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「それに……関節が、痛い。肘も、膝も……ギシギシして……」
沙羅が顔を歪める。
「うっ、頭が……目が、回る……」
次の瞬間。
沙羅の身体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「沙羅ちゃん!」
俺は慌てて彼女を抱き留める。
身体が、熱い。
「ケホッ、ケホッ……! 息が……苦し……」
乾いた咳。
呼吸困難。
――間違いない。
全ての症状が、一つの診断名を指し示している。
「減圧症だ……!」
「なんだそりゃ?! 病気か?!」
トゥカラが叫ぶ。
「急激に浮上しすぎたんだ! 高圧下で血液に溶け込んだ窒素が、気圧の低下で一気に気泡化して……血管を詰まらせている!」
サイダーの栓を抜いた時、泡が吹き出す現象と同じだ。
今の沙羅の体内では、血液が沸騰したように泡立ち、その気泡が毛細血管を、そして重要な神経を圧迫している。
「なんで……俺は、平気なのに……沙羅ちゃんだけ……」
俺には、軽い倦怠感こそあれ、沙羅のような重篤な症状はない。
同じ深さ、同じ時間を過ごしたはずなのに。
(いや。違う)
俺と沙羅では、決定的に違う条件があった。
(運動量だ……!)
俺は『診断』のために静止していた。
だが沙羅は、深海という高圧環境下で、剣を振るい、飛び回り、激しい戦闘を行っていた。
筋肉への血流が増加し、組織への窒素の吸蔵量が、俺とは比較にならないほど多かったのだ。
さらに、戦闘による二酸化炭素の蓄積が、気泡の形成を促進させてしまった。
「くそっ……! 俺のせいだ……!」
しかし、自分を責めても事態は改善しない。
(助けなければ。だが、どうする?)
現実で治療に使う、再圧チャンバーなど、この世界にはない。
(無いなら――作る!)
俺は、トゥカラの背から降り、桟橋に沙羅を寝かせた。
「医業執行――潜函・揺籃!」
俺の手のひらから、金色に輝く、ドームの膜が広がる。
それは、小さな結界として、沙羅の身体だけを包み込んだ。
圧力の、壁。
俺は、結界の中――沙羅の周囲の空間だけを、加圧する。
海中と同じ気圧の環境を、擬似的に作り出す。
ミシッ……。
空気が、重く軋む。
2気圧……3気圧……。
「……うぅ……」
加圧が進むにつれ、沙羅の痙攣が、徐々に治まっていく。
体内で膨張していた窒素の気泡が、再び圧力によって圧縮され、血液に溶け込み始めたのだ。
同時に、俺の視界が、赤く染まる。
鼻血が、噴き出す。
激痛が、俺の頭蓋骨を割りにかかる。
(構うものか!)
「再圧治療……ゆっくり、ゆっくり、戻すんだ」
俺は自分に言い聞かせる。一度加圧した状態から、時間をかけて減圧する。窒素を呼吸で排出させるために。
1分が永遠に感じられる。
汗が流れ、視界がぼやける。
左手が震える。流氷に落ちた時に痛めた神経が、業の負荷に悲鳴を上げている。右手一本で、圧力の微調整を続ける。
(だめだ、意識を手放すな……!)
