12
ふわりと、白檀の香りが鼻腔をくすぐった。
奥ゆかしい木の香りに、甘酸っぱい蜜柑の香りが混じる。
硬い石畳の上で意識を刈り取られたはずだが、後頭部には柔らかな感触があった。
鉛のように重い瞼を、力を込めて持ち上げる。
長い睫毛を震わせ、涙を湛えた瞳が、俺を覗き込んでいた。
「……気がついた?」
硝子細工のように脆い声。
俺は自分が、彼女の膝の上に頭を預けているのだと理解するのに、数回の呼吸を要した。
「ご、ごめん! ……気を、失ってた?」
身を起こそうと腹筋に力を入れる。
刹那、側頭部を鈍い痛みが貫いた。
「っ……」
「まだ動いたらあかんよ。センセ、顔色が土気色や」
沙羅の華奢な掌が、俺の額を優しく押し留める。
指先から伝わる体温。
「一回ログアウトして、現実で休んでや。無理したら、死んでまう……」
沙羅の瞳から、大粒の雫がこぼれ落ち、俺の頬を濡らした。
「……だめだ」
「なんで!」
「セーブポイントがない。今ログアウトすれば、このエリアの攻略データは初期化される。アッコロカムイへの処置も、無かったことになるんだ……それだけは、できない」
「そんなこと、言うてる場合か! 命より大事なゲームなんて、あるわけないやろ!」
「これはゲームじゃない。……俺にとっては、現実の延長戦なんだ」
俺の頑なな言葉に、沙羅は唇を噛み締めた。
朱色の唇から血が滲みそうなほどに。
やがて、彼女は諦めたように長く息を吐いた。
「……わかった。わかったから、せめてここで休んでや」
沙羅の手のひらが、再び俺の目を覆う。
視界が闇に閉ざされると同時に、聴覚が鋭敏になった。
遠くで響く潮騒。
海鳥の鳴き声。
そして、沙羅の衣擦れの音。
「ウチが番をしてるから。……少しだけ、眠って」
意識の深淵へと沈んでいく中、ふと、古い記憶が脳裏をよぎる。
『お兄ちゃん、無理しないで』
病室のベッドで、点滴に繋がれた妹が、今の沙羅と同じような声で俺を呼んでいた。
あの時、俺はなんと答えただろうか。
答えは、闇の中へと消えた。
次に目を覚ました時、太陽は中天にあり、海面を煌めかせていた。
身体を起こす。
泥のように重かった四肢が、今は大分軽い。
「おう、起きたか寝坊助!」
灯台の入り口付近に組まれた即席の炉端で、トゥカラが器用に魚を炙っていた。
香ばしい匂いが、俺の空腹中枢を刺激する。
「これ、食うて」
横から差し出されたのは、大きな握り飯だった。
歪な三角形。ところどころ海苔が破れている。
不格好だが、愛嬌のある形。
沙羅が、心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。
「ありがとう」
礼を言い、一口かじる。
口いっぱいに広がるのは、白米の甘みと、塩気。
具は、トゥカラが釣った鮭の塩焼きだ。
炭火で焼かれた皮の香ばしさと、溢れ出す脂の旨味。
強い塩分が、疲弊した身体の細胞一つ一つに染み渡っていくようだ。
仮想の味覚データ。
脳細胞の、信号による錯覚。
何の栄養価もない「食事」のはずだ。
なのに、どうしようもなく美味かった。
「……うまいな」
俺の言葉に、沙羅の表情がぱっと華やいだ。
「……そ、そう? へへ、よかったわ」
沙羅が、頬を紅葉色に染める。
「よし、回復した。……灯台の上へ行こう」
見上げる先には、灯台が、抜けるような空色を突き刺すように、聳え立っていた。
*
俺たちは、螺旋階段を登り始めた。
静まり返った忘れじの灯台内には、三人の足音だけが響く。
埃っぽい空気の中に、微かな海の匂い。
最上階の灯籠室には、誰もいなかった。
「おらん……か」
沙羅が残念そうに呟く。
俺は、灯籠室を見渡した。
総檜造りの壁に囲まれた、荘厳な和の空間。
四方には朱塗りの柱が立ち、天井には鮮やかな花鳥風月が描かれている。
中央には、光源なのだろうか、人の背丈ほどもある灯籠が、鎮座していた。
鈍い光を放つ、灯籠の周囲には、無数の水晶玉が、夜空の星々のように軌道を描いて浮遊している。
リーン、リーンと、風鈴に似た涼やかな音が、空間を満たしていた。
