第十五話『まだ知らない後悔(中編)』
本作は映画『イエスタディ』から着想を得ています。
「……はぁ?」
スマホに表示された画面を見た瞬間、思わず素っ頓狂な声が漏れた。
誰もが知る世界的な超巨大通販サイトで「ワンピース」と検索したはずなのに、並んでいるのは女性用のワンピースばかりだ。本のジャンルに絞り込んでも、出てくるのはファッション誌やスタイルブックばかりで、肝心の漫画本『ワンピース』は一冊も見当たらない。
「いや、どうなってんだよ!」
思わず声が荒くなる。ボロアパートの壁は薄く、防音なんてあってないようなものだ。いつもなら、すぐにどこかの部屋から、苦情を訴えるように壁を叩く音の一つや二つは飛んできてもおかしくない。だが平日の昼間だからか、両隣は静まり返っていて、そんな音は返ってこなかった。
ほっと胸をなで下ろす。もっとも、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
「どういうことなんだよ」
何度も検索しなおすが、漫画の『ワンピース』は一向に表示されない。出てくるのは、女性服のワンピースばかり。検索ワードを変え、カタカナやアルファベットでも試してみるが、結果は同じだった。
「どうしてだよ」
苛立ちから、思わずスマホを握る指に力がこもる。
まるで『ワンピース』というタイトルの漫画が、最初からこの世に存在していないかのようだ。
世界中の誰もが使っている通販サイトが、日本だけでなく世界で最も売れている漫画を扱っていないはずがない。
なのに、何度検索をかけても『ワンピース』は一冊も出てこない。
その現実を突きつけられ、背中にじわりと嫌な汗がにじんだ。
「そんなバカな」
そんなこと、あるはずがない。
頭ではそう切り捨てようとするのに、胸の奥では別の声がざわついている。
おかしい。絶対におかしい。
たかが検索結果ひとつのはずなのに、足元からじわじわと日常が崩れていくような感覚がする。苛立ちと、説明のつかない不安が喉の奥に引っかかって、息が少しだけしづらくなった。
「絶対に何かの間違いだ」
そう言い聞かせるように呟いてから、今度はグーグルを立ち上げる。世界でいちばん使われている検索エンジンで「漫画 ワンピース」を検索して出てこないはずがない。あの、ギネスにも認定され、世界累計発行部数が五億部を超えた超人気漫画『ワンピース』が、ヒットしないなんてことがあるわけがない。
「……う、嘘だろ……」
表示された結果を見て、思わず息を呑んだ。そこに並んでいたのは、やはり女性用のワンピースばかりだった。
その瞬間、胸の奥で、何かがぱきんと音を立ててひび割れた気がした。自分の中にある「当たり前」が、一枚一枚はがされていくような、足場を抜かれていくような感覚。世界も現実も、さっきまで信じていた形から、ゆっくりとズレていく。
「なんだよ、これ……」
落ち着こうとしても、呼吸だけが早くなる。頭では「バグだ」「一時的な不具合だ」と言い聞かせるのに、身体のどこかがそれを否定していた。説明のつかない怖さがじわじわと膨らみ、手の中のスマホが、得体の知れないものの塊みたいに思えてくる。
「あ、ありえないだろ!」
手の中のスマホから、数えきれないほどの蟲が這い出してきたように感じた。現実にそんなことが起こるわけがない。だが、そんな錯覚に襲われ、全身を怖気が駆け抜けた。思わず、拒絶するようにそれを放り出した。
スマホは畳の上に落ちた。いつもなら、壊れていないか確認するため、すぐに拾い上げるところだ。だが今は、得体の知れない奇物にしか見えなかった。拾い上げる気には、とてもなれない。
ただじっと、表を向いた液晶画面を見つめていた。そこに映し出されたそれは、逃れようのない現実を突きつけるように、こちらを見上げていた。
ぞわっと、背筋が粟立つほどの冷たいものが駆け抜けた。
信じたくない。けれど、目をそらすことのできない「現実」が、そこにある。
