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妹分

 葉山の聞き捨てならない言葉に反射的に駆け出していた楊だったが、県警一の俊足を生かして彼が向かった先は水野が借りているハイツである。


 四階建てのエレベーターもないハイツの四階に彼女は住んでおり、楊は近隣の治安が悪い事とオートロックでない所で、水野に何度か引っ越しを勧めてはいた物件でもある。


 楊は辿り着いたハイツのエントランスのガラス製の扉に手を当てたが、押し開けもせずに手を当てたまま深呼吸をして一息つき、ごくりと唾を飲み込むや扉を押し開けて、とにかく物凄い勢いで再び駆け出していた。

 エントランスを突っ切り、そのまま階段を四階まで駆け上がり、そして、水野の部屋のある一番端まで共有廊下を走ったのである。


「はぁ、畜生。子供が生まれるなら、エレベーターのある建物にしろってんだ。」


 楊は自分のスーツの裏ポケットに手を突っ込んだ。


「かわさん。あたしに何かあった時用です。」


 水野から手渡されていた彼女の部屋の合い鍵には、彼女の大好きな蛙のキャラクターのシールが貼ってあった。

 このシールは楊が間違えない様に貼ったもので、そして、絶対に落とさないようにと必ず持ち歩いていたからか、鍵が新品同様であるのと反対にシールは蛙の顔がほとんど判別出来ないほどに剥げていた。


 そして楊はノックどころかインターホンも押さずにそのカギで水野の部屋を開けたのだが、彼を待ち受けていた状況に、彼はその場で脱力して四つん這いになるしかなかったのである。


「畜生。騙されたぜ。」


 水野が妊娠しているのだと思い込んだからこそ慌てて彼女の部屋に楊は突撃をしてしまったのだが、妊娠どころか赤ん坊は既に生後半年位の月齢で、背もたれを倒してフラットにした座椅子に機嫌よく転がっていた。

 どうやらおむつの交換をしようとするタイミングだったのか、水野は赤ん坊の小さなズボンを、佐藤は新品の紙おむつを持ったまま、一斉に楊に振り向いたのである。


「あ、かわさんだ。」


「お久しぶりです。もう大丈夫なんですか?」


 楊は合い鍵で部屋に入ってきたことを叱られると体を強張らせて身構えていたのだが、一か月ぶりの彼女達の声が楊の登場に普通に喜んでいる音を含んでいたので、彼は一瞬で気が抜けたと言っていい。

 そこで楊は顔をあげて大丈夫と言おうとして、部下二人の顔が大丈夫でなかったことに気が付いた。


 二人とも目元にクマが出来ていて、一目で睡眠不足だとよくわかる顔をしていたのだ。

 そこで楊はそのまま靴を脱いで勝手にリビングに上がり込むと、佐藤の手から紙おむつを、水野の手からはズボンを取り上げた。


「かわさん。」


「え、ちょっと。」


「いいから。僕が二時間はこの子を見るから、君達は横になって来なさい。」


 二人は抗議するどころかきゃあと喜びの声をあげて楊に抱き着き、抱き着かれた楊が硬直した事に再び喜びの嬌声をあげると、水野の寝室へと仲良く飛び込んでいった。


「もう、無防備に抱き着いて来て。兄どころか男扱いもしていないよね。」


 楊はどこの誰の子供かわからないが、水野が守ることに決めているらしい赤ん坊に向き合い、彼女のオムツを換えてあげることにした。

 子供のオムツ交換に関しては、楊は昨年の一月に父親になった弟よりも上手であると自負している。

 彼は聞き込みと称して虐待の疑いのある家々を回って、母親と世間話をしながら子供のオムツを替えてきた経験があるのだ。


「さぁ、お嬢ちゃん。有能な水野と佐藤に虐待痕はあるかないか調べられているでしょうけど、おじさんにも見せてね。あの子達は鬼になれないからさ、おじさんがなるよ。施設はね、世間で誤解されているのと違ってね、安心できちんとした生活が送れる所だから大丈夫だよ。おじさんは何人もそこに子供を送ってきたもの。」


