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第十四話『まだ知らない後悔(前編)』

本作は映画『イエスタディ』から着想を得ています。

 十二月。年の瀬を迎え、街はどこか落ち着かず、ざわついている。クリスマスを目前に控えたこの週、行き交う人々の足取りはどこか急ぎ足で、誰もが次の予定へと追われるように動いていた。通りに満ちる空気も、いつもよりせわしなく、年末特有の慌ただしさがあちこちに漂っている。

 そんな人混みに揉まれながら、私は今、出版社・集英社のビルの前に立っている。最後にここを訪れてから、もう十年以上が経っていた。初めてこの場所に立ったのは、まだ専門学校に通っていた頃。漫画の持ち込みに訪れたあの日のことを、今でもはっきりと覚えている。

 あの頃と同じように、期待と不安が入り混じった感情が、胸の奥からじわじわと込み上げてくる。

 そして今もまた、あの時と同じように、この緊張に尻込みし、引き返したくなるような恐れが胸をよぎった。

 緊張のあまり、背負ったリュックの肩紐を無意識のうちにぎゅっと握りしめていた。その中には、この一か月かけて描き上げた漫画の原稿が入っている。

 今日、私が集英社を訪れた理由も目的も、二十年前に初めて集英社に来た時とまったく同じだ。ひとつ、深く息を吸い、覚悟を決めて、足早に集英社の中へと踏み込んだ。

 久しぶりに訪れた集英社のロビーは、以前と変わった様子はほとんどなかった。ただ、年末ということもあってか、ロビーの中は行き交う人々の慌ただしさに包まれている。

 ロビーを出入りする人々の顔には、年末のイベントに追い立てられるような焦りが差していた。その合間を、常駐の警備員が数名、無言のまま視線を巡らせつつ歩いていく。奥には白い仕切り板で囲われたミーティングブースが並び、すでに何人かが編集者に身を乗り出すようにして話し込んでいる。おそらく、私と同じように漫画の持ち込みに来た人たちなのだろう。

 その光景を眺めていると、私はふと、初めてここを訪れた日のことを思い出した。懐かしさに引かれるように、ふいにあの頃の自分へ若返った錯覚が走り、軽い眩暈に似た昂ぶりが全身を揺さぶる。

 自分の描いたものに絶対の自信はある。けれど、他人に読まれ評価されることには、いつまで経っても慣れない。ましてや十年以上ぶりに描いた漫画だ。どれほどの自信も、それを上回る恐れに揺らいでしまう。これからあの席に座り、編集者に原稿を読まれ、判断される。そう考えただけで、心臓は早鐘を打ち、焦燥と不安が胸の内側をきしませた。

 浮ついた感情に押され、視線を右往左往させていると、ふと、受付の女性が入口に立ち尽くしている私を不審そうに見ていることに気づいた。

 慌てて受付カウンターへと足を運ぶが、女性の視線はますます厳しさを増していく。


「ご用件は?」


 受付カウンターに立つ女性にそう問われた瞬間、僕の緊張はさらに高まり、声が情けないほど上ずってしまった。


「あ、あの……」


 受付の女性の視線が一瞬だけ鋭くなる。その気配に押されて、僕は慌てて続きを口にする。


「すす、すみません。午後三時に漫画の持ち込みを──予約を入れておいた、鳥山です」

「確認しますので、少々お待ちください」


 受付の女性が顔を伏せ、手元で何かを確認しているあいだ、私は妙に居場所がないような気がして、そわそわと視線をさまよわせた。

 ロビーの中では、出版社で働く人たちと思しき人々が、書類やタブレットを抱えて慌ただしく行き交っている。あちこちから雑然とした話し声が立ちのぼり、どこか焦りを帯びた喧噪が空気に張りついていた。

 その流れの中で、所在なさげに突っ立っている私に気づいた何人かが、ちらりとこちらに顔を向ける。だが、すぐに興味を失ったように視線をそらして足早に通り過ぎていく。もちろん、その顔ぶれの中に、私が見知っている人間など一人もいない。

 それでも、誰かと目が合うたびに、胸の奥がひやりと冷たくなる。

 もし、今この瞬間、かつての私を知っている誰かが前を通りすぎたら。

 漫画家としてこの出版社に出入りしていた頃の知り合いに、出会ってしまったら。

 そんなことを想像しただけで、恐怖にも似た感情がじわりとせり上がってくる。十年以上も前、それもわずかな期間に出入りしていただけの、売れない漫画家だった私の存在など、とっくに忘れられているに決まっている。