さっきまで当たり前だった世界が、急にひっくり返されたような感覚に、自我がきゅっと締め上げられる。視界の端が、じりじりと狭まっていく。
「……いや、そんなはずない」
頭の中に、馬鹿げた考えがよぎる。
そんな漫画やアニメのようなことが現実で起きるなんて、あるはずがない。
気づけば立ち上がっていた。ついさっき目の当たりにした、現実とは思えない事実のショックに、意識だけがまだ追いついていない。足元はおぼつかないのに、身体だけが勝手に動き出す。スマホを畳に置き去りにしたまま、玄関へ駆け出した。クロックスのサンダルをつっかけ、鍵のことなどろくに気にも留めず、ドアを開けて外へ飛び出した。
とにかく、確かめなければならない。
その焦りだけを頼りに、ついさっき立ち寄ったばかりのコンビニへ向かって全力で走りだした。歩けば五分ほどの距離だが、本気で走るなんて高校生のとき以来だ。退院したばかりという事情を差し引いても、四十という年齢の体力の衰えを嫌でも思い知らされる。けれど、そんなことを考えている余裕はどこにもない。
焦る気持ちとは裏腹に足がついてこず、何度も足がもつれそうになる。それでもどうにか体勢を保ち、息も絶え絶えになりながら、汗だくでコンビニ店内に駆け込んだ。
ドアを勢いよく開いて飛び込んできた私を見て、カウンターに立っていた店長が、何事かといった顔でこちらを見つめる。だが、その訝しげな視線を無視して、私は真っ先に雑誌コーナーへと向かった。いくらコンビニとはいえ、日本で累計四億を超える発行部数を誇り、ジャンプ史上もっとも売れた漫画である『ワンピース』が一冊も置かれていない、なんてことがあるはずがない。
「……マジかよ……」
だが、そのあり得ないはずのことが、目の前で現実になっていた。
漫画が並べられている棚をいくら見渡しても、『ワンピース』は一冊も見当たらない。
「な、なんでないんだよ!」
思わず声が出た。大きく、荒く。
コンビニの店内には数人の客がいて、その全員の視線がこちらに向く。カウンターの店長も、驚きと困惑の混じった顔でこちらに顔を向けた。視線がぶつかる。
私はそのまま早足で店長の前まで詰め寄る。
「ど、どうかしましたか?」
「……あ、あの……」
息が上がってうまく声が出ない。胸を上下させながら、どうにか言葉を搾り出す。
「あ、あの、わ、ワンピースって置いてないんですか」
たまたま売り切れているだけかもしれない。もともと仕入れていないだけかもしれない。
そう自分に言い聞かせて、どうにか気持ちを落ち着かせようとする。
「わ、ワンピースですか? い、いや、うちはコンビニなんで、そういった類の商品はもとから扱っていませんが?」
予想していた答えを、あっさり裏切る反応だった。
「いやいやいや、あれですよ、漫画本のワンピースですよ。集英社から出てる、週刊少年ジャンプで一番の人気作品のワンピースのことですよ」
思わず声がさらに大きくなる。
店内の客たちは、明らかにヤバいやつを見るような目をこちらに向けている。だが、今の私には、そんな視線を気にしている余裕など一欠片もない。
カウンターの店長でさえ、迷惑な客を相手にしているかのような困った顔で、私が何を聞いているのか理解できていない、といった表情を浮かべていた。
「お、お客様、あの、申し訳ないんですが、その……話の意味がよく……。ワンピース? 私、漫画とかあまり読まなくて、そういうのには詳しくなくて、その……」
「いやいやいや、漫画を読むとか読まないとか、詳しいとか詳しくないとか関係ないでしょ。あのワンピースですよ。国内でもっとも売れた漫画本ですよ」
自分でもわかるくらい、声は上ずり、早口で言葉がつっかえながら溢れ出る。
店長はほとほと参ったといった様子で、困り果てた顔のまま固まっている。
「おい、いい加減にしろよ、おっさん。後ろがつかえてんだよ。何も買わねぇんなら、そこどけよ」
