プロローグ(天使降臨)
人はきっと、忘れられない瞬間を幾つか抱えて生きていく。何年経っても、どれだけ季節が流れても、不意に思い出してしまう情景がある。
神代冬真にとっては『桜』だった。中学を卒業したばかりの春。入院している祖母神代八重の見舞いへ行った帰り道。病院の敷地にある一本の桜の木の下で、冬真は彼女を見つけた。最初は現実感がなかった。
満開の桜。春の風。白い光。その全部が、まるで彼女の為に存在しているみたいだった。ベンチに座る少女が、本を読んでいる。ただそれだけ。それだけなのに。冬真は視線を外せなかった。
綺麗・・・なんて言葉では足りない。
可愛い・・・そんな軽薄な言葉でも足りない。
胸の奥を静かに締め付けるような、美しさだった。風が吹く。長い黒髪が揺れる。淡い桜の花びらが肩に落ちる。その姿があまりにも儚くて。まるで桜そのものが人の形をしているみたいだった。
少女が、ふと顔を上げる。目が合った気がした。その瞬間。世界の音が消えた。車の音も。病院の喧騒も。遠くで鳴く鳥の声さえも。全てが遠くなる。少女は小さく微笑んだ。たったそれだけで、冬真の世界は変わった。人生初の一目惚れだった。名前も知らない。声も知らない。性格も知らない。何も知らない。それでも“好きだ”と思った。
あとで知ることになる。天使の名前は七瀬澪。高校で、一番人気の女の子。誰にでも優しくて。いつも笑っていて。太陽みたいに明るくて。
でも・・・。笑顔が、本物ではないことを。この時の冬真は、まだ知らなかった。




