久々の出勤
五月の六日。
楊が所轄に復帰したのはいいが、楊は望んでいた窓際ではなく、最近までの刑事課のデスクでもなく、ふた月以上前には自分の定位置だった特定犯罪対策課、通称特対課の課長席に座らせられていた。
彼は小首を傾げながら、この課の課長代理をしていた葉山警部補に尋ねていた。
「なんで?」
颯爽という言葉が彼のものだと思うような好青年が、好青年らしからぬ笑顔で楊を見返した。
「だって俺はキャリアじゃないすか。数か月後は警察庁に帰るのに、特対課で汚点が付いたら大変でしょう。汚れたら怖いって本部に泣きつきましたら、課長代理の任を解いて貰えました。やっぱりこの課の責任も汚点もかわさんのものかなって。」
「え、じゃあ。責任が嫌ならさ、僕の文鳥ズも返してくれる?預かってくれていた事には感謝しているけどさ、返してくれなくなるとは思っていなかったよ。」
「俺も返すつもりだったんですけどね。雛が孵ったばかりですから無理です。」
「うそ。あいつら仲悪かったじゃん。」
「てっちゃんが生んだだけで放棄した卵を、ミル雄は愛する俺が生んだ卵だと思ったのか、ずっと温めていたんですよ。そうしたら驚いた事に、三日前に一羽だけ孵りましてね。仲が悪いようでも、やっていたんですね、あの子たち。」
葉山は胸ポケットからスマートフォンを取り出した。
楊が首を伸ばしてその画面を覗き見ると、画面には楊のペットだった文鳥が葉山に仲睦まじい様子で葉山の両肩にそれぞれが乗っている写真がまず楊に見せつけられた。
葉山が続けて指を動かすと、楊は葉山に見せられたその映像から逃げるかのように両手で顔を覆った。
彼は真っ暗になった視界の中で、恐らく一月後も二月後も葉山警部補が文鳥を返すことは無いだろう事実を受け入れるしかなかったのである。
写真の中の「てっちゃん」は葉山の肩の上で饅頭になっており、「ミル雄」が楊に見せた事のない表情で雛の横にいる風景を見て、葉山の愛鳥となってしまった文鳥を葉山から奪う事など楊には出来ないと諦めるしかなかったのだ。
「心配しなくても、しばらくしたら親は絶対に返しますよ。オスメスなのに鳥カゴが二つ必要な不経済な生き物はいりません。俺はヒナヒナだけ引き取りますから。この特対課だって、ちゃんとかわさんに返したじゃあないですか。」
「俺は君のそういう所を見習いたいよ。……じゃあ、じゃあさ、五月女君に特対課をあげない?って、あれ?彼はどうしたの?今日は休み?」
「五月女巡査部長は丸彦達生巡査と一緒に麻薬課に貸し出し中です。」
「そう。やっぱり五月女君は元の課に戻った方が良いものね。彼は本部の麻薬課のホープだったのだもの。」
「特対課の案件だと麻薬課から投げられそうな勢いだったので派遣しちゃいました。俺に一緒に行って欲しい顔をしていましたから、寂しくない様に丸彦さんを付けてあげて。」
「君はどうして行かなかったの。」
「嫌ですよ。不純物が多すぎる合成麻薬で体も精神も崩壊しちゃった人間に会うのは。五月女君もそこが嫌だからこの課に来たんでしょう。」
「君は知っていて行かせたんだ。酷いね。」
「だから帰ってきたらクロを呼んで下さいよ。五月女君の為に。」
「君が会いたいだけのくせに。」
「はは。」
五月女尚稀巡査部長はほとんど坊主なほどに髪を短く刈っているが、そこが純文学の登場人物にも見えると署内の女性達に持てはやされている青年である。
そしてそんな外見に違いなく内面も純な男であり、彼は出世の道を捨てて一目惚れした人物を守るべく楊の特対課へと自ら移動してきたという馬鹿者であるのだ。
県警で期待の星だった彼を、楊も思いとどませようと説得はした。
説得しないと本部に叱られるのは楊だ。
「あのね、僕の特対課はね、流され署として有名な署内においても、吹き溜まりの課なんだよ。うちに来たら、君は一生出世なんかできないかもしれなくてよ。」
