光が消える。
天井隅の青白い光だけが残る。
しかし、辺りはよく見えない。
金属音が聞こえ、拘束が解ける。
大人の手によって起き上がらされる。
とても大きな機械の起動音が背中から聞こえる。
心臓が激しく胸を叩いていた。
─ガンッガンッ!
「うわっ、落ち着け!」
隣から、何かが金属を叩きながら暴れている音が聞こえた。青白い光がそれを照らすも、よく見えない。
唸り、吠え、暴れる。
その影は動物のようだった。
トボトボと、身体が勝手に進んでいく。
目の前には真っ黒の空間。
一度入ったら二度と出られなくなりそうな空間。
その機械は誘うように扉を開いていた。
やがて僕がそこに入った瞬間、扉が閉まった。
小さな窓がボクの眼の前にあった。
僕は窓に近づき、外を見る。
でも、ボクの眼の前に広がっている景色は黒いもので……
僕は怖くなって扉を叩いて。
ボクは叫びたくなって。
僕が叫んで。
ボクは全部全部気持ち悪くなって。
僕は頭を抱えて。
とっても痛くなって、動けなくなって、倒れて。
誰かが入ってきて、めちゃくちゃにしてきて、何が何だかわからなくなってきて……
ああ……もう嫌だ。
何も悪いことなんかしてないのに……
なんでこんなひどい事するの?
ねぇ、聞いてるの?
君だよ?
なんで、ずっと僕の頭をぐちゃぐちゃにするの?
なんでこのままでいさせてくれないの?
〈ち、違う、ボクは……〉
君の後ろにいる子に話しているんだよ?
###
「っ!!」
目が醒める。
上半身をゆっくり起こす。
辺りを見渡す。
冷たい牢獄の中……何も変わらない。
わからない……一体、何が起こったんだろう……
思考がぐちゃぐちゃになって、気持ち悪くなって……
ボクはとりあえず、ベッドから降りた。
ひんやりとした床が体温を奪っていく。
「ボク……」
額に手を当て、気持ちの悪い頭痛を抑える。
そして、ボクは気づいた。
「……誰もいない……?」
いつも聞こえるほそぼそとした声。
痩せ細った男の子と健康的な女の子。
舞い上がる白い息と冷気を取り込む呼吸音。
誰もいない。いるのはボクだ。
ふと、扉を見る。
黒く塗装された扉。
それは、光の灯らない『暗闇』に変わっていた。
一歩、そこへと踏み出し──
─ギロッ
「っ!」
目玉が居た。
扉の外に、枠に収まらずに。
人の目玉じゃなかった。
それは動物の眼。
鋭い視線を向ける琥珀色の瞳は、ボクを監視しているようだった。
後退りをして、目から離れる。
「はっ…はっ…一体……なにが……」
〈ごめんね〉
すると、声が聞こえた。
辺りを見回すも誰もいない。
左右前後ろから聞こえない声。
それは直接脳内に語りかけてくる感覚。
「ミズさん!」
〈本当に…ごめんなさい。なんとか、抑えているんだけど……やっぱり、お喋りする余裕がないみたいで……〉
苦しそうに話すミズさん。
「あの……さっきから一体なんなんですか!? さっきの出来事だって、この目玉だって……訳がわからないことがいっぱいで……!」
〈……本当はもっとゆっくり話そうと思ってたんだけど……ごめんね。〉
「え……? わっ!?」
グラリと地面が揺れた。
バランスを崩し、地面に手をついてしまう。
揺れは1回のみだった。
立ち上がって、目玉の方を見ると……
黒い扉に戻っていた。
それは何事もなかったかのように佇んでいる。
〈神美ちゃん、私は最初に言ったように、藍を助けて欲しい。〉
「だから……!」
〈藍は病んでるの。〉
少々イラつきを覚えていたボクの心に、ミズさんの言葉が入り込む。
口が止まってしまう。
〈あはは、まず最初に伝えるべきだったよね……〉
ミズさんは気不味そうに笑っていた。
〈藍はね……とっても寒がりなんだ。何とかしてあげたいけど、私じゃ何もできない。だから、君には藍を温めて欲しいの。〉
「っ……具体的には?」
〈それは……今はわからない。〉
「『今は』……?」
〈神美ちゃん、ここから先の記憶に私は同行できない。向こう側はヤツのテリトリーだから。
