第34話 同志
八月五日の火曜日。日中で金澤氏の警護任務を終えた時也は、その足で県警本部庁舎に直行した。報告書の提出を手早く済ませると、内海巡査部長に指定された会議室へ急ぐ。職務復帰した後輩は、時也を見るなり傾斜九十度で敬礼した。
「ご迷惑をおかけしました。月曜日より通常勤務に戻りました」
「しばらく内勤だろう。張り切る気持ちは解らないでもないが、無理するんじゃないぞ……で、見てほしいものがあるとか」
「ええ。勤務時間外にお呼び立てしてすみません。実は、佐野渉と接点を持つ関係者が見つかりまして。その人物と公安一課の捜査員が、これから接触します」
机上にセッティングされた二台のノートパソコンを見る。左側の画面にはSNSのアカウントページが表示され、右側ではどこかの店内らしい映像がミュート状態で流れていた。
「こちらに映っているのは、立浜市湾岸通りにあるバーの店内です。ここに町田巡査が待機しています。この映像は、彼に取り付けた小型カメラからリアルタイムで送られています」
町田涼巡査は、内海とともに佐野の行確を担当していた。時也は以前、内海の襲撃事件直後に彼と直接話をしたことがある。緩い関西弁が特徴的で、まだ脇の甘い若手捜査員といった印象だった。
「この店が接触ポイントというわけか。で、どういう経緯でこんな状況に?」
言いながら、内海の隣に立つ男を見遣る。SNS解析班の神山巡査部長だ。同じ公安一課に所属し、同じ事件を追っているにもかかわらず時也は神山と初対面だった。念入りにセットしたと思しきパーマヘアが細面によく似合っている。クールビズ期間に合わせたノーネクタイスタイルも小洒落た雰囲気を演出していた。
神山から目線で促され、内海は「説明します」と言いながら時也に椅子を勧める。
「つい昨日、神山部長がCDSの解析結果について、Sharingの中で気になるアカウントがあると教えてくれました。アカウント名は〈ジャスミン〉。APARとは別の、環境保護団体に所属する活動家です。このジャスミンという人物が、佐野渉の個人アカウントとやりとりしていることが判明したんです」
「佐野の個人アカウント……ゴブリンお掃除隊とは別のアカウントか」
「ああそうだよ。Evanって名前ユーザーネームを使っていて、Sharing上でジャスミンと個人的な交流があったんだ」
神山が二人の会話に割り込む。時也は内海からパーマの男へ視線を移すと、
「そのジャスミンと名乗るアカウントは、APARとも接触があったのか」
「それを、これから確かめるのさ。ジャスミンの過去のやり取りを遡ると、以前にAPARと思われる組織へ加入しようとした経験があるらしい。コメントの中でそれらしい内容を仄めかしていたんだ。その真偽を今から本人に問い質すってわけさ」
「APARの捜査権限が二課に渡った今、佐野渉の捜査という名目でAPAR関係者に接触できる唯一の切り札が、このジャスミンなんです」
熱弁する内海だが、時也はあくまで慎重な姿勢を見せる。
「たしかに一理あるが、そもそもCDSの解析結果や今夜の計画は二課の連中に報告済みなのか」
後輩の代わりに答えたのは神山巡査部長だ。
「CDS解析班には公安一課から三課、それに外事から最低一人ずつ担当者が振られている。解析内容はそれぞれの課内で情報共有する形になっているから、俺がよその課に今回の結果を報告する義理はない。ジャスミンの存在だって、あくまで佐野渉の身辺調査を進める過程で浮上したに過ぎないだろう。それをわざわざ二課に伝える必要がどこにある」
「神山が導き出した解析結果は、同様に二課の連中も掌握している可能性は十分にある。つまり、ジャスミンの存在も同じように気づいているかもしれない。それで俺たち一課と二課が立て続けにジャスミンと接触すれば、対象が不審感を抱く危険性がある。そもそも今夜の計画、ボスは周知しているのか」
内海がちらとパーマ男を一瞥する。神山は腕を組んで仁王立ちの姿勢で時也を見下ろした。
「俺から話した。了承はもらっている」
有無を言わせぬ口調に、返す言葉はない。東海林班の後輩は気まずそうに時也から目を逸らしながらも、右側のノートパソコンの前におずおずと腰をおろした。
右側のノートパソコンに改めて注目する。液晶画面には、柔らかなオレンジ色の照明に照らされた店の様子が映し出されていた。カメラ越しの店内に客の姿はまばらで、いわゆるお独り様が目立つ。静かに流れるクラシックのBGMが耳に心地良い。
