12.東方の鍋料理『しゃぶしゃぶ』
ふたりの座る場所の前には、それぞれフォークが置かれている。
(『箸』がありませんでしたが、理論上はフォークで問題はないはずです)
ジウスには『しゃぶしゃぶ』がどういう料理なのか全く想像がつかない。
ただ、難しい錬金術の作業に挑戦しているときのようにフィリアの瞳に気迫が満ちているのだけは確かだ。
「煮る料理のようだけど……この黒い物体を食べるのかな?」
「いいえ、具材はこちらに」
フィリアが食料庫から薄紙で覆われた大皿を取り出し、テーブルに置く。そしてコンロに火を着け、鍋を温め始めた。
「資料によれば、あとはこれらの具材を鍋に投下するだけのはずです」
言いながら、フィリアは薄紙を外す。大皿には切り揃えられた薄切りの牛肉、ネギ、キャベツ、ニンジン、マッシュルームが用意されていた。
「察するに、スープのようなもの? だけどその小皿は……」
大皿には他にも、深めの小皿がふたつ乗っている。小皿は薄透明色の液体で満たされていた。
フィリアは小皿をひとつジウスの前に置き、もうひとつを自分の席の前に置いた。
「レモンの香りがする、あとは酢が入ってそうだ」
ジウスも貴族としてそれなりに食の知識はある。
初見でも液体の正体を正確に見抜いていた。
「いわゆる、つけダレというものです。これでしゃぶしゃぶの用意はできました」
「……ん? でも、皿が足りないんじゃないかな。取皿の上に煮た食材を並べて、最後にこのレモンビネガーソースをかけるんじゃ……」
ジウスは困惑していた。フィリアはふふりと微笑む。ちょうど鍋の水も沸騰していた。
「今から食べ方を実践します……!」
フィリアは自分用のフォークに牛肉を載せ、鍋のお湯にくぐらせ始めた。
ぐつぐつ、しゃぶしゃぶ……。
生の牛肉の淡い桃色が揺られながら、ゆっくりと白くなっていく。
「ここ……っ!」
きらっとフィリアの目が光り、肉が引き上げられる。牛肉は半分白く、少しだけ薄桃色が残った状態だ。
(文献通り、完璧な火加減のはずです)
「ま、まさか……」
「そしてつけダレにひたして、食べます」
そのまま器用にフォークに載った牛肉をちょちょいとつけダレにくぐらせる。躊躇なくフィリアはそのまま、はふはふと口に頬張った。
「んふー」
レモンと酢の配分も申し分ない。柑橘系の爽やかさとわずかな酢の後味が肉の旨味を際立たせている。
はむはむ……。
牛肉の一切れはさほど大きくない。つるっと飲み込めてしまう。美味しい。
「…………」
「とまぁ、このような料理になります。いかかです?」
「ふむ……」
ジウスが興味深そうに目を細め、フォークを手に取る。
「これまでに見たことのない料理だね。錬金術の実験のようだ」
「ええ、料理は実験でもあります。でも定められた手順を守れば、結果は出るものです」
(実は試したことのない料理であることは、言わないでおきましょう。誰も幸せになりません)
「あとは煮えにくい具材から鍋に入れ、好きなときに牛肉を食べるだけです」
すすっとフィリアがトングで具材を入れていく。ニンジン、マッシュルーム……。
「ふむふむ、自分のペースでいいわけか」
「むしろそこが重要なところでして」
「まずは一回やってみようか」
さっそくジウスが優雅にフォークを使い、牛肉を鍋にくぐらせる。
(私が使うのに比べると、なぜだか高貴なオーラが……)
多分、所作のひとつひとつが洗練されているからだろう。
そしてしゃぶしゃぶ……やや薄桃色を残して、ジウスは牛肉を引き上げる。初めてのはずだが、タイミングも完璧だった。
「これで良さそうかな」
そしてつけダレに軽くひたし、口の中へ……。
フィリアもさすがにこの瞬間だけは緊張する。口に合わなかったらどうしよう?
だがフィリアの心配とは裏腹に、ぱぁっとジウスが顔を綻ばせた。
「さっぱりしている。薄めの肉にレモンビネガーがこれほどよく合うとはね……!」
「大丈夫そうですか?」
「食べ方は驚いたけど、具材は馴染みのあるものばかりだからね。この昆布は……鶏ガラと似たような働きをしてるのかな。軽く味付けしてくれてる」
「まさにその通りです。東方では鶏が少ないので、昆布が出汁としてよく使われます」
「なるほど、ああ……これなら……」
ジウスはふっと立ち上がり、アトリエに持ち込んだ大きめのバッグをごそごそし始める。
「もし合う夜食が出たらと思って、持ってきたんだ」
ジウスがバッグから、すっと小さめのワインボトルを取り出した。見事な赤ワインである。
「フィリアも少しどうかな?」
「ええ、ぜひとも頂きます……!」
婚約からこれまで、ふたりとも食事の席で酒を飲む機会があった。なので大丈夫だろうとジウスは踏んでいたのだが――予想外のことは起きるものである。
フィリアは実家以外の誰も知らない秘密を開示した。
「私、赤ワインを5本飲んでも酔いませんので」
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