「……まるで、神社の本殿みたいや。あっラッキーや! ここ、セーブポイントになっとる!」
沙羅が、はしゃいだ声を出す。
窓の外からは、海風が吹き込んでくる。
「尋ね人の手がかりは……」
トゥカラが、鼻をヒクヒクさせながら部屋を一周する。
「……あるぞ」
部屋の隅、海を一望できる文机の上に、一冊の和綴じ本が置かれていた。
表紙には『旅人の足跡』と、達筆な筆文字で記されている。
観光地によくある、旅人が思い出を記すノートのようだ。
俺は、吸い寄せられるようにその前に立った。
潮風で少し波打ったページを、震える指でめくる。
様々な筆跡で、『絶景だった』『病気のことを忘れられた』といった言葉が並んでいる。
ページを繰る手が、ある一点で止まった。
見覚えのある、丸みを帯びた愛らしい文字。
日付は、つい数日前。
『ここからの景色は、最高だった。
でも、私の旅はまだ終わらない。
この世界には、魂を震わす”三大絶景”があるという。
まずは、この灯台からみる、花の浮島。
次に、東の彼方、雲海に浮かぶ「天空の城」の千本桜。
最後に、南の果て、砂丘の奥にある「癒やしの都市」の月夜。
不思議だ。この仮想世界に来る前は、命など惜しくないと思っていた。十分に生きたのだから、命を神に返す時が来たのだと。けれど……今、私は全てをこの目で見て、見て、見てしまってから、死にたいと思っている。
どうか、ワガママになった私を、許して欲しい』
「タミさん……」
文字の端々から、彼女の穏やかな声が聞こえてくるようだった。
沙羅が、俺の腕越しにノートを覗き込む。
「“天空の山城”に、“癒やしの都市”か。……えらく遠い場所ばっかりやな」
「城は、空を飛べないと行けないしなぁ……」
「うち、行き方もよう知らんわ。海と空の地図……『水天回廊図』と、空を飛ぶ手段が必要やな」
「どこで手に入るんだ?」
「とりあえず、『水天回廊図』は、道具屋で買える。せやけど……高い」
「……とりあえず、セーブしてから、お金を稼ぐ方法を考えよう」
『魂を留める場所を、記録しました』
*
「地図……高いのか」
俺が溜息をつくと、沙羅が頷いた。
「『水天回廊図』は、たぶん、今のうちらの所持金やと、端っこも買えへん」
俺たちは、灯台の石段に座り込み、懐を確認した。
俺の所持金、ゼロ。
沙羅の巾着から出てきたのは、小銭が数枚と、飴玉が二つ。
「……詰んだな」
「詰んでへん! 稼げばええんや!」
沙羅が立ち上がり、拳を握る。
「ギルドの依頼みたいなのって、このゲームあるんだっけ?」
「ギルドに相当するんに、『座』ってのがあって……地道に依頼を3人でこなせば、一ヶ月くらいで……」
「うーん。一ヶ月もかけてたら、俺の有給が切れる。それに、タミさんがどこかへ行ってしまうな……」
「うぅ……」
沙羅ががっくりと肩を落とす。
「なんだ、お前ら。金がねえのか? ……金なら、そこにあるじゃねえか」
トゥカラが、ヒレで海を指差した。
「海?」
「海の底にゃあ、人間どもが落っことしたお宝が、山ほど眠ってるんだよ。沈没船だ」
俺と沙羅は顔を見合わせた。
「沈没船か!」
「おうよ。近くに『百寿丸』っていう、昔の貿易船が沈んでる。あそこなら、金目のもんが残ってるはずだぜ」
「でも、深海やろ? うちら、息続かへんし」
「それに、このゲームの物理演算、妙にリアルだから……水深が深くなれば、当然、水圧がかかるし」
「安心しな。俺様の『泡』で包んでやる。空気も持つし、水圧もある程度は防げる。……ま、限度はあるけどな」
トゥカラがニヤリと笑った。
「乗るか? 一攫千金ツアーだ」
「乗る! ……ありがとう、トゥカラ」
*
俺と沙羅は、灯台から降り、海辺で巨大化したトゥカラの背に乗った。
トゥカラが大きく息を吐き出すと、口からポコポコと大きな気泡が湧き出した。
「泡沫の守り(コイスム・エプンキネ)!」
気泡はゼリー状の膜となって結合し、俺と沙羅、そしてトゥカラの背中をすっぽりと包み込んだ。
「しっかり捕まってろよ! 潜るぜ!」
ザブゥゥゥン!