程なくして、カメラ映像が不意に動いて店の入り口を映し出した。ワンピース姿の女性が一人、人を探すように辺りを見回しながら店の中へ入ってくる。女性の目線がカメラに向いた瞬間、相手の口元が「あ」と小さく動いた。
『もしかして……イルカさんですか』
おずおずと尋ねた女性に、町田巡査の声が「そうです」と答える。相手はほっとしたように肩を落とすと、
『よかった。人違いだったらどうしようと思っていたんです——ジャスミンです。あの、こちらに座っても?』
『もちろんです。どうぞこちらへ。暑い中歩いて来られて疲れたでしょう。飲み物でもどうですか』
やや芝居がかった標準語を喋りながら、ドリンクのメニュー表を女性に渡す。相手は「どうも」と笑顔で受け取ったが、すぐに怪訝な表情を浮かべた。
『どうして私が歩いてきたとわかったんですか』
『ああ、すみません。バッグからICカードがはみ出ているのが見えたので、電車で来られたんじゃないかなと。ここからなら桜町駅が近いですからね。それに、もしタクシーで店の前まで来たのなら汗も乾いているのではと思ったんです』
女性は手にしていたハンカチで慌てて首筋の汗を拭いながら、
『でも、車を運転してきたかもしれないでしょう?』
『お酒が飲める店に自分で運転して来る可能性は低いと踏みました。事前に店選びでやり取りをした際、お酒を飲める店でも大丈夫かと私が訊ねたら、あなたは問題ないと答えた。お酒を飲まないのなら、その時点で飲まない意思を伝えるはずです』
目を丸くする女性に「尤も」と気取った声が返す。
『あなたがメニュー表を受け取った時点で、運転してきた可能性は排除できましたからね。そんな話はさておき、注文はどうします?』
『あ、じゃあアメリカンレモネードで』
町田の声がホールスタッフを呼び止め、アメリカンレモネードとシンガポールスリングを注文する。二つが運ばれたところで、互いに「いただきます」の短い挨拶を済ませてグラスを傾けた。
「礼儀がなってないな」
隣でぼやいた神山に、内海は「何がです」と訊き返す。公安一課のIT通は気障な仕草で髪を掻き上げながら、
「妙齢の女性に汗がどうのなんて指摘するものじゃないよ」
BGMがショパンのノクターンに変わった。グラスをテーブルに置く音が合図であったかのように、町田巡査が本題を切り出す。
『ジャスミンさん、以前APに加入しようとしたという話は本当ですか』
APARの組織名を公に出すのは憚られるため、短縮して呼ぶ。女性は「ええ」と頷くと、
『私がAPの存在を知ったのは、SharingというSNSがきっかけでした。そもそも、私が環境保護に興味を持ったのは、大学生のときです。サークル勧誘を受けた中でボランティア活動を行う団体がありました。当時は、就職活動でアピールできそうだなと短絡的な理由で加入したのですが、活動を続けるうちに色々な社会問題について真剣に考えるようになりました。その一つが環境問題だったんです』
まるで就職活動の面接めいた受け答えだ。相手の緊張を町田も見抜いたらしく、
『これは面接でもなんでもありませんので、もっと肩の力を抜いてお話ししましょう……環境保護の活動は、社会人になってからも継続を?』
『ええ。新卒の頃は初めての仕事に追われて、あまり動いていない時期もありましたけど。社会人生活にも慣れて余裕が出てきたので、また再開しました。そのときあたりからです。SNSで同志の方たちを探し始めたのは』
「同志、か」
神山の呟きを聞きながら、画面越しの女性の表情をつぶさに観察する。隠し事をしてる素振りは見受けられない。声のトーンも至って穏やかだ。
『同志とは、自分と同じ考えを持つ仲間という意味ですか』
『そうです。私にとって環境問題は、長い人生をかけて解決すべき宿題のようなものです。地球が人類に与えた永遠の課題、とでも言えばいいのでしょうか。だから、中途半端な気持ちで取り組む人よりも本気で向き合う仲間と出会い、志を共に活動したいと思ったんです』
『SNSが発達した現代なら、仲間探しも昔と比べて気軽にできますからね』
『そうですね。けれど、温度差のある人たちが集まりやすいデメリットもあります。そこは実際に面と向かって話してみないと、相手の本気度は判りません』
『SNSで繋がった同志の方と直接の面識は?』
