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 ふわりと、白檀の香りが鼻腔をくすぐった。


 奥ゆかしい木の香りに、甘酸っぱい蜜柑の香りが混じる。


 硬い石畳の上で意識を刈り取られたはずだが、後頭部には柔らかな感触があった。


 鉛のように重い瞼を、力を込めて持ち上げる。


 長い睫毛を震わせ、涙を湛えた瞳が、俺を覗き込んでいた。


「……気がついた?」


 硝子細工のように脆い声。


 俺は自分が、彼女の膝の上に頭を預けているのだと理解するのに、数回の呼吸を要した。


「ご、ごめん! ……気を、失ってた?」


 身を起こそうと腹筋に力を入れる。


 刹那、側頭部を鈍い痛みが貫いた。


「っ……」


「まだ動いたらあかんよ。センセ、顔色が土気色や」


 沙羅の華奢な掌が、俺の額を優しく押し留める。


 指先から伝わる体温。


「一回ログアウトして、現実で休んでや。無理したら、死んでまう……」


 沙羅の瞳から、大粒の雫がこぼれ落ち、俺の頬を濡らした。


「……だめだ」


「なんで!」


「セーブポイントがない。今ログアウトすれば、このエリアの攻略データは初期化される。アッコロカムイへの処置も、無かったことになるんだ……それだけは、できない」


「そんなこと、言うてる場合か! 命より大事なゲームなんて、あるわけないやろ!」


「これはゲームじゃない。……俺にとっては、現実の延長戦なんだ」


 俺の頑なな言葉に、沙羅は唇を噛み締めた。


 朱色の唇から血が滲みそうなほどに。


 やがて、彼女は諦めたように長く息を吐いた。


「……わかった。わかったから、せめてここで休んでや」


 沙羅の手のひらが、再び俺の目を覆う。


 視界が闇に閉ざされると同時に、聴覚が鋭敏になった。


 遠くで響く潮騒。


 海鳥の鳴き声。


 そして、沙羅の衣擦れの音。


「ウチが番をしてるから。……少しだけ、眠って」




 意識の深淵へと沈んでいく中、ふと、古い記憶が脳裏をよぎる。


『お兄ちゃん、無理しないで』


 病室のベッドで、点滴に繋がれた妹が、今の沙羅と同じような声で俺を呼んでいた。


 あの時、俺はなんと答えただろうか。


 答えは、闇の中へと消えた。




 次に目を覚ました時、太陽は中天にあり、海面を煌めかせていた。


 身体を起こす。


 泥のように重かった四肢が、今は大分軽い。




「おう、起きたか寝坊助!」


 灯台の入り口付近に組まれた即席の炉端で、トゥカラが器用に魚を炙っていた。


 香ばしい匂いが、俺の空腹中枢を刺激する。


「これ、食うて」


 横から差し出されたのは、大きな握り飯だった。


 歪な三角形。ところどころ海苔が破れている。


 不格好だが、愛嬌のある形。


 沙羅が、心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。


「ありがとう」


 礼を言い、一口かじる。


 口いっぱいに広がるのは、白米の甘みと、塩気。


 具は、トゥカラが釣った鮭の塩焼きだ。


 炭火で焼かれた皮の香ばしさと、溢れ出す脂の旨味。


 強い塩分が、疲弊した身体の細胞一つ一つに染み渡っていくようだ。




 仮想の味覚データ。


 脳細胞の、信号による錯覚。


 何の栄養価もない「食事」のはずだ。


 なのに、どうしようもなく美味かった。


「……うまいな」


 俺の言葉に、沙羅の表情がぱっと華やいだ。


「……そ、そう? へへ、よかったわ」


 沙羅が、頬を紅葉色に染める。




「よし、回復した。……灯台の上へ行こう」


 見上げる先には、灯台が、抜けるような空色を突き刺すように、聳え立っていた。


 俺たちは、螺旋階段を登り始めた。


 静まり返った忘れじの灯台内には、三人の足音だけが響く。


 埃っぽい空気の中に、微かな海の匂い。



 最上階の灯籠室には、誰もいなかった。


「おらん……か」


 沙羅が残念そうに呟く。


 俺は、灯籠室を見渡した。


 総檜造りの壁に囲まれた、荘厳な和の空間。


 四方には朱塗りの柱が立ち、天井には鮮やかな花鳥風月が描かれている。


 中央には、光源なのだろうか、人の背丈ほどもある灯籠が、鎮座していた。


 鈍い光を放つ、灯籠の周囲には、無数の水晶玉が、夜空の星々のように軌道を描いて浮遊している。


