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  俺は、反射的に振り返る。


  死んだはずのアンコウの腹部から、何かが「剥がれ落ちた」。


  それは、掌ほどの大きさしかない、小さな影。


  だが、その影は弾丸のような速度で、俺の喉元へと迫っていた。



――キィィィィン!



  金属音が響く。


  間一髪。沙羅が抜き放った手裏剣が――俺の喉笛を食い破ろうとしていた影を、弾き飛ばした。




「なっ……なんだ!?」


  俺は目を凝らす。


  弾かれた影は、くるりと水中で体勢を立て直し、俺たちを睨みつけていた。


  それは、巨大なメスのアンコウとは似ても似つかない、貧相な小魚だった。


  だが、その目は赤く爛々と輝き、小さい口には不釣り合いなほど巨大な牙が生えている。


「ハズシタ、ヵ」


  小魚が、しわがれた声で喋り、一度退散とばかりに、暗闇の中に消えていく。


「喋った!?」


  俺は驚愕する。


「気をつけろ! こいつ、アンコウのオスだ!」


  トゥカラが叫ぶ。


「アンコウのオスは…… 広大な深海でメスと出会う確率が、極めて低い。だから、メスに出会ったオスは、メスの体に噛みつき、そのまま融合する……。血管をつなげ、栄養をもらい、最終的には精巣だけの存在となる…… でもコイツはまだ、メスとの融合が進んでいなかったから、自分で動けているのか……?」


  俺は、昔、研究室で仕入れた知識を思い出した。


「ずっとメスと一緒に、文字通り二匹で一つとなって生きるんかぁ。なんや、ロマンチックやな!」


「ろまんちっく……かぁ?」


 最終的にアンコウのオスは、自分で泳ぐ必要が無くなる為、ひれも眼も失う。脳の機能さえ、退化する。子孫を残すための、精巣だけを発達させて。



(我ら皆、遺伝子の方舟……だったか?)


 ふと、医学生時代に読んだ、リチャード・ドーキンスの著書『利己的な遺伝子』の内容が、脳裏をよぎる。


『生物は、遺伝子という利己的な分子を保存するためだけに、プログラムされたロボットに過ぎない』


 人間も、魚も、あらゆる生命は、遺伝子という「不滅の乗客」を次世代へ運ぶための、使い捨ての「乗り物」だという考え方だ。 乗客を目的地(次の世代)へ送り届けさえすれば、乗り物(個体)がボロボロになろうが、死のうが、遺伝子には関係がない。


  このアンコウのオスは、まさにその理論の究極形だ。


  遺伝子を残すという目的に最適化するため、個としての「視覚」も「自由」も失っている。


(俺は、遺伝子の運び手として死ぬために、生きているわけじゃない。俺という意識、俺という記憶、俺という「個」を――失いたく、ない)


 俺は、アンコウのオスにロマンを感じることが、どうしてもできなかった。



 明後日の方向に思考が飛んでいたその時、上方から、微かな音がした。


 暗闇に溶けたオスがいるであろう部位を中心に、吸引力の強い水流が発生する。



  俺たちを守っていたトゥカラの泡の結界が、歪む。少しずつ、薄くなる。


「来るぞ!」


 巨大なメスの亡骸の陰から、再びあの小さな影が飛び出した。


 爛々と輝く赤い眼が、赤い尾を引いて暗闇を疾走する。



 ガンッ!



「野郎……すばしっこいな!」


 俺の前に立ち、オスの攻撃を受け止めてくれたトゥカラが、鋭い牙を剥いて唸る。


 俺は、痛むこめかみを押さえ、必死に意識を集中させる。


「医業執行――神脈・透視!」


 脳が焼けるような負荷。


 視界が明滅し、オスのチョウチンアンコウの、金色の構造図が浮かび上がる――はずだった。


 だが、ダメだ。


 対象が小さすぎ、かつ動きが速すぎる。


 素早く動く、淡い金色の残像ばかりが重なり合い、神脈の中心位置が特定できない。


(……どうしたらいい?)


   その時、俺の脳裏に、先ほど沙羅が倒した、メスのチョウチンアンコウの姿がよぎった。




 ――メス。提灯。光。




 脳内で、情報がスパークした。


 チョウチンアンコウのオスは、どうやって広大な深海でメスを見つける?