 それでも、顔見知りに鉢合わせるかもしれないという不安は頭から離れない。その警戒心が、じわじわと私の冷静さを削り、視線は落ち着きなくロビーを泳ぎ続けた。考えすぎかもしれないが、巡回中の警備員がこちらへ視線を投げた気がして、胸がひやりとする。そんな自分の小心ぶりに、思わず嫌気が差した。


「確認が取れました。こちらの来客カードに記名をお願いいたします」


 受付の女性が丁寧にカードを差し出す。私は震える指でペンを取り、記名欄に自分の名を書き入れた。インクの線がわずかに波打つ。

 集英社に最後に来た日から、十年以上の時間が経っている。さすがに着古した普段着というわけにもいかず、ユニクロで感動ジャケットを購入したものの、どうにも身体に馴染まない。慣れない服の窮屈さと、久々のこの空間の空気とが重なって、胸のあたりがきゅっと狭くなる。息苦しく、居心地の悪さだけが肌にまとわりついた。


「鳥山明様、それでは担当者がのちほど参りますので、それまで四番ブースでお待ちください」


 案内を受け、白い仕切りで囲われたブース群へ視線を向ける。あちこちから年末進行に追われる声が飛び交い、空間はたちまち騒めきで満たされていく。私は、期待と不安がせめぎ合う胸の高鳴りを押さえ込み、ゆっくりと四番と記されたブースへ向かった。

 背中のリュックをテーブルに下ろし、椅子に腰を落ち着ける。隣のブースからは、持ち込みに来た若者たちと編集者のやり取りが、薄い壁を透って流れ込んでくる。


「ここはちょっと伝わりづらいね」

「このあたり、コマ運びが重いかな」

「主人公の感情が急に見えるかな」


 耳を澄ますと、静かなダメ出しばかりが重なり、そのたびに相手の返事はため息まじりに力なく落ちていく。陰鬱な会話の声色だけでブース全体の空気が重く沈んでいるのがわかり、こちらまで気持ちが引きずられた。胸の奥で不安がじくじくと掻き立てられていく。嫌な予感と恐れが膨らみ、それにつられて緊張も増していく。

 周囲から聞こえてくる、持ち込み原稿への手厳しい編集者と持ち込み者とのやり取りに引きずられ、最後にこの集英社を訪れたときの記憶がありありと蘇ってきた。鼓膜のどこかに貼りついたままだった、かつての担当編集であった小西の言葉が、再び鳴り出した。


――アンタには面白い漫画、つまり“売れる漫画”を描く才能がないってこと――

――アンタは漫画家にはなれない――


 小西の下卑た嘲笑まじりの声が、どこからともなく立ち上がり、耳の奥でいつまでも響き渡る。心がざわざわと掻き乱され、そのとき小西へ抱いた怒りと憎しみまでが、再び浮かび上がってきた。

 私は深呼吸をひとつ、ふたつ繰り返し、どうにか自分を落ち着かせようとする。

 だが、さっき掘り起こされた過去の記憶のせいで、気持ちばかりが逸って落ち着かない。居ても立ってもいられず、不安に胸がざわつく。気づけば、リュックを膝の上に引き寄せ、ファスナーを開けて中から漫画原稿の封筒を取り出していた。分厚い封筒の中には、この一か月、寝る間も惜しんで一心不乱に描き上げた原稿用紙の束が収められている。ちょうど単行本一冊分のページ数になる分量だ。

 私はその封筒のうえに、そっと手のひらを重ねる。握りしめるのではなく、落とさないように、でも壊してしまわないように、大切なものを支えるみたいに。そうしていると、不思議と小西の声が遠のいていく。消えたわけではないが、さっきまでのような大きさではなくなる。


――大丈夫だ――


 この漫画を描き始めることになったきっかけは、ちょうど一か月前に遡る。退院したその日、部屋へ戻ってきたあの瞬間がすべての始まりである。

主人公は、この世界から『ワンピース』がなくなっていることに気づき、再び夢に挑むことになります。ここから少し時間はかかりますが、漫画家としてデビューするまでの道のりを描いていきます。

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