13
俺は、反射的に振り返る。
死んだはずのアンコウの腹部から、何かが「剥がれ落ちた」。
それは、掌ほどの大きさしかない、小さな影。
だが、その影は弾丸のような速度で、俺の喉元へと迫っていた。
――キィィィィン!
金属音が響く。
間一髪。沙羅が抜き放った手裏剣が――俺の喉笛を食い破ろうとしていた影を、弾き飛ばした。
「なっ……なんだ!?」
俺は目を凝らす。
弾かれた影は、くるりと水中で体勢を立て直し、俺たちを睨みつけていた。
それは、巨大なメスのアンコウとは似ても似つかない、貧相な小魚だった。
だが、その目は赤く爛々と輝き、小さい口には不釣り合いなほど巨大な牙が生えている。
「ハズシタ、ヵ」
小魚が、しわがれた声で喋り、一度退散とばかりに、暗闇の中に消えていく。
「喋った!?」
俺は驚愕する。
「気をつけろ! こいつ、アンコウのオスだ!」
トゥカラが叫ぶ。
「アンコウのオスは…… 広大な深海でメスと出会う確率が、極めて低い。だから、メスに出会ったオスは、メスの体に噛みつき、そのまま融合する……。血管をつなげ、栄養をもらい、最終的には精巣だけの存在となる…… でもコイツはまだ、メスとの融合が進んでいなかったから、自分で動けているのか……?」
俺は、昔、研究室で仕入れた知識を思い出した。
「ずっとメスと一緒に、文字通り二匹で一つとなって生きるんかぁ。なんや、ロマンチックやな!」
「ろまんちっく……かぁ?」
最終的にアンコウのオスは、自分で泳ぐ必要が無くなる為、ひれも眼も失う。脳の機能さえ、退化する。子孫を残すための、精巣だけを発達させて。
(我ら皆、遺伝子の方舟……だったか?)
ふと、医学生時代に読んだ、リチャード・ドーキンスの著書『利己的な遺伝子』の内容が、脳裏をよぎる。
『生物は、遺伝子という利己的な分子を保存するためだけに、プログラムされたロボットに過ぎない』
人間も、魚も、あらゆる生命は、遺伝子という「不滅の乗客」を次世代へ運ぶための、使い捨ての「乗り物」だという考え方だ。 乗客を目的地(次の世代)へ送り届けさえすれば、乗り物(個体)がボロボロになろうが、死のうが、遺伝子には関係がない。
このアンコウのオスは、まさにその理論の究極形だ。
遺伝子を残すという目的に最適化するため、個としての「視覚」も「自由」も失っている。
(俺は、遺伝子の運び手として死ぬために、生きているわけじゃない。俺という意識、俺という記憶、俺という「個」を――失いたく、ない)
俺は、アンコウのオスにロマンを感じることが、どうしてもできなかった。
明後日の方向に思考が飛んでいたその時、上方から、微かな音がした。
暗闇に溶けたオスがいるであろう部位を中心に、吸引力の強い水流が発生する。
俺たちを守っていたトゥカラの泡の結界が、歪む。少しずつ、薄くなる。
「来るぞ!」
巨大なメスの亡骸の陰から、再びあの小さな影が飛び出した。
爛々と輝く赤い眼が、赤い尾を引いて暗闇を疾走する。
ガンッ!
「野郎……すばしっこいな!」
俺の前に立ち、オスの攻撃を受け止めてくれたトゥカラが、鋭い牙を剥いて唸る。
俺は、痛むこめかみを押さえ、必死に意識を集中させる。
「医業執行――神脈・透視!」
脳が焼けるような負荷。
視界が明滅し、オスのチョウチンアンコウの、金色の構造図が浮かび上がる――はずだった。
だが、ダメだ。
対象が小さすぎ、かつ動きが速すぎる。
素早く動く、淡い金色の残像ばかりが重なり合い、神脈の中心位置が特定できない。
(……どうしたらいい?)
その時、俺の脳裏に、先ほど沙羅が倒した、メスのチョウチンアンコウの姿がよぎった。
――メス。提灯。光。
脳内で、情報がスパークした。
チョウチンアンコウのオスは、どうやって広大な深海でメスを見つける?