 奴らは、メスの発する「光」に、本能的に引き寄せられるのだ。




「沙羅ちゃん! イチかバチかの賭けだ!」


 俺は叫んだ。


「刀を白く光らせろ! チョウチンアンコウの、提灯みたいに!」


「えっ? そんなんしたら、位置がバレてまうで!」


「それが狙いだ! 奴はもう、あまり目が見えていないし脳も退化してる! 光をメスだと思いこませるんだ!」


「……そういうことなら、任しとき!」


 沙羅が、にやりと笑った。刀を頭上に掲げる。


「剣業執行――標・水月!(しるべ・すいげつ)!」



 キィィィン!



 澄んだ音が響き渡り、沙羅の刀が、淡い輝きを放った。


 深海の闇に染み渡るように、白く光り続ける。



 その瞬間。


 周囲を高速で旋回していた黒い影が、ピタリと止まった。


 オスの、退化した小さな眼が、沙羅の光を捉えた。



   ――やっと、会えた。



 聞こえるはずのないオスの声が、聞こえた気がした。


 遺伝子に刻まれた、抗いがたい本能の命令。


 オスは、直線的な軌道を描き、沙羅の光へと突進を開始した。


 もはや、俺たちの存在など眼中にない。


「今だ! トゥカラ!」


 俺の合図に、海の神が応える。


「おうよ! 恋路の邪魔ァ、させてもらうぜええっ!」


 白いアザラシが、青白く光るオーラを纏う。トゥカラが、尾びれを大きく振りかぶった。周囲の海水が渦を巻き、巨大な氷の塊が形成される。


「氷塊・粉砕シペ・ホロカァァッ!」


 ドォォォォン!!


 轟音。


 トゥカラの尾びれから放たれた氷塊が、光に夢中になっていたオスの横っ腹を直撃した。


 小さな体は、氷塊と共に吹き飛ばされ、海底の岩盤に叩きつけられた。


「ギィィッ……!」


 短い断末魔。


 オスは、それでも光の方へ這いずろうとしたが、力尽き、光の粒子となって霧散していった。


 後には、再び静寂が戻ってきた。


「ふぅ……。なんとかなったな。『泡』が、ちょっと傷んだが……」


 トゥカラが得意げに鼻を鳴らし、再び俺たちを泡で包む。


 俺は、オスが消えた暗闇を見つめた。


 メスと出会うためだけに生まれ、その光を追い求め、散っていった命。


「……本能に、殺されたか」


 俺は静かに呟いた。


 その言葉は、深海の冷たい水に溶け、誰に届くこともなく消えていった。


「センセ、大丈夫?」


 沙羅が、すいっと泳いで、寄ってくる。便利だとでも思ったのか、刀の淡い光はそのままだ。


「ああ。……さあ、報酬をいただこう」


 俺たちは、沈没船『百寿丸』の船長室へと向かった。


 腐りかけた扉を、トゥカラが体当たりでこじ開ける。



 その奥に、鈍く輝く、1mはありそうな、巨大な箱があった。


「千両箱?! いや、千両どころやなさそうや!」


 沙羅が、目を輝かせる。


 朽ちた木箱から、小判が溢れ出している。いくつか、宝石も入っているようだった。


 黄金色の輝きが、深海の闇を照らす。


「これなら、『水天回廊図』だけやない! ええ装備も買えるで!」


「一度に全部は、持っていけないな。何往復かするか……。宝石の価値は今ひとつわからないし、まずは小判のほうが、売る手間がなくていいかな」


 俺たちは、小さめの箱を見つけてきて、手分けして小判を回収した。


 ふと、沙羅の手が、少しだけ遅くなっているのに気づいた。


 沙羅の視線は、千両箱の中の、精緻な細工の簪に注がれていた。黒地に、七色の螺鈿で波模様を描いた簪。雫のような形の真珠が散りばめられている。ぼうっと、夢見るような目で、簪を見つめている。


(簪、欲しいのかな)