 リーン、リーンと、風鈴に似た涼やかな音が、空間を満たしていた。


「……まるで、神社の本殿みたいや。あっラッキーや! ここ、セーブポイントになっとる!」


 沙羅が、はしゃいだ声を出す。


 窓の外からは、海風が吹き込んでくる。


「尋ね人の手がかりは……」


 トゥカラが、鼻をヒクヒクさせながら部屋を一周する。


「……あるぞ」



 部屋の隅、海を一望できる文机ふづくえの上に、一冊の和綴じ本が置かれていた。


 表紙には『旅人の足跡』と、達筆な筆文字で記されている。


 観光地によくある、旅人が思い出を記すノートのようだ。


 俺は、吸い寄せられるようにその前に立った。


 潮風で少し波打ったページを、震える指でめくる。


 様々な筆跡で、『絶景だった』『病気のことを忘れられた』といった言葉が並んでいる。


 ページを繰る手が、ある一点で止まった。


 見覚えのある、丸みを帯びた愛らしい文字。


 日付は、つい数日前。


『ここからの景色は、最高だった。


 でも、私の旅はまだ終わらない。


 この世界には、魂を震わす”三大絶景”があるという。



  まずは、この灯台からみる、花の浮島。


 次に、東の彼方、雲海に浮かぶ「天空の城」の千本桜。


 最後に、南の果て、砂丘の奥にある「癒やしの都市」の月夜。


 不思議だ。この仮想世界に来る前は、命など惜しくないと思っていた。十分に生きたのだから、命を神に返す時が来たのだと。けれど……今、私は全てをこの目で見て、見て、見てしまってから、死にたいと思っている。


 どうか、ワガママになった私を、許して欲しい』


「タミさん……」


 文字の端々から、彼女の穏やかな声が聞こえてくるようだった。


 沙羅が、俺の腕越しにノートを覗き込む。


「“天空の山城”に、“癒やしの都市”か。……えらく遠い場所ばっかりやな」


「城は、空を飛べないと行けないしなぁ……」


「うち、行き方もよう知らんわ。海と空の地図……『水天回廊図』と、空を飛ぶ手段が必要やな」


「どこで手に入るんだ?」


「とりあえず、『水天回廊図』は、道具屋で買える。せやけど……高い」


「……とりあえず、セーブしてから、お金を稼ぐ方法を考えよう」


『魂を留める場所を、記録しました』



 *


「地図……高いのか」


  俺が溜息をつくと、沙羅が頷いた。


「『水天回廊図』は、たぶん、今のうちらの所持金やと、端っこも買えへん」


  俺たちは、灯台の石段に座り込み、懐を確認した。


  俺の所持金、ゼロ。


  沙羅の巾着から出てきたのは、小銭が数枚と、飴玉が二つ。


「……詰んだな」


「詰んでへん! 稼げばええんや!」


  沙羅が立ち上がり、拳を握る。


「ギルドの依頼みたいなのって、このゲームあるんだっけ?」


「ギルドに相当するんに、『座』ってのがあって……地道に依頼を3人でこなせば、一ヶ月くらいで……」


「うーん。一ヶ月もかけてたら、俺の有給が切れる。それに、タミさんがどこかへ行ってしまうな……」


「うぅ……」


  沙羅ががっくりと肩を落とす。


「なんだ、お前ら。金がねえのか? ……金なら、そこにあるじゃねえか」


  トゥカラが、ヒレで海を指差した。


「海?」


「海の底にゃあ、人間どもが落っことしたお宝が、山ほど眠ってるんだよ。沈没船だ」


  俺と沙羅は顔を見合わせた。


「沈没船か!」


「おうよ。近くに『百寿丸』っていう、昔の貿易船が沈んでる。あそこなら、金目のもんが残ってるはずだぜ」


「でも、深海やろ? うちら、息続かへんし」


「それに、このゲームの物理演算、妙にリアルだから……水深が深くなれば、当然、水圧がかかるし」


「安心しな。俺様の『泡』で包んでやる。空気も持つし、水圧もある程度は防げる。……ま、限度はあるけどな」


 トゥカラがニヤリと笑った。


「乗るか? 一攫千金ツアーだ」


「乗る! ……ありがとう、トゥカラ」



 *


  俺と沙羅は、灯台から降り、海辺で巨大化したトゥカラの背に乗った。


  トゥカラが大きく息を吐き出すと、口からポコポコと大きな気泡が湧き出した。


「泡沫の守り(コイスム・エプンキネ)!」


  気泡はゼリー状の膜となって結合し、俺と沙羅、そしてトゥカラの背中をすっぽりと包み込んだ。


「しっかり捕まってろよ! 潜るぜ!」


 ザブゥゥゥン!