奴らは、メスの発する「光」に、本能的に引き寄せられるのだ。
「沙羅ちゃん! イチかバチかの賭けだ!」
俺は叫んだ。
「刀を白く光らせろ! チョウチンアンコウの、提灯みたいに!」
「えっ? そんなんしたら、位置がバレてまうで!」
「それが狙いだ! 奴はもう、あまり目が見えていないし脳も退化してる! 光をメスだと思いこませるんだ!」
「……そういうことなら、任しとき!」
沙羅が、にやりと笑った。刀を頭上に掲げる。
「剣業執行――標・水月!(しるべ・すいげつ)!」
キィィィン!
澄んだ音が響き渡り、沙羅の刀が、淡い輝きを放った。
深海の闇に染み渡るように、白く光り続ける。
その瞬間。
周囲を高速で旋回していた黒い影が、ピタリと止まった。
オスの、退化した小さな眼が、沙羅の光を捉えた。
――やっと、会えた。
聞こえるはずのないオスの声が、聞こえた気がした。
遺伝子に刻まれた、抗いがたい本能の命令。
オスは、直線的な軌道を描き、沙羅の光へと突進を開始した。
もはや、俺たちの存在など眼中にない。
「今だ! トゥカラ!」
俺の合図に、海の神が応える。
「おうよ! 恋路の邪魔ァ、させてもらうぜええっ!」
白いアザラシが、青白く光るオーラを纏う。トゥカラが、尾びれを大きく振りかぶった。周囲の海水が渦を巻き、巨大な氷の塊が形成される。
「氷塊・粉砕ァァッ!」
ドォォォォン!!
轟音。
トゥカラの尾びれから放たれた氷塊が、光に夢中になっていたオスの横っ腹を直撃した。
小さな体は、氷塊と共に吹き飛ばされ、海底の岩盤に叩きつけられた。
「ギィィッ……!」
短い断末魔。
オスは、それでも光の方へ這いずろうとしたが、力尽き、光の粒子となって霧散していった。
後には、再び静寂が戻ってきた。
「ふぅ……。なんとかなったな。『泡』が、ちょっと傷んだが……」
トゥカラが得意げに鼻を鳴らし、再び俺たちを泡で包む。
俺は、オスが消えた暗闇を見つめた。
メスと出会うためだけに生まれ、その光を追い求め、散っていった命。
「……本能に、殺されたか」
俺は静かに呟いた。
その言葉は、深海の冷たい水に溶け、誰に届くこともなく消えていった。
「センセ、大丈夫?」
沙羅が、すいっと泳いで、寄ってくる。便利だとでも思ったのか、刀の淡い光はそのままだ。
「ああ。……さあ、報酬をいただこう」
俺たちは、沈没船『百寿丸』の船長室へと向かった。
腐りかけた扉を、トゥカラが体当たりでこじ開ける。
その奥に、鈍く輝く、1mはありそうな、巨大な箱があった。
「千両箱?! いや、千両どころやなさそうや!」
沙羅が、目を輝かせる。
朽ちた木箱から、小判が溢れ出している。いくつか、宝石も入っているようだった。
黄金色の輝きが、深海の闇を照らす。
「これなら、『水天回廊図』だけやない! ええ装備も買えるで!」
「一度に全部は、持っていけないな。何往復かするか……。宝石の価値は今ひとつわからないし、まずは小判のほうが、売る手間がなくていいかな」
俺たちは、小さめの箱を見つけてきて、手分けして小判を回収した。
ふと、沙羅の手が、少しだけ遅くなっているのに気づいた。
沙羅の視線は、千両箱の中の、精緻な細工の簪に注がれていた。黒地に、七色の螺鈿で波模様を描いた簪。雫のような形の真珠が散りばめられている。ぼうっと、夢見るような目で、簪を見つめている。
(簪、欲しいのかな)
「その簪、沙羅ちゃんのにしていいよ」
「えっ?! ちゃうちゃう! 欲しいとかちゃうし! 今は、地図代が優先やし!」
沙羅は、裏返った声を上げた。未練を断ち切るように首を振り、再び小判の回収のため、手を動かし始めた。
俺は、無言で簪に手を伸ばし、俺の小判が入った箱の、一番上に入れた。