「その簪、沙羅ちゃんのにしていいよ」


「えっ?! ちゃうちゃう! 欲しいとかちゃうし! 今は、地図代が優先やし!」


 沙羅は、裏返った声を上げた。未練を断ち切るように首を振り、再び小判の回収のため、手を動かし始めた。


 俺は、無言で簪に手を伸ばし、俺の小判が入った箱の、一番上に入れた。



「よし、ずらかるぞ! 『泡』も、もうあんまり、持たねえ!」


 トゥカラが、急かす。


 気泡の膜は、少しだけ薄くなっていた。所々、細かな泡となって剥離している。




「急ごう」


 俺たちは、再びトゥカラの背に跨る。


 トゥカラが、力強く尾びれを振る。


 上昇が、始まる。


 海底の船体が、遠ざかる。


 深海の闇から、紺碧の世界へ。


 *


 深い、深い、海の底。


 俺たちは、トゥカラの作り出した空気の膜――『泡』の中に包まれ、海面を目指して上昇していた。


 頭上を見上げる。


 遥か彼方に、太陽の光が、小さな針の穴のように揺らめいているのが見える。


「急ぐぞ! 膜が持たねえ!」


 トゥカラの焦った声が、狭い空間に反響した。


 俺たちを包むゼリー状の結界は、深海の強大な水圧と、戦闘の余波を受けて、限界を迎えていた。


 膜の厚さが、目に見えて薄くなっている。


 外側の海水が、すぐそこまで迫り、不気味にうねっていた。


「沙羅ちゃん、じっとしていてくれ。酸素消費を抑えるんだ」


「う、うん……」


 沙羅は、俺の隣で膝を抱えていた。


 その呼吸が、少し荒い。


 激しい戦闘の直後だ。アドレナリンが切れ、ドッと疲れが出ているのだろう。


 顔色が、少し赤い。上気しているようだ。


 違和感を覚えるが、確認する間もなく、事態は急変した。


 ――ピシッ。


 亀裂の走る音がした。


 膜の表面に、蜘蛛の巣のようなヒビが入る。


「しまっ……! 浮上速度が速すぎる! 水圧の変化に、膜の強度が追いつかねえ!」


 トゥカラが叫ぶ。


「まずい、この深度で放り出されたら!」


 俺は沙羅の肩を抱き寄せた。


 まだ、水深は数十メートルはあるはずだ。


 ここで生身に戻れば、溺れるだけでは済まない。


 パァンッ!


 乾いた破裂音と共に、俺たちを守っていた『泡』が弾け飛んだ。


 途端に、冷たい海水が暴力的に襲いかかってくる。


 強烈な浮力と、水流にもみくちゃにされる。


 視界が泡と青色で埋め尽くされる。


(上だ! 光の方へ!)


 俺は必死に水をかいた。


 隣で、沙羅も苦しそうにもがいている。


 トゥカラが、元の小型アザラシの姿に戻り、俺たちの下へ滑り込んだ。


「掴まれェ!」


 俺と沙羅は、トゥカラの背ビレにしがみつく。


 トゥカラは、ロケットのような速度で、一気に海面へと急浮上した。


 水圧が、急激に下がる。


 耳の奥で、キーンという高い音が鳴り続ける。


 肺の中の空気が膨張し、押し出されそうになるのを、必死に堪える。


(速すぎる……! これじゃあ……!)


 医者としての警告シグナルが、脳内でけたたましく鳴り響く。


 だが、止まれない。


 止まれば、溺死だ。


 ザッパァァァァン!!


 視界が、真っ白に弾けた。


 新鮮な空気が、肺に飛び込んでくる。


 眩しい太陽。


 青い空。


 俺たちは、海面に出た。


「ぷはぁっ! ……し、死ぬかと思った……」


 俺と沙羅は、トゥカラに掴まったまま、大きく息を吸った。


 心臓が、早鐘を打っている。


 全身が鉛のように重いが、とりあえず、生きて空気を吸えていることに安堵する。


「危なかったぜ……」


 トゥカラも、ぜぇぜぇと荒い息をついている。俺は、桟橋に濡れて重い全身を、引き上げた。


「沙羅ちゃん、大丈夫か?」


 俺は、隣でうずくまっている沙羅に声をかけた。


 沙羅は、濡れた髪を顔に張り付かせたまま、小刻みに震えていた。


「……なんか、変や」


 掠れた声。


「変?」


「身体が……痒い。皮膚の下を、虫が這い回ってるみたいに……」


 沙羅が、自分の腕をバリバリと掻きむしる。


 見ると、その白い肌に、不気味な赤紫色の斑点――大理石のような模様が浮き上がっていた。


(皮膚の、大理石様斑マーブル・スキン……?!)


 俺の背筋が凍りついた。

少しでも続きが気になると思って頂いた方は、ブックマーク頂ければ幸いです。

3/30まで、1日複数話、定期的に投稿します。(全体で20話程度で、一段落となります)

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