集中力が途切れれば、圧力が乱れ、沙羅の体内で再び気泡が暴れ出す。
その時。
虚ろだった沙羅の瞳に、うっすらと焦点が戻った。
「セン……セ……?」
掠れた声。沙羅の視線が、俺の鼻から流れ落ちる血に固定された。
「血……センセ、鼻血……」
「気にしないで。もうすぐ終わる」
「嘘や。顔、真っ白やん」
沙羅が結界の中で身を起こそうとした。
「もう、ええよ。やめてや、センセ」
「……動かないで」
「やめてって言うてるやろ! うちなんかのために、センセが余命を削るんやったら――意味ないやん!」
「……沙羅ちゃん。本当に、本当に、止めてほしい? もし……楽になりたいなら、今すぐ止める」
沙羅は、目を見開いたまま、唇だけを動かした。声は、聴こえない。
「俺は、生きたかったよ」
自分でも思ってもみなかった、言葉が溢れた。
「余命宣告された時……最初に思ったのは、患者のことでも、友達のことでもなかった。すぐに医者を辞めて、自分の治療だけ考えたい。世界中の論文を漁って、治験を片っ端から申し込んで、1分でも1秒でも長く、生き延びる方法を探したい――それが、真っ先に浮かんだ」
鼻血が顎を伝い、桟橋の板に落ちる。
「でもできなかった。担当患者がいた。もう医局に入ってたし……教授にも、先輩にも止められた」
声が掠れる。
「格好悪いだろ。医者のくせに、真っ先に自分の命を考えた。……でも、それが本音だ」
結界の中で、沙羅が泣いていた。声も出さず、涙だけが溢れていた。
「沙羅ちゃん。悪いけど――また『助けなくて良い』って言われるのは、流石に辛すぎる」
沈黙。波の音。結界の中の気圧が、少しずつ下がっていく。
「……うち、病院で、育ったんや」
沙羅の声は消え入りそうだった。
「うちのせいで、ママはずっと……アメリカにも帰ってへん……」
気圧が、また少し下がる。窒素が、呼吸と共に沙羅の体から抜けていく。
「やのに」
沙羅の唇が震えた。
「さっき、息ができんくなった時……怖かった。消えるのが、怖かった」
俺は目線だけで、続きを促した。
「……生きたい」
聞こえないほど小さな声だった。
「聞こえない」
「生きたい……!」
もう一度。今度は結界を震わせるほどの声で。
「うち、まだ死にたくない……! まだ見てないもんが、いっぱいある……!」
金色のドームの中で、沙羅が泣いていた。
同時に、大理石模様が肌から引いていた。気泡が消え、血流が戻り、身体が治っていく。
心の膿と、身体の毒が、同時に排出されていた。
圧力が常圧に戻る。金色のドームが、静かに消えた。
俺は沙羅の傍に崩れ落ちた。左手を伸ばす。痺れて上手く動かないが、沙羅の頭にぽんと置いた。
「……それが、聞きたかったんだ」
俺は、ちゃんと笑えていたと、思う。
沙羅は俺の胸に顔を押しつけて、声を殺して泣いた。
*
灯台のセーブポイントまで、トゥカラが運んでくれた。
「センセ、明日も来てくれる?」
沙羅が、不安げに訊いた。
「当たり前だ。タミさんを見つけるまで、毎日来るよ」
俺は、虚空に指を走らせた。
システムウィンドウが、淡く浮かび上がる。
【『極楽を去りますか?』】
「……去ります」
世界が、ゆるやかに溶け始めた。
最後に見えたのは、夕陽を背にした沙羅の、泣き腫らした――けれど、どこか清々しい顔だった。
*
その頃、VR世界『極楽』――『高天原』。
始祖は、空中のモニターウインドウを、無表情に見つめていた。
映し出されていたのは、金色のドームの中で泣き叫ぶ沙羅と、鼻血を流しながら治療を続ける翔の姿の、リプレイ映像。
「……想定外ですね」
始祖が、薄い唇を動かす。
「あの少女は、『安らかな終焉プログラム』の中で、最も理想的な被験体でした。死を受容し、穏やかに消えていく――そのために最適化された、精神構造を持っていた」
始祖が、袖を振る。
映像が、巻き戻る。
沙羅が「死にたくない」と叫ぶシーン。
「それが、たった一人のイレギュラーの介入で……『生きたい』などと。……システムの想定を、逸脱しています」
始祖が、ゆっくりと立ち上がった。
「経過観察の段階は、終わりにいたしましょうか」
始祖の目が、冷たく光る。
「夏目 翔。次は――試練といきましょうか」
空中のウインドウが、硝子の割れるような音を立てて砕け散った。
螺鈿色の蝶が、無数に舞い上がる。
けれど、今度の蝶たちの翅は、以前より深い、血のような紅色を帯びていた。
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