でも、安心して。君は私が守るから。〉
「ま、待ってください! 『ヤツ』って────うわっ!?」
またもやグラリと地面が揺れる。
それはさっきよりも強いものだった。
何度も何度も、叩くようにこの牢獄が揺れている。
わけも分からない轟音と共に……
──『狼』の唸り声が聞こえた。
〈ごめん、もう余裕がない! いい? そこに侵入できるのは、第三者である君だけなの! そこに必ず藍を助けられるヒントがあるはず。
君だけじゃなく君の友達にもちょっと苦労をかけると思うけど……大丈夫、きっと乗り越えられるから……!〉
揺れは更に激しくなり、立てなくなってしまう。
鳴り止まない轟音に思わず耳を塞いでしまう。
世界が段々と暗くなって……
△△△
新宿、伊勢丹の前。
本来人に溢れているはずの交差点。
そこに、1人、そして2匹の影があった。
黒色の空。
こぼれ落ちる青。
突き刺す冷気。
全員の手足は冷え切っていた。
「狙撃……か。」
赤い水溜りに写る、少年の顔。
しかし、少年だけでなく、屋上に立つ知世と公安達も写っていた。
少年はじっと、対象を観察する。
「ふふっ……せいか〜い。」
知世の片手には、小型のマイクが握られていた。
周りの建物からランダムに声が聞こえる。
「よっ、かっけーぞ知世!」
「主よ、いけめんだな!」
「ヘイト役サンキューね冷やかしども!」
少年は余裕そうにニヤリと笑う。
右太ももから流れ出る血液。
ドロドロとそれは流れていく。
「そんなことより、アンタさ、血は操れるの?」
「アハハ……僕を過大評価しすぎだよ……?」
少年は振り返りながら立ち上がる。
その視線の先は知世と公安達だった。
少年の右脚は小さく震えていた。
ほんの一瞬、少年の笑顔が消える。
「痛そうだね……お姉さんたちが病院に連れて行ってあげよっか?」
「イヤだよ。どうせつまらない『雑談』でもするんでしょ?」
「さぁね〜?」
少年は右手で自分の服を掴む。
そしてゆっくりと『水』を引き剥がした。
それはやがて鋭利な一本の棘となる。
その棘の後端から中指にかけて小さな糸が繋がっていた。まだ、誰も気づいていない。
ぐっと少年の手に力がはいる。
右手を引いて、スナイパーへと目標を定めて。
銛を意識した棘を脳天へ突き刺すために。
「僕、面倒はだいきら──」
─ドクン
「うっ……!」
突然、少年は胸を押さえた。
棘は水へと変化していく。
それは、棘だけに限らず……
「……? 一体どうしたんだ?」
「わからん。ワタシに聞くな。」
「っ…様子がおかしいわ。」
「うーん……なんか苦しそうっすね。」
スバル、ルナ、公安の佐野と野田。
皆困惑する。
ただ、一人を除いて。
彼は人狼と突然変異体のハイブリッド。
相容れない要素が絡み合った奇跡的存在。
人狼化できるパートナーを持つ一人の少女はずっと疑念を抱いていた。
『突然変異体』である紫は、狼と融合しなかった。
一方、『人狼化』できる奏は、狼と融合し、ルナという狼の人格を宿している。
もし、狼との融合の有無で人狼と突然変異体の区別がつくのなら……
彼が突然変異体であり『人狼』でもあるのなら……
狼の人格が存在するのではないのか?
その小さな疑念は……
──現実へと変わった。
「ルナ、スバル君! ヤツから離れ──」
「オマエは……」
「──ぐぁっ!」
真下へ落ちていく雨。
それに逆らうように真上へと風が吹いた。
暴風ともとれる風は、知世の首を掴み、勢いよく地面に叩きつける。
「ハナレなくてもヨカッタのカ……?」
舞い上がる粉塵。
知世は見る。観察する。
その煙の中から見える琥珀色の瞳を。
透明だったはずの耳と尻尾は影を作っていた。
『水』ではない、『本物』の耳と尻尾。
水のようなしなやかさなど、もうそこにはなかった。
あるのはただ一つ。
「このオレを……ナメているのか……?」
──気性の荒い獣の眼差しだった。