背後から、野卑としたがなり声が飛んできた。振り向くと、作業着姿の三十歳くらいの男が立っている。その後ろにも客が何人かいて、迷惑そうな表情でこちらを睨んでいる。
「すいません、あなたはわかりますよね? ワンピース、ジャンプのワンピースですよ。尾田栄一郎が描いたワンピースですよ。あなたなら当然知っていますよね?」
「なんだ、こいつ、気持ちわりぃな。知らねぇよ、そんな漫画」
男は露骨に顔をしかめ、心底気味悪そうに吐き捨てた。
「ちょ、ちょっと、いや、あの、冗談はやめてくださいよ。ワンピースですよ。海賊王を目指すルフィが、ひとつなぎの大秘宝を探す冒険漫画、日本で一番売れてて、誰もが知ってる、あのワンピースですよ!」
必死でまくし立てる私に、男は苛立ちを隠そうともせず、舌打ちまじりに言い返す。
「いい加減にしろよな、おっさん。これ以上、訳のわかんねぇこと言ってんなら、警察呼ぶぞ」
そう怒鳴るなり、男は私の胸ぐらをつかみ上げた。シャツの襟元がきゅっと締まり、呼吸が一瞬詰まる。
「ま、待ってくださいって……!」
何がどうおかしいのか、本気でわからない。助けを求めるように、私は男の肩越しに背後の客たちへ視線を向けた。だが、そこにいた数人の客もまた、私を、意味不明なことを喚いている厄介な中年男を見る目で、遠巻きに見ているだけだった。
恐怖と混乱と、理解不能さが一度に押し寄せる。
「そ、そそ、そんな、ば、馬鹿な……そんな馬鹿なこと、あるはずがないだろうが!」
震える声で叫びながら、私は男の手を振りほどいた。
反射的にレジ前から飛び退き、そのままコンビニの出口へ向かって走り出す。
ドアに体当たりするようにして押し開け、店内の客たちから向けられる忌避のまなざしから逃げるように、外へ飛び出した。
「う、嘘だ……なんだよ、あれ……悪い冗談だろ……」
息を荒げながら、呟きが漏れる。
さっきコンビニの中で目の当たりにした現実は、とても受け入れられるような代物じゃない。
あの場にいた誰一人として、漫画『ワンピース』の存在を知らなかった。そんな世界が、この現実の延長線上にあるなんて、簡単に信じられるはずがない。
信じたくなかった。
だから私は、まだ諦めきれずに『ワンピース』を探し続けた。
駅前の書店まで、歩けば三十分はかかる距離だ。その道すがら、目に入ったコンビニには片っ端から立ち寄った。だが、どこにも『ワンピース』は置かれていない。
全国展開する大手書店でも、結果は同じだった。
コミックス売り場をいくら探しても、漫画『ワンピース』は一冊も見つからない。店員に尋ねても、そのタイトルを知る者は誰一人いなかった。
それどころか、頭のおかしな客でも現れたかのように顔をしかめ、いぶかしげな視線を向けてくるだけだった。
「……一体、俺の身に何が起きたんだ……」
駅前の書店を出たときには、全身が鉛みたいに重かった。
徒労感が背中にのしかかり、うなだれたままトボトボと帰路につく。足は、知っているはずの道をただなぞっているのに、頭の中では、まるで初めて訪れた街の中をさまよっているかのようだ。濃い霧の中を歩かされているような心細さが、いつまでもつきまとって離れなかった。
本当におかしくなったのは、世界じゃなくて自分のほうなんじゃないか。
そう考えると、胸の奥がきゅっと縮む。
なぜ、どこにも漫画の『ワンピース』がない。
どうして、誰も『ワンピース』を知らない。
世界が狂ったのか、それとも俺の頭がおかしくなったのか。
だが、記憶の中の『ワンピース』は、あまりにも鮮明だった。
尾田栄一郎が描いた魅力的な世界も、キャラクターたちの姿かたちも、あの名場面や名台詞の数々も──全部、はっきりと覚えている。
先の読めない展開にのめり込み、紙の上に描かれたモノクロの未知の世界に胸を躍らせ、夢中でページをめくっていた。連載が始まったころ中学生だった自分が、無我夢中で読み続けていたあの時間も、決して幻なんかじゃない。ページをめくる指先の感触さえ、まるで昨日読んだばかりのように、はっきりと心に残っている。
