熊もたおせる彼女は 2
「ところで話は変わりますが」
「はい」
「こちらの女性は王女殿下の侍女ですか」
ねちっこい声でラウルはいう。ヘイゼルが肯定すると彼は続けた。
「どういった筋から雇い入れたか知りませんが、素性くらいはあらためることをおすすめいたしますね」
さも、自分は知っているという口ぶりである。ラウルはもったいぶって言葉を区切ったが、ヘイゼルが挑発に乗らないので自分で勝手に先を続けた。
「その女は、つい三年前まで娼館で働いていた女ですよ。うそだと思うなら確かめてみたらよろしい」
──来てしまった。
ミシャは思った。
この瞬間が、ついに来てしまった。
幾人もの男たちの相手をした。そのなかには下級貴族も数多く混じっていたから、こういう場面がいつか来るかもと覚悟はしていた。だが、それが今だとは。
ヘイゼルが振り向いてたずねた。
「ミシャ、本当なの?」
「──本当です」
責める気配のない、どこまでもやさしい問いかけだった。
それでも、どうしようもなく胸が痛い。
これでお別れかと思うと、胸の奥がひりひりする。
だが仕方がない。元娼婦を侍女にしたい姫などいない。
ああ、だから誰も好きになりたくなかったのにとミシャは思った。
ずっと心を閉ざしたままでいたかった。うっかり好きになったせいで今はもう、このかたからも砦からも離れるのがつらい。
(あの人たちの仲間になりたかった……あそこでずっと暮らしたかった)
泣いてはいけないとミシャは思った。
どんな感情が渦巻いていても、決してそれを悟らせてはいけない。
娼館で働いた三年間、自分はそれを身につけて生きてきたのだから。
◇◇◇
ミシャ・ダルリンブルの父が政敵との争いに負けたのは、ミシャが24歳の時だった。
そのときミシャは結婚を一カ月後に控えていたのだが、父は投獄され、家族は外出を禁止されて、玄関には逃亡を阻止する見張りの兵が立った。
婚約者からは丁寧な婚約破棄の書状が届き、父とはもう会えなかった。ひっそり処刑されたということはのちに知った。
それからほどなく。ミシャは娼館に売り飛ばされ、涙も渇かないまま客をとらされた。
何人も、何人も。
泣いても拒んでも許してもらえず、抵抗すればするほど悪い結果になった。
はじめのうちは死ぬことばかり考えていたが、残された家族のことがどうしても気にかかった。
しばらくして、娼館での立ち回りを覚えるようになったころ、ふと思った。
こんな、なにもわからない状態で終わってたまるものか。ダルリンブルの一族はたとえ女であったとしてもたやすく誰かに屈服したりしない。
(お前たちの思い通りになって、たまるものか)
3年の間娼館で働かされ、身体を売る暮らしにようやく慣れてきた年の終わり、後宮勤めの侍女としてアズマイラ男爵夫人のもとに放り込まれた。
あれは残酷な仕打ちだったと思う。相手はミシャの心をとことんまで折ろうとしていたのだ。
3年間、貴族の娘としての地獄を見て、次の3年はまた別の種類の地獄だった。
後宮の先輩女官たちはみな、ミシャの事情を知っていた。
彼女たちの笑顔には、そこには悪意と見下しがはっきりとにじんでいた。
「あら、ダルリンブルの」
「ご自分が最後のひとりになるってどんなお気持ち?」
「帰る家もないとは……お気の毒ねえ」
ミシャはそこで教えられた。自分以外の家族が全員処刑されたことを。
家は取り潰され、すでにそこには違う貴族が住んでいることも。
女主人のアズマイラは冷ややかな目で自分を見るだけだった。
やさしくされた覚えもないが、特に虐げられた覚えもない。
雀蜂のような驕慢な態度や、ぞっとするほどの執念で磨き上げられた美貌は、宮廷中の人からあれこれ噂されていたけれど、ミシャからすると一種尊敬に値するものだった。
彼女の、誰に嫌われても知ったことではないという態度はいっそ見事だ。
好きにはなれないが尊敬はできた。
(あそこで一生飼い殺しにされると思っていたのに……)
これもまた、なにかの罰なのだろうか?
あの地獄から救い出されて、お慕いできる女主人に出会えたと思った矢先、それが取り上げられる──これはなにかの罰なのだろうか?
◇◇◇
ヘイゼルはしばらく黙っていた。
ラウルを見て、ミシャを見る。
そして少し考えた後で、ふと愛らしい顔をラウルに向けた。
「ラウルさまのお話はわかりました」
「そうでしょう」
「ええ。おふたりが顔見知りであることも。でもそれが本当だとすると、ラウルさまご自身もお金で女性を買っていたことになると思うのですけれど」
「それがなんだというのです? 男性はそうした場所に行くものです」
「──そうですか」
ヘイゼルはちょっと小首をかしげて、さらに続けた。
「わたくしは自他ともに認める世間知らずですが、元貴族の女性が身体を売るのは、相応の事情があるのだろうと想像できます。できるなら思い出したくない過去だろうことも。ラウルさまはいかが思われますか?」
彼はぐっと詰まった。
「百歩ゆずって、おふたりが顔見知りだとしましょう。しかし彼女が新しい人生を送っていることは見てわかるはず。ならば、すべてを忘れたふりをするのがやさしさかと思うのですが」
「いやしかし……! 真実を知らしめるのはときに必要なことかと!」
「なるほど、真実ですか。でしたら、わたくしも真実について語りましょう。ラウルさまは騎士身分でいらっしゃいますよね」
「そうですが?」
けげんな顔のラウルに向かい、ヘイゼルはすっと背筋を伸ばした。ように見えた。
その細い背中が自分を守ってくれるように見えたのは、ミシャの見間違えだろうか。
ヘイゼルは静かな口調で言った。
「騎士とは、女性に限らずすべての弱いものを守るものだとわたくしは考えておりますが、ラウルさまご自身はどうお考えですか?」
痛烈な皮肉だった。
ラウル本人はヘイゼルにここまで反論されるとは夢にも思っていなかったようで、目を見開いたまま二の句が継げずにいる。
それに対してヘイゼルは穏やかそのもの。静かに彼の返答を待っている様子は、正面切って喧嘩を売ったようにはとても見えない。
「し……」
「し?」
「し、し、失敬な!」
「なにがでしょう?」
ヘイゼルの問いにラウルが答えることはなかった。顔を赤くして、なんて失敬な、こんな侮辱を受けたのは生まれて初めてですと繰り返している。
「失敬が過ぎる。侮辱が過ぎる!」
まぁ、とヘイゼルは頬に手をあてた。
「それでは、ラウルさまがわたくしの侍女に言ったことは失敬でも侮辱でもないのですか?」
「なっ、なんてことだ! これだから田舎で育った女などだめなんだ!」
「あらまあ……」
「男に恥をかかせるなど! もってのほかだ!」
んんー、とヘイゼルは頬に手をあてたまま小首をかしげる。
「それでは、ラウルさまは女性に恥をかかせることはよしと思っておられるのですか」




