熊もたおせる彼女は 3
「姫さま、もうそのへんで」
なんだか彼が可哀想になってきて、ミシャは思わず割ってはいった。こんなときに口を挟むなど礼儀に反するということなど、すっかり忘れて。
「姫さまはたずねているだけのつもりでしょうけど、あの方は何度もとどめを刺されていますよ」
「とどめ……」
「これ以上はお気の毒というものです」
「そうなのかしら……」
ふたりのやりとりに、ラウルはぶるぶる震え出した。
「ふ、ふ、不愉快です! 失礼します!」
いうなり身をひるがえして、あらぬ方向に姿を消してしまった。遠巻きに眺めていた側つかえの少年があわててそれを追う。
「あらあら。怒らせてしまったみたいね」
「そのようです」
「でも、ここはこのままにもしておけないし……ちょっとあなたたち、いいかしら?」
ヘイゼルはあとに残った男たちに指示して天幕を片付けさせている。
「あの……姫さま」
「話はあとにしましょう。そろそろ森を出なくては」
「はい……?」
「あまり暗くなってから森にいないほうがよいのよ」
「なぜですか?」
「クマが出るから」
「それは……急いだほうがいいですね」
男たちが粛々と天幕を片付け、あとはラウルが戻ってくるのを待つだけになったが、まだ彼は帰ってこない。
あたりには少しだけ霧が出ていた。そのせいで夕方のような薄暗さだ。
待ちくたびれたヘイゼルがいう。
「少し、様子を見に行きましょうか」
「そうですね」
ふたりは連れ立って森の中の小道を歩く。
さく、さくと落ち葉を踏む音が耳に心地よい。
ヘイゼルがゆっくりと歩くので、ミシャもすぐ後ろについた。
けっして焦らず、静かな足取りで森を歩くヘイゼルはおとぎ話の王女様のように威厳に満ちていた。
「──姫さま」
「なあに」
「以前食べさせていただいた揚げカスタードを覚えていますか」
「もちろんよ。美味しかったわね」
「あの時、姫さまは私の素性をたずねることをなさらなかった。なぜですか」
「なぜって……そうねえ」
ヘイゼルは木の根っこをまたぎながらいう。
「改めて聞かれるとうまくいえないけど、でも、歓迎するってそういうものだと思って」
「そういうもの……」
「そうよ。歓迎すると口ではいっておきながら、あれこれ質問攻めにしたり、ましてやその受け答えでなにかをテストしてみたり。そういうのって、本当にその人を歓迎してるとはいえないんじゃないのかしら。これが王女としてふさわしい考えかはわからないけど、私はそう思うの。だって」
長いスカートのすそを軽くたくしあげて、ヘイゼルはミシャを振り向いた。鮮やかな緑色の瞳がミシャを見つめる。
「相手と仲良くなるために、会話ってするんじゃないのかしら」
「姫さま……」
「尋問みたいに事情を探られて嬉しい人はいないんじゃないのかしら。どう思う、ミシャ? 私の考え方は王族や貴族らしくないかしら?」
「……いえ、そんなことはございません」
そう答えるだけでせいいっぱいだった。感動で胸がいっぱいで。
「姫さまが……正しいです」
「でもこういうところが高貴さの足りない部分なんじゃないのかしら、とも思うの」
「いいえ、誰がなんといおうとも姫さまが正しいです」
ミシャは力強く繰り返した。
と同時に、これまでの価値観の一角を大きく覆されるのも感じていた。
お茶は社交のツールであり、相手を手っ取り早く知るためのものと当たり前に考えていた。
なんてことだろう。アズマイラ男爵夫人につかえている間、心を無にしてできるだけ影響されないようにしていたつもりだったのに、いつのまにか自分はそんな考え方をするようになっていた。
「うわあああああっ」
そのときである。
前方からただならぬ悲鳴が聞こえて、ヘイゼルたちは顔を見合わせた。
「ラウルさまだわ」
「そうですね」
「行ってみましょう」
阿吽の呼吸でふたりは駆け出し、そしてその先に見たものは、ずんぐりとした黒い四つ足の生き物だった。
「クマだわ」
「クマですね」
一本道の向こうではラウルが棒切れを手に震えており、そのラウルめがけて一頭のクマがじりじりと距離を縮めている。ラウルは棒切れを振り回しており、クマは気が立っているようだった。頭を少し下げ、低いうなり声をあげている。おつきの若者たちはおびえて遠巻きにするのみだ。
「まずいわね」
ヘイゼルはつぶやいた。
「この時期のクマは冬眠前でエサを探しているの。刺激さえしなければ、最悪のことにはならないのだけど……」
「もう、遅いですよね」
ラウルは冷静さをかなぐり捨ててやみくもに棒切れで地面をぶったたいている。あれでは喧嘩を売っているのと変わらない。
「姫さま、あのかたの腰の剣はなんのためにあるんでしょう」
「……忘れてるんでしょう、きっと」
ヘイゼルとしてはむやみに争うことには反対である。争わず互いに通過できるならそのほうがいい。