 見ず知らずの楊に脅えるどころか無関心な赤ん坊からオムツを外しながら、楊は彼女が生後半年以上であり、標準よりも小さいどころか成長も遅いのではないのかと気が付いた。

 そして、その考えを裏付けるように、そっと捲った上着の下に見えた赤ん坊の真実に苦い気持ちを噛みしめるしかなかった。


「外見に骨の歪みは見えないけれどね、こりゃあ、病院でレントゲンも取る必要があるかな。はぁ、赤ん坊に煙草を押し付けられるって……。」


「ぴゅあは、あたしが育てるって!勝手に連れて行かないでよ!」


 独り言を呟いていた楊に向けられた怒鳴り声は、寝室から飛び出して来た水野である。

 楊はまっすぐな少女のままの彼女に向き直りもせずに、手早くオムツを履かせて乳児の衣服を整え、父親の様に乳児を抱き上げてあやしはじめた。


「かわさん!」


 彼はゆっくりと水野の方に向き直り、口元に一本人差し指を立てた。


「しー。子供の前で大声を出さない。いいかな、水野巡査。俺がね、二時間寝ろって言ったら、二時間寝なさい。抗議はその後。わかるね。俺は君達が眠ている二時間はこの子をどうこうしないよ。」


 寝室から佐藤も出てくると、彼女は水野の腕をついっとひっぱり、無言のまま彼女を寝室に引っ張っていった。

 妖精らしい、視線だけで人間を殺せるような目つきだったが、楊はその眼つきに微笑んで返していた。

 そうして彼女達が寝室に消えると、楊は子供を抱きかかえたまま座椅子を元通りにしてそこに胡坐をかいて座った。

 背中を座椅子の背に深々と預け、彼は疲れたように天井に顔を向けた。


「どうしよう、かな。」


 腕の中の赤ん坊は、無邪気に楊のスーツのボタンを引っ張ったりして遊んでいる。

 背中は打撲でできた内出血の痕らしい黄色と紫色のマーブル模様が広がり、そして、足の付け根どころか性器にも火傷の跡があったのだ。


 虐待された赤ん坊を水野が手放す筈は無く、さらに言えば、この子供は彼女の姪だった子供であろう。


 水野直樹は妻に別の男との子供を自分の子供だと思わされて結婚して、一方的に離婚されただけでなく、子供に会えないまま多額の養育費だけを送るという生活をしていたのだ。

 そんな彼が会う事も叶わない血の繋がらない子供と縁が切れたのは、現在彼が再就職した民間会社の社長の手腕によるものだ。


 腕のいい弁護士と金の力で、子供は直樹の籍からも抜け、ただの他人となったのである。


 直樹にとっては。


 水野がその状態で姪だった子供を見捨てるわけがない。


 そこまで考えて、楊は再び大きく溜息を出した。


「どうしよう。ぴゅあちゃんの両親は生きているのかな。葉山に詳しく聞かなかったけど、もしかして、突然の休職は謹慎って奴か?どうしよう。あいつはやっちゃった?」


「大丈夫ですよ。純子じゅんこの両親は死んでいますけど、それはみっちゃんによるものではありません。」


 佐藤は静かに台所の方に歩いていき、勝手知ったる風に楊の為にお茶を淹れだした。

 彼女は茶道の師範である母にかなりの反発を持ってるが、皮肉なことに彼女は無意識になると母親と同じ振る舞いをしてしまうのである。

 そこに彼女は自分に対してかなりの憤懣を感じているようだが、楊から見れば自分という個人を母という雛型から壊して再構築しようとしているようにしか思えない。


 楊は無意識に人に茶を淹れたり労うという行為は普通に佐藤が優しく思いやりがあるだけで、その茶が上手いのは彼女の経験が高いからだと思うのであるが、彼女はそんな自分自身が母親に躾けられて出来た作り物のように思えて嫌いらしい。