「よし、ずらかるぞ! 『泡』も、もうあんまり、持たねえ!」
トゥカラが、急かす。
気泡の膜は、少しだけ薄くなっていた。所々、細かな泡となって剥離している。
「急ごう」
俺たちは、再びトゥカラの背に跨る。
トゥカラが、力強く尾びれを振る。
上昇が、始まる。
海底の船体が、遠ざかる。
深海の闇から、紺碧の世界へ。
*
深い、深い、海の底。
俺たちは、トゥカラの作り出した空気の膜――『泡』の中に包まれ、海面を目指して上昇していた。
頭上を見上げる。
遥か彼方に、太陽の光が、小さな針の穴のように揺らめいているのが見える。
「急ぐぞ! 膜が持たねえ!」
トゥカラの焦った声が、狭い空間に反響した。
俺たちを包むゼリー状の結界は、深海の強大な水圧と、戦闘の余波を受けて、限界を迎えていた。
膜の厚さが、目に見えて薄くなっている。
外側の海水が、すぐそこまで迫り、不気味にうねっていた。
「沙羅ちゃん、じっとしていてくれ。酸素消費を抑えるんだ」
「う、うん……」
沙羅は、俺の隣で膝を抱えていた。
その呼吸が、少し荒い。
激しい戦闘の直後だ。アドレナリンが切れ、ドッと疲れが出ているのだろう。
顔色が、少し赤い。上気しているようだ。
違和感を覚えるが、確認する間もなく、事態は急変した。
――ピシッ。
亀裂の走る音がした。
膜の表面に、蜘蛛の巣のようなヒビが入る。
「しまっ……! 浮上速度が速すぎる! 水圧の変化に、膜の強度が追いつかねえ!」
トゥカラが叫ぶ。
「まずい、この深度で放り出されたら!」
俺は沙羅の肩を抱き寄せた。
まだ、水深は数十メートルはあるはずだ。
ここで生身に戻れば、溺れるだけでは済まない。
パァンッ!
乾いた破裂音と共に、俺たちを守っていた『泡』が弾け飛んだ。
途端に、冷たい海水が暴力的に襲いかかってくる。
強烈な浮力と、水流にもみくちゃにされる。
視界が泡と青色で埋め尽くされる。
(上だ! 光の方へ!)
俺は必死に水をかいた。
隣で、沙羅も苦しそうにもがいている。
トゥカラが、元の小型アザラシの姿に戻り、俺たちの下へ滑り込んだ。
「掴まれェ!」
俺と沙羅は、トゥカラの背ビレにしがみつく。
トゥカラは、ロケットのような速度で、一気に海面へと急浮上した。
水圧が、急激に下がる。
耳の奥で、キーンという高い音が鳴り続ける。
肺の中の空気が膨張し、押し出されそうになるのを、必死に堪える。
(速すぎる……! これじゃあ……!)
医者としての警告シグナルが、脳内でけたたましく鳴り響く。
だが、止まれない。
止まれば、溺死だ。
ザッパァァァァン!!
視界が、真っ白に弾けた。
新鮮な空気が、肺に飛び込んでくる。
眩しい太陽。
青い空。
俺たちは、海面に出た。
「ぷはぁっ! ……し、死ぬかと思った……」
俺と沙羅は、トゥカラに掴まったまま、大きく息を吸った。
心臓が、早鐘を打っている。
全身が鉛のように重いが、とりあえず、生きて空気を吸えていることに安堵する。
「危なかったぜ……」
トゥカラも、ぜぇぜぇと荒い息をついている。俺は、桟橋に濡れて重い全身を、引き上げた。
「沙羅ちゃん、大丈夫か?」
俺は、隣でうずくまっている沙羅に声をかけた。
沙羅は、濡れた髪を顔に張り付かせたまま、小刻みに震えていた。
「……なんか、変や」
掠れた声。
「変?」
「身体が……痒い。皮膚の下を、虫が這い回ってるみたいに……」
沙羅が、自分の腕をバリバリと掻きむしる。
見ると、その白い肌に、不気味な赤紫色の斑点――大理石のような模様が浮き上がっていた。
(皮膚の、大理石様斑……?!)
俺の背筋が凍りついた。
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