しかし、五月女の決意は固く、彼から「玄人」を守りたいからだと告白されれば、楊は五月女を説得するのを諦めるしかない。
なぜなら、この課において山口は玄人の恋人となれたが、玄人に武士のようだと憧れられているキャリアの葉山友紀警部補も、人当たりが良くて署内の人気者である丸彦達生巡査までも、玄人に虜にされているという事実があるからだ。
「髙は俺と一緒に窓際やるって言ってたくせに。あいつは別の課か?」
「いいえ。髙警部補もここです。杏子さんの産休明けはまだまだですしね、とりあえずここで、うーん多分復帰した杏子さんは隣の署で課を新設しての課長でしょうね。産休前の手柄で復帰したらすぐに警部になるそうですし。」
「そうなの。髙がさ、杏子ちゃんはこの課がいいって言っているって言っていたからね。あげるのに、特対課。」
「特対課はかわさんのものですって。杏子さんもそれで、復活課、でしょうね。自分からそれがしたいって言っていたらしいですし、決まり、でしょう。」
「だから、何よ、復活課って、それ。」
「眠っている事件を掘り起こして、特対課の案件か確認する課ですね。隣の署には呪われた人形とかも証拠物件室にあるらしいですよ。彼女の働きによって、特対課がハードワークになるのか決まります。」
「だから、君は一抜け?」
葉山は好青年の笑顔を見せた。
「俺は警察庁に戻ったら、しばらく情報の方へ行きます。頑張って、特対課の案件を探し出してきますからよろしく。」
「ふざけんな。そこはそんな案件見ない振りでしょう。」
「いいじゃないですか。俺はいつだって蚊帳の外です。俺が警察庁に戻ったのならば、今度は俺はいくらだって汚れてもいいでしょう。俺を蚊帳の外にしたのは、永久出向の身の上の俺を元の世界に戻そうってかわさんが計画していたからでしょう。髙さんではなくて。俺はね、かわさんと働きたいんですよ。」
「やめてよ。俺は働きたくないから、君みたいな有能なのに守って貰おうって計画しているんだからね。君は僕の未来のための先行投資。汚れないでよ。」
「はは。よく言いますよ。」
「それでさ、事件は今のところないのかな。うちのケダモノ二名もいないんだけど。」
楊がケダモノと呼ぶ二十二歳の巡査達は、署内でそれぞれ妖精やら癒し系やらと呼ばれて持て囃されている女性達である。
黒髪を前下がりの短めのショートボブにしているのが佐藤萌であり、彼女は大きな目が少々吊った所が妖精のようだと言われており、水野智花は大きな目が垂れているからか、彼女を癒し系だと憧れる男性署員が多くいる。
ショートカットの明るい髪色の毛先がくるくると巻いてふんわりとした印象を与えることも理由の一つかもしれないが、楊に言わせれば、彼女は癒し系どころか暴れん坊だ。
楊は佐藤が時々暗黒な性格を見せることから妖精系で、水野に至っては落ち込んでいる人間を励ます面倒よりも手持のチョコを手渡してしまう点を誤解されての癒し系だろうと推測している。
楊が彼女達に辛辣なのは彼女達が嫌いなのではなく、彼女達が高校生だった時代からの付き合いなので、つい馴れ合ってしまうというだけの話である。
そこを時々佐藤によって楊は叱責されてしまうのであるが、部下と上司の関係で普通に上司を叱りつけている点で、佐藤も実は馴れ合っていると楊は怒られながらいつも思う。
「かわさん。水野は身内のごたごたでしばらく休みです。佐藤はその手助け、かな。」
「え、何があったの。お兄ちゃん一号は海自だけど、なんかあった?空自辞めた二号はユキちゃんの会社の飛行機で欧州の空を飛んでるはずでしょう。またキャバ嬢に騙されて、今度は借金でも背負った?」
「え、初耳ですよ。直樹さんには俺達もお会いしたから元空自なのは知っていましたが、まだお兄さんがいて、彼も自衛官だなんて。」
「うん。あの子の家は自衛官一家なの。お父さんも海自さん。小学生の時に母親が亡くなって。それで水野だけ横浜からこっちの母方祖父母の家で育てられたんだそうだよ。