これが「偽りの記憶」だなんて、とても思えない。
一体、なぜ、こんなことになっている。
なんで漫画本の『ワンピース』がどこにもない。作者の尾田栄一郎はどうしたというんだ。
いつから、この世界から『ワンピース』の存在が無くなってしまったのだろうか。
もし、何か思い当たることがあるとしたら、三か月前に車に轢かれたことくらいしかない。あの出来事以外に、原因らしい原因なんてどうしても思いつかなかった。
「……車に轢かれて、ワンピースのない世界線に……異世界に転移したってか?」
口に出してみると、あまりにも馬鹿げた考えだった。中二病じみたラノベか、誰かがなろう小説で描いていそうな展開だ。
普通に考えれば、そんなこと、あるはずがない。
──なのに。
否定しようとしても、今の状況を説明できる理由が、他にひとつも思いつかなかった。
日もだいぶ傾き、あたりは次第に薄暗くなっていく。通りを歩く人々、帰宅の途につく人々の姿は、いつもと変わらない。変わらない日常の中で、それぞれが当たり前のように、今日という一日を終えようとしている。
その流れの中で、まるで自分だけが、まったく別の日常へ迷い込んでしまった異邦人になったかのようだ。この世界の景色の中で、自分だけが、どこか浮いている。
夕闇がじわじわと濃くなっていく逢魔が時の気配の中、自分だけがこの世界からはみ出した異物に変わってしまったような気分に陥る。
本当に『ワンピース』は存在しないのか。
この世界では、誰も『ワンピース』という漫画を。あの物語を。誰も知らないというのだろうか。本当に、私以外の誰一人として、ワンピースという漫画の存在を覚えていないというのだろうか。茫然自失という言葉どおり、あまりに信じがたいことが続きすぎて、頭の中が真っ白になっていく。
気がつけば、アパートの自室の扉の前に立っていた。鍵を回し、ドアを開け、ふらふらと部屋の中へ足を踏み入れる。部屋の中は、すでに暗闇に覆われていた。窓の向こうから、暮れなずむ空のわずかな残光だけが差し込んでいて、その薄明かりの中で、私は座卓の前に腰を下ろす。
床に落ちているスマホを拾い上げ、電源ボタンを押す。画面が光を取り戻すと同時に、震える指で検索窓に文字を打ち込んだ。
ワンピース──。
しかし、結果は変わらない。漫画本の『ワンピース』は、一件たりとも検索に引っかからなかった。
「……誰も……ワンピースを知らない」
ぽつりと漏らした言葉とともに、胸の奥で何かが静かに燃え上がる。その感情は、神の恩恵。いや、啓示のようなものだったのかもしれない。
「俺以外、誰もあの物語を知らない」
そう思った瞬間、別の考えが頭をかすめる。この胸の内からこみあげてくる熱は、もしかしたら悪魔の甘いささやきに応えようとしているだけなのかもしれない──と。
気がつけば、まるで何かに誘われるように立ち上がっていた。カラーボックスにしまい込まれている漫画道具と、白紙の原稿用紙を引っ張り出す。
それらを座卓の上に並べ、真っ白な原稿を一枚、ゆっくりと広げた。
こんな気持ちを抱くのは、いつ以来だろうか。
胸が軽く弾み、抑えようとしても抑えきれない。初めて頭の中にオリジナルの物語が浮かび、初めて漫画を描いたあの頃の高揚感が、そのまま時間を飛び越えて戻ってきたようだった。
気づけば、私はペンを手に取っていた。ペンを握るのは久しぶりなはずなのに、どういうわけか掌に吸いつくように馴染む。インク壺の蓋を開けると、長らく嗅いでいなかった独特の匂いが鼻腔をくすぐった。ペン先をインクに浸し、白紙の上にそっと置く。
その瞬間、自然とペンが走り出した。
漫画家になることを諦めたはずだった。もう二度と漫画を描くことはないと思っていた。だが、退院したこの日、私は十年ぶりにペンを握り、漫画を描いていた。
まるで、心から漫画を描くことを楽しんでいた、まだ純粋で若かった頃の自分に戻ったかのように、私は無我夢中で漫画を描き始めていた。