『何度か。大抵はティータイムのお喋りで終わってしまいますけどね。私が環境問題について熱弁を振るうと、ほとんどの人たちは気後れして話が盛り下がってしまうんです。そんな相手の反応を見て、私もまた気分が下がります。文字だけのやり取りでは見えなかったものが見えて、互いに白けてしまうんですね』
『活動に対する真剣さが、両者の間で異なるのですね』
『はい。だからこそ、APに出会った瞬間は興奮で胸がドキドキしたのを覚えています。私の居場所はここかもしれない、って確信が持てたから』
ジャスミンの声に熱が篭もる。隣で画面を食い入るように見ている内海が、少しだけ顔を前方に近づけた。
『APの人たちとやり取りしていたとき、ジャスミンさんから見た彼らの印象はどうでしたか』
『活動に対するひたむきな思い、そして同志に対する真摯さが伝わってきました。何よりも動物問題や環境問題を自分事として捉えていましたし、理念をしっかり行動に移しているところに生半可ではない覚悟を感じました』
会話が途切れた。束の間の静寂をピアノ演奏の滑らかな音が埋める。女性はアメリカンレモネードで唇を湿らせると、
『すみません、つい熱く語ってしまって』
『ああ、いえ。それほど本気になれるものがあるなんて羨ましいですね。ところで、それほど相手に共感したにも関わらず最終的に加入を見送った訳は?』
ジャスミンの表情がふと翳る。空になったグラスをそっと机上に置くと、
『私が見送ったんじゃないんです』
『加入を断られたのですか』
『ええ。詳しい理由は教えてもらえませんでしたが、そもそも動物愛護と環境保護という観点の違いで弾かれたのかもしれませんね。両者は一見すると似通っているようですが、活動理念や目的などは大きく異なりますし……けれど、私の活動も応援していると最後まで丁寧に接してくれましたよ。APとの関わりはそれっきりで、今はやり取りも全くしていません』
『ちなみに、過去のやり取りの中身を少しだけ拝見させてもらうのは』
おそるおそる尋ねた町田に、相手は「ごめんなさい」と困った顔をする。
『APの方とは、ウェブチャット……っていうんでしょうか。ネット上の無料チャットサイトで交流していたんです。そこは会話のログデータが残らないから、会話の最後に次の日時を予め決めておく。そんな感じでやり取りしていました』
『APとはSharingで出会ったのでしたよね』
『そうです。けれど、そのアカウントの運営者がAPの日本支部の方だと知ったのはチャットサイトでの交流に移行してからでした』
「何だかすべてが胡散臭いな。同志って言葉を連呼するあたりも含めて」
神山の呟きに、時也と内海も無言で首肯する。町田巡査はジャスミンがAPARのメンバーとチャットサイト上でどのような会話を交わしたか、そして使用していたサイト名を聞き出してから丁寧に礼を述べた。
『ありがとうございました。活動に対するジャスミンさんの誠実な姿勢がよく判りました』
『嬉しいお言葉です。私は今、APとは別の団体で啓蒙活動をしているのですが、よければイルカさんも話だけ聞いてみませんか? うちでは定期的にキャンプや野菜の収穫イベントなんかを開催していて、環境問題に興味がある方はもちろん、そうでない方も含めて自然保護への理解を深めてもらうために企画しているんです』
『面白そうですね。検討してみますので、よければ相互フォローしてもらえませんか』
画面の向こうで盛り上がる二人を他所に、神山は業務用スマートフォンでSharingのアプリを開いている。
「そういや、町田の偽装アカウントってどうして〈イルカ〉なんだ?」
「彼の故郷ではイルカ漁が盛んらしいです。たしか、お父様もイルカ漁で生計を立てていたとか」
内海の返事に「はっ」と鼻息が被る。
「彼女のアカウント、捕鯨問題について随分と熱心に批判しているぜ。アカウント名の由来を知ったら激昂するんじゃないのか」
神山のスマホを覗き込む。日本の鯨漁に関しては長きに亘って議論が繰り広げられており、IWC(国際捕鯨委員会)の脱退も含めて批判的な意見を持つ活動家や団体は少なくない。ジャスミンも例に違わず、商業捕鯨に走る日本政府の姿勢を強く非難していた。
「何にせよ、APARと繋がっていた人物を特定できたのは大きな収穫ですね」
拳を握りしめる内海の横で、時也は無言のまま肩を竦めるだけだった。




