模範という檻
檻は、
最初から形をしているわけではない。
最初は、
「こうしてくれると助かる」という
小さな希望から始まる。
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朝、俺が家を出ると、
人々が同じ時間に動き出した。
誰かが合図を出したわけではない。
俺が歩き出したからだ。
止まれば、
皆も止まる。
進めば、
皆も進む。
それは信頼ではない。
基準だった。
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「英雄なら、こうする」
その言葉を、
最近よく聞くようになった。
直接言われることは少ない。
だが、
会話の端々に混じる。
•英雄なら怒らない
•英雄なら迷わない
•英雄なら公平だ
それらはすべて、
善意の形をしていた。
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俺は気づいた。
期待は、
外れる余地がある。
だが、
模範は違う。
外れた瞬間に、
間違いになる。
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ある日、
小さな失敗をした。
畑仕事の順番を、
一つ間違えただけだ。
今までなら、
誰も気にしなかった。
だがその日は、
空気が変わった。
「……英雄でも、
間違えるんだな」
誰かが、
そう呟いた。
責める声ではない。
むしろ安堵に近い。
だが、
それが一番残酷だった。
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間違いは、
許されるためにある。
だが、
模範には
許されるための間違いが存在しない。
間違えた瞬間、
模範でなくなる。
模範でなくなった瞬間、
期待が反転する。
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俺は、
自分の振る舞いを
意識するようになった。
言葉を選び、
感情を抑え、
沈黙を計算する。
それは、
剣を持つよりも
よほど消耗する行為だった。
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夜、
一人で考えた。
いつから、
俺は俺であることを
やめたのか。
逃げなかった夜か。
英雄と呼ばれた日か。
それとも、
誰もが「模範」を
求め始めた瞬間か。
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模範は、
誰も入れない檻だ。
中にいる者は、
外に出られない。
外にいる者は、
中に入らなくていい。
そして、
檻を作った者は、
誰も責任を取らない。
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長老は言った。
「皆、安心したいだけだ」
それは、
否定できない理由だった。
模範があれば、
迷わずに済む。
考えなくて済む。
責任を、
誰か一人に集められる。
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その夜、
俺ははっきりと理解した。
英雄とは、
称えられる存在ではない。
皆が迷わないために、
閉じ込められる存在だ。
そしてその檻は、
一度完成すると、
内側から壊すことはできない。
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もし、
ここで逃げれば。
英雄は堕ちたと
語られるだろう。
もし、
ここで従えば。
模範として
消費され続けるだろう。
どちらを選んでも、
自由は戻らない。
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そのとき、
胸の奥に、
小さな予感が芽生えた。
この檻は、
俺一人の問題では終わらない。
次の世代は、
この檻を「正しい形」として
受け取ってしまう。
それだけは、
避けなければならない。
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模範という檻は、
静かに完成しつつある。
音もなく、
鍵も見えない。
だが、
確実に閉じていく。
そして俺は、
その内側で、
次に来る選択を
待っている。