  次の瞬間、視界が青一色に染まった。


 海面を突破し、俺と沙羅は、トゥカラの背に乗ったまま、海中へと没した。


  重力が変わり、浮遊感が体を包む。


  膜の外を、無数の小さな泡が上へ上へと流れていく。


「わあ……っ」


  沙羅が、目を見開いて歓声を上げた。


 眼前に、水の群青と、白い泡と、淡い金色の万華鏡が広がっていた。


 太陽の金色の光が、海面というレンズを通して差し込み、カーテンのように揺らめいている。


  銀色のイワシの群れが、巨大な龍のようにうねりながら横切っていく。


  透き通るようなクラゲたちが、俺たちの周囲を漂っている。


  深く、潜るにつれて、青は濃さを増し、藍色へ、そして漆黒へと変わっていく。


「耳がキーンとするわ」


  沙羅が、俺の着流しの背中をギュッと掴む。


「耳抜きをして。鼻をつまんで、息を吸い込んで」


「あ、治った」


「深度が増している証拠だ。……トゥカラ、あとどれくらいだ?」


「もうすぐだ。海底谷かいていこくの縁に引っかかってるはずだ」


 周囲はもう、完全な闇だった。


 トゥカラが放つ、淡い青白い光だけが頼りだ。



  その光の前方に、巨大な影が浮かび上がった。


  朽ち果てた木造の巨大船。


  マストは折れ、船体にはフジツボや珊瑚がびっしりと張り付いている。


「着いたぜ、『百寿丸』だ。……おい、気をつけろよ。この辺には、『番人』がいる」


  トゥカラが声を潜める。


  俺たちは、船の甲板へと降り立った。泡が器用に分裂し、俺と沙羅、そして小型化したトゥカラを別々に包む。


  光るトゥカラを先頭に、フワフワと漂いながら、慎重に進む。


「お宝、どこやー?」


  沙羅がキョロキョロと見回す。


  その時。


「沙羅ちゃん、上!」


  俺が叫ぶと同時に、頭上の闇から、巨大な光る提灯が垂れ下がってきた。



  バクンッ!


  巨大な顎が、俺たちのいた場所を噛み砕く。


  寸前で飛び退いた俺たちの前に現れたのは、家ほどもある巨大な深海魚――チョウチンアンコウの化身だった。



  全身は泥のような黒。


  目は退化して小さく、口には無数の針のような牙が並んでいる。


  額から伸びた、提灯のような突起が、真珠色に、白く、妖しく発光していた。


「本物のチョウチンみたいや!」


  沙羅が叫び、刀を抜く。


「コイツは『深淵の番人』だ! 提灯の光で、餌をおびき寄せたり、オスを惹きつけるんや!」


 トゥカラが泡の結界を維持しながら、尾びれで水流弾を放つ。


  だが、水圧の高い深海では、動きが鈍る。


  アンコウが、巨大な口を開け、超強力な吸引力で、周囲な海水を吸い込み始めた。



  ゴオオオオオ!



  凄まじい水流が、俺たちを口の中へ引きずり込もうとする。


「きゃああ!」


 沙羅の体が浮き上がる。


「捕まれ!」


 俺は沙羅の小さな手を掴み、マストの残骸にしがみついた。


 ミシミシと、船体が悲鳴を上げる。


(まずい……このままじゃ、マストが壊れる!)


 それに、この泡が破れれば、深海の水圧で俺たちは即死だ。


 俺は、激流に耐えながら、目を見開いた。


「医業執行――神脈・透視!」


 頭痛が走る。


 視界が明滅し、アンコウの体内と、そこに張り巡らされた神脈が、金色に光って透けて見える。


  巨大な胃袋。


 強靭な筋肉。


 そして――淡く青に光る提灯に、異常に発達した神経の金色網が、重なって見えた。


「あそこだ! あの提灯が、奴の急所だ! 沙羅ちゃん! 提灯を斬れ!」


「了解や! 任しとき!」


 沙羅が、船の壁を蹴る。


  沙羅は、海中を飛び、アンコウの頭上へと躍り出た。


「剣業執行――桜花・一閃おうか・いっせん!」


 銀閃が走る。刀身の周辺に一瞬、桜の花びらが光る。


 深海の闇に、沙羅の振り袖が浮かび上がった。


 日本刀の切っ先が、アンコウの提灯を、正確に捉えた。


  スパァン!


  音もなく、光る提灯が、切り落とされた。


「ギャオオオオオオン!」


 アンコウが、断末魔の叫びを上げる。


  その巨大な身体が痙攣し、泥のような黒い体液を海中に撒き散らした。


  巨体がゆっくりと横転し、海底の砂を巻き上げながら、動かなくなる。


「やった!」


  俺は泡の中で拳を握る。


  沙羅が、ふわりと俺たちの元へ戻ってきた。


「ふぅ……。でっかい図体して、意外と脆かったなぁ」


  沙羅が額の汗を拭う仕草を見せる。


 トゥカラが、ふん、と鼻を鳴らした。


「あっけねえな。所詮は図体だけの木偶のデクノボウか。……沈没船の金庫を探そう。この『泡』も、ずっと持つわけじゃねえし」


 俺たちは、死んだアンコウに背を向け、沈没船の奥に進もうとした。


 ――刹那。


「センセ! 危ない!」


  沙羅の悲鳴が聞こえた。

少しでも続きが気になると思って頂いた方は、ブックマーク頂ければ幸いです。

3/30まで、1日複数話、定期的に投稿します。(全体で20話程度で、一段落となります)

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