それはとても容易い行為で
力の入らない右手が微かに持ち上がったのを感じて、満身の力を込めて指先を動かした。
……力を振り絞っても、微かに動いただけ。
それでも、手の下のモノはそれに気がついてくれたらしい。
すり、と。
ひんやりとした、上等な絹のような感触が指に伝わる。
タマ。
殆ど音にならない声で呼ぶと、彼は枕元に頭を乗せた。
全身を覆う宵闇の色の毛先から、微かにもれる冷気が心地良い。
気を遣ってくれている。
優しい子だ。
絶大な力を持つ氷の狼の風貌に反比例するかのように、この子は家族想いで愛情深い。
自慢の息子だ。
死にかけの人間の身で畏れ多いが、そう思うくらいは許されると思う。
「父」
滅多に聞くことのない、地の底から湧き上がるような声が自身を呼んだ。
「げんき、なる?」
は、と。
笑い声未満の息が喉から漏れた。
無理だなあ。
唯一まともに動く頭の中で、思う。
人間の身体だ。
ここまで落ちてからの復帰は、もう不可能だろう。
未練は無い。
今死のうが、あと百年生きようが、人間の一生なんてこの子等にとってはそう変わらない事は想像に難くない。
……なら、早々に忘れられるようにと早くいこうとしている自分がいる。
なら、変に分別が付く大人になる前にと、あの子に少しでも自分の痕が残るようにと願っている自分もいる。
ぐちゃぐちゃの、矛盾した思考。
ぼやけた視界で天井を眺めていると、するりと手の中から毛皮が抜け出していくのが分かった。
放り出された手が途端にだるい。
ああ、ここでもタマは気を遣ってくれていたのか。
夢うつつに思っていると、ごとん、と横で硬質な音がした。
手を取られ、それが冷たい台に置かれる。
かつん、と。
石と石がぶつかる音がして、何かが指先に当たった。
冷たい鼻先が、動かない掌に器用にそれを滑り込ませる。
殆ど枕から落ちるような格好で横を向いた。
「父」
声がして、真っ黒な色彩の中、一際目立つ赤の瞳と目があう。
何?
問うた声は、なんとか伝わったらしい。
「名、を」
「……タ、マ?」
「ちが、う」
漆黒の狼が、ゆると首を振った。
拍子に、冷気が散り、氷の結晶が舞う。
我が、名は。
叩き込まれたように、ソレは頭の中に直接入って来た。
氷の大地に立つ、破壊の権化のような、巨大な狼のイメージ。
強大な魔力に半ば操られるように、口が動く。
――――ヴァナルガンド。
そこから先は、よく覚えていない。
気がついた時には怠さが完全に消えていた。
目を開ける。
覗き込んで居たのはケイメイだった。
今までに見たことのない、神妙な顔。
「……えーと、おはよ」
普段は口数の多いケイメイのだんまりがどうにも居心地悪くて、誤魔化すように声を上げた。
途端、ケイメイがはーっ、と大きく息を吐く。
次いですい、と、形の良い長い指で彼は自身を指差して見せた。
「俺が、誰か分かるか?」
「……誰、って」
何のつもりだろう。
そう思いながらも、問いの答えを考えた。
ケイメイだ。
友達だ。
家族だ。
面倒見が良い。
カレーカレーうるさい。
ノリは軽い。
好き。
お人好し。
よく毛皮を梳いてくれる。
変態呼びはいつまで続くんだろう。
父を、助ける方法を、思いついたから。
「……あれ?」
ごく自然に思考に混ざり込む覚えの無い事象に、思わず声が出た。
咄嗟に手を見る。
人間の手だ。
一連の様子に溜息をついて、ケイメイは手鏡を差し出して来た。
受け取って、それを覗く。
いつもの、色素の薄い金髪。
見慣れた顔の中に、一箇所だけ異変があった。
左目の色が、紅く変わっている。
「……チビ、呼んでくるわ」
そしてケイメイは、こちらが状況を理解する前にそう言って踵を返した。
混乱する頭で反射的に、「チビ」という言葉が指し示す意味を考える。
チビ。
あの子。
愛しい。
可愛い。
大事。
大切。
娘。
妹。
護る。
必ず。
守る。
絶対。
泣かせない。
たとえ。
何があっても。
何を、してでも。
……混沌とした意識が収束していく。
身体の違和感は、既に無い。
深く吐いた息に、無数の煌めく氷晶が混じった。
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