 そして、佐藤がなりたい姿、自然体だと彼女が思う水野のようになろうとして暴れるのだ。


 水野が人助けをして暴れるのは、水野が寂しいからでしかないというのに、と、そこまで楊は考えて、大事な彼女達へと気持ちが動くのを止めるかのように大きく息を吐いた。

 彼は彼女達と慣れ合うのではなく、彼女達がしようとしている間違った行為を正さねばならない立場であるのだ。

 そこで、楊は自分なりに中年男性風の疲れた声を出して佐藤に尋ねていた。


「それは君によるものでもないんだよね。」


「当り前です。私だって一昨日まで知りませんでした。みっちゃんが純子を一人で育てていたなんて。まぁ、まだ今日を含めて二週間くらいらしいですけど。」


「死んだ両親の親はどうしたんだ?石崎翔太の両親はこっちの人間だろ。」


 佐藤はきゅっと唇をかみしめると、静かな声だが目には怒りをにじませて楊に答えた。


「――保険に入っていないから、賠償金を払う可能性があると知ったら純子どころか葬式までみっちゃんに押し付けたそうです。事故の担当者によりますと。」


「あちゃあ。まぁ、純子を押し付けてもらえるなら、あの子はその位自分で持つかな。それで、葬式代や水野が被った賠償金とやらの金額は出ているのかな。」


「――かわさん?」


「うん?君は親友でしょう。金額がわかったら目標金額を書いたカンパ箱を作って無記名のカンパを募るんだよ。最初は俺でね。」


「かわさん?」


「金満な女房に先立たれたばかりの俺はムダ金が腐るほどあるの。お金は心配しないでいい。純子の鬼祖父母達を懲らしめるのも君達はしなくていい。俺がムダ金を使った事を俺の財産管理人が知ったら、奴が勝手に報復に動くからね、そっちの方が可哀想なくらいだから。だからね、君も寝てきなさいよ。君も二日は寝ていないんでしょう。大丈夫だよ。君達が寝ていても僕は襲わないから。前に言ったじゃん。僕は不能って。」


 台所から戻ってきた佐藤は楊に眉をあげて見せるだけでクスリとも笑わず、笑い飛ばしてくれなかった彼女に楊は唇を尖らせて拗ねた表情をして見せた。

 だが、コトリと湯飲みを座卓に置いた音が聞こえたと思ったら、楊の唇は柔らかいもので塞がれていた。

 佐藤が湯飲みを置いた動作のまま楊に身を乗り出してきて、楊の唇に自分の唇を重ねていたのである。


 口づけを返すことなく硬直したままの楊に、佐藤はゆっくりと身を離していった。


 硬直してしまった楊は唾をのむことも出来ないが、自分の驚きを隠すことは出来た。


 すると、楊の表情に変化が無いと知った彼女は、一瞬だけだが寂しそうな顔を楊に見せた。

 だが、何もない振りをするのが楊よりも上手な彼女は、すぐにいつもの暗黒妖精の仮面を被って自分を隠したのである。

 佐藤はおやすみなさいと口だけ動かして楊に伝えると、真っ直ぐに背筋を伸ばし、何事も無かったようにして水野の寝室に戻っていった。


 数分後、楊の腕の中の赤ん坊は動きが無くなった楊に安心したのかいつしか眠っており、彼は赤ん坊を胡坐の足の中に横たえるような形にして抱き直した。

 彼の足の上で幸せそうに眼を瞑る無垢な赤ん坊に、高校生時代の水野と佐藤が自分を見つめる無防備な瞳を思い出していた。


「かわさん!あたしらも警察官になることにしたよ!」


「縛りがあった上でどこまで暴れられるか試してみたくなっただけよ。」


 楊は赤ん坊ではなく佐藤と水野が眠る扉を見つめて、長く長く大きな吐息を吐いた。

 そして終には左手を額にパチンと当てて俯いた。


「どうして、女の子はみんな女になってしまうんだろう。」

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