(10)紛失
若いときはそうでもなかったものが、年老いてくると時折り、物を紛失したりする。自分で紛失しよう! と考える人はない。^^ だが、この事態は戴けない。^^ 長年使っていた物なら、取り分け落ち込むことになる。心が疲れる訳だ。^^ 私もつい最近、何かの機会に貰ったプラスチック製の安いボールペンを病院で紛失してしまった。(9)にその題材をベースにお話を書かせてもらったのだが、安かろうと長年使っていれば愛着も湧き、実に辛いものだ。貰った安いボールペンは何本もある。あるにはあるが、失くせば辛いことに変わりはない。今は少し気分も癒えたが、まだ心のどこかに悲しい気分が残っている。まあ、ポケットに挿す根元の折れた部分とかを何度も修理したものだから、破棄する人もあるに違いない物だったのだが…。前書きが長くなったが、今日は、その(9)をさらに掘り下げた紛失のお話である。^^
とある独居老人の家である。朝から残りもので食事を済ませた老人が新聞を読もうと、歯を楊枝でシーハーシーハーさせながら緑茶を啜り、眼鏡ケースを開けた。だが、肝心の眼鏡がない。
「んっ!?」
老人は、妙だ…? と刹那思った。それからというもの、老人の失踪者ならぬ失踪物捜査の格闘が始まった。小一時間が経ち、やがて昼も少し回った。
「まっ! 食ってからだ…」
老人は一端、見切りをつけ、昼食にしよう…とキッチンで好物の素麺を湯がき始めた。用意した出汁に摺り下ろした山葵をいれ、それを啜りながら炒めた特上肉を摘まむ・・というものだ。これが老人の最も好きな昼どきのパターンだった。
さて、その食事も満足げに済ませた老人は、ふたたび紛失した眼鏡の捜索を始めた。始めたが、出てこないものは出てこない。そして無意味な数時間が過ぎ、とうとう黄昏どきとなった。
「まっ! 食ってからだ…」
老人はふたたび見切りをつけ、夕食にしよう…とキッチンで好物の鯥[メロ]の味噌漬けを焼き始めた。
「これが美味いんだ、これがっ!」
老人は紛失した眼鏡のことなど忘れたかのように独りごちた。
あったか~~い炊きたてのご飯で味噌漬けを頬張り、満足げに夕食を済ませた老人は、食器を洗い終わると、欠伸を一つして呟いた。
「さて! ひとっ風呂、浴びるかっ!」
紛失を忘れたかのように浴室に向かった老人は、自動タイマーで張った湯舟の湯を確認したあと、脱衣場で脱衣し始めた。上着を脱ぎ、下着を首から脱ごうとしたとき、頭部に異物を感じた。眼鏡だった。紛失ではなく、ズゥ~~~っと身に着けていたのである。
こんな紛失と呼べない紛失もあるにはある。こんなゆとり気分なら、疲れることもないだろう。^^
完