だがこの場に至っても剣を抜いてすらいないのは少々いかがなものか。おそらく、ラウルは剣を普段使う機会がないのだろう。だからとっさのときに手がそこにいかないのだ。
(いいえ、ひとごとではない)
ヘイゼルは左手にはめた指輪をそっとさすった。
(なれない武器って、そうなのだわ)
「うわっ、うわあああっ! 来るな、こっちに来るなけだものめっ!」
ラウルは恐怖に耐えきれなくなったのか、手に持っていた棒をクマへと投げた。それは当たりこそしなかったが、クマは一瞬びくっとしてから、強く地面を蹴ってラウルへと突進した。
「ひいいぃぃっ!!!」
ラウルは両手で顔をかばうと、攻撃を避けようとして身をよじり、つまづいて尻餅をついた。そこにクマがとびかかる。その動きは大型獣とは思えない俊敏さだった。
「よくないわね」
ヘイゼルが眉をひそめた。
一瞬ためらったのち、一歩前へ出る。
「ミシャはここにいて」
「なにをおっしゃるんですか、だめです姫さま!」
「これは命令です」
その声は静かだったが、ミシャは雷に打たれたように動けなくなった。
それは主人の言葉だった。
「ここにいなさい。動いてはだめ」
ヘイゼルは遠巻きにしている男たちをかきわけてクマに近づいていく。
その手が小さく震えているのをミシャは見た。
「た、助けてくれ! 助けてくれえっ!」
ラウルが暴れるのをクマが前足で抑え込み、ぐいぐいのしかかる。
クマがなまぐさい息をラウルの顔にかけ、いまにも鼻先がふれようとしたその時。
ヘイゼルは、クマの背後に回り込むとそっと黒い背中にふれた。
ぽん、ぽん、ぽん。
背中から腰にかけて、なだめるようにさわっただけ。
はた目にはそうとしか見えない。
おや? というようにクマが顔をあげて、次の瞬間に、もう下半身がくずおれていた。
がるっ、と小さな声を出してクマが力なくクマが腰を落とす。
「ごめんね」
ヘイゼルはもう一度念を押すようにしてクマの首のあたりをぽんとたたいた。指輪をはめた左の手で。
獣はやがて動かなくなり、どさっと横倒しになった。
「姫さまっ」
ミシャが駆け寄ると、ヘイゼルは微笑んだ。
「ごめんなさいね、クマって動くものを追いかける習性があるから……もう大丈夫よ」
「そんなことより……お怪我はありませんか」
「大丈夫、どこもないわ」
思わずヘイゼルの腕をぎゅっと抱きしめて引き寄せてしまうミシャである。
むくむくとした塊になった動物をこわごわ見下ろす。
「……死んだんですか」
「いえ、さすがに死ぬような毒ではないはずなんだけど」
「ど、毒?」
「そうなの。指輪に仕込み針があって……そこから毒が出るらしいわ」
「毒指輪ですか……」
一瞬遅れてラルフにも男たちが駆け寄った。半分クマの下敷きになっているのを数人がかりでひっぱりだす。
ラルフは声もなく涙を垂れ流していた。あまりのショックで言葉もないらしい。
「す、すごい武器をお持ちで」
「いえいえ、そんな」
謙遜するヘイゼルにラウルの部下がたたみかける。
「それに、すごいわざですね」
「まさか、わたくしなんてまだまだです。わたくしの乳母は王宮の女官長でしたけど、独学でムチを覚えましたわ」
「ムチ……」
「ええ。革の一本ムチで、野犬くらいなら簡単に追い払ったものです。それに比べたらわたくしなんて」
これはいわないほうがいいのではないか、とミシャは思った。
だが止めるには遅かった。男たちが息をのむ気配が伝わってくる。
「なんにせよラウルさまがご無事でよかったわ。お怪我はないですか?」
ラウルは男たちに両側から支えてもらってようやく立っているありさまだ。いまだ放心状態で、わなわなと唇が震えている。
「ばけもの……」
その唇から呪詛のような言葉がもれた。
「やはり棄てられた王女など相手にするのではなかった……ばけものめ」
静かな森にその言葉はくっきりと響いた。
「た、助けていただいたのですよ」
誰かがたしなめるようにいう。
「そうです、ラウルさまがご無事なことがなによりもおめでたいではないですか」
「王女殿下、我らの主を不思議なわざで救っていただき誠にありがとうございます」
ひとりが言うと口々に感謝の言葉が続いた。主にしゃべらせてはまずいことになると誰もが思ったのである。
「さ、さ、ラウルさま。馬のところに疾く戻りましょう」
そうですそうですといいながら、男たちはそれとなくラウルを引っ立てていく。さすがに申し訳ないと思ったのか、最後尾のひとりは深々と腰を折ったお辞儀をしていった。
ミシャはそっとヘイゼルを盗み見た。
傷ついているのではと案じたのだ。
(勇気を出して助けたのに……あんなふうに罵られて)
ストロベリーブロンドの髪がほつれて風に吹かれている。
そのととのった横顔からはどんな感情も読みとれなかった。