次の瞬間、視界が青一色に染まった。
海面を突破し、俺と沙羅は、トゥカラの背に乗ったまま、海中へと没した。
重力が変わり、浮遊感が体を包む。
膜の外を、無数の小さな泡が上へ上へと流れていく。
「わあ……っ」
沙羅が、目を見開いて歓声を上げた。
眼前に、水の群青と、白い泡と、淡い金色の万華鏡が広がっていた。
太陽の金色の光が、海面というレンズを通して差し込み、カーテンのように揺らめいている。
銀色のイワシの群れが、巨大な龍のようにうねりながら横切っていく。
透き通るようなクラゲたちが、俺たちの周囲を漂っている。
深く、潜るにつれて、青は濃さを増し、藍色へ、そして漆黒へと変わっていく。
「耳がキーンとするわ」
沙羅が、俺の着流しの背中をギュッと掴む。
「耳抜きをして。鼻をつまんで、息を吸い込んで」
「あ、治った」
「深度が増している証拠だ。……トゥカラ、あとどれくらいだ?」
「もうすぐだ。海底谷の縁に引っかかってるはずだ」
周囲はもう、完全な闇だった。
トゥカラが放つ、淡い青白い光だけが頼りだ。
その光の前方に、巨大な影が浮かび上がった。
朽ち果てた木造の巨大船。
マストは折れ、船体にはフジツボや珊瑚がびっしりと張り付いている。
「着いたぜ、『百寿丸』だ。……おい、気をつけろよ。この辺には、『番人』がいる」
トゥカラが声を潜める。
俺たちは、船の甲板へと降り立った。泡が器用に分裂し、俺と沙羅、そして小型化したトゥカラを別々に包む。
光るトゥカラを先頭に、フワフワと漂いながら、慎重に進む。
「お宝、どこやー?」
沙羅がキョロキョロと見回す。
その時。
「沙羅ちゃん、上!」
俺が叫ぶと同時に、頭上の闇から、巨大な光る提灯が垂れ下がってきた。
バクンッ!
巨大な顎が、俺たちのいた場所を噛み砕く。
寸前で飛び退いた俺たちの前に現れたのは、家ほどもある巨大な深海魚――チョウチンアンコウの化身だった。
全身は泥のような黒。
目は退化して小さく、口には無数の針のような牙が並んでいる。
額から伸びた、提灯のような突起が、真珠色に、白く、妖しく発光していた。
「本物のチョウチンみたいや!」
沙羅が叫び、刀を抜く。
「コイツは『深淵の番人』だ! 提灯の光で、餌をおびき寄せたり、オスを惹きつけるんや!」
トゥカラが泡の結界を維持しながら、尾びれで水流弾を放つ。
だが、水圧の高い深海では、動きが鈍る。
アンコウが、巨大な口を開け、超強力な吸引力で、周囲な海水を吸い込み始めた。
ゴオオオオオ!
凄まじい水流が、俺たちを口の中へ引きずり込もうとする。
「きゃああ!」
沙羅の体が浮き上がる。
「捕まれ!」
俺は沙羅の小さな手を掴み、マストの残骸にしがみついた。
ミシミシと、船体が悲鳴を上げる。
(まずい……このままじゃ、マストが壊れる!)
それに、この泡が破れれば、深海の水圧で俺たちは即死だ。
俺は、激流に耐えながら、目を見開いた。
「医業執行――神脈・透視!」
頭痛が走る。
視界が明滅し、アンコウの体内と、そこに張り巡らされた神脈が、金色に光って透けて見える。
巨大な胃袋。
強靭な筋肉。
そして――淡く青に光る提灯に、異常に発達した神経の金色網が、重なって見えた。
「あそこだ! あの提灯が、奴の急所だ! 沙羅ちゃん! 提灯を斬れ!」
「了解や! 任しとき!」
沙羅が、船の壁を蹴る。
沙羅は、海中を飛び、アンコウの頭上へと躍り出た。
「剣業執行――桜花・一閃!」
銀閃が走る。刀身の周辺に一瞬、桜の花びらが光る。
深海の闇に、沙羅の振り袖が浮かび上がった。
日本刀の切っ先が、アンコウの提灯を、正確に捉えた。
スパァン!
音もなく、光る提灯が、切り落とされた。
「ギャオオオオオオン!」
アンコウが、断末魔の叫びを上げる。
その巨大な身体が痙攣し、泥のような黒い体液を海中に撒き散らした。
巨体がゆっくりと横転し、海底の砂を巻き上げながら、動かなくなる。
「やった!」
俺は泡の中で拳を握る。
沙羅が、ふわりと俺たちの元へ戻ってきた。
「ふぅ……。でっかい図体して、意外と脆かったなぁ」
沙羅が額の汗を拭う仕草を見せる。
トゥカラが、ふん、と鼻を鳴らした。
「あっけねえな。所詮は図体だけの木偶の坊か。……沈没船の金庫を探そう。この『泡』も、ずっと持つわけじゃねえし」
俺たちは、死んだアンコウに背を向け、沈没船の奥に進もうとした。
――刹那。
「センセ! 危ない!」
沙羅の悲鳴が聞こえた。
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3/30まで、1日複数話、定期的に投稿します。(全体で20話程度で、一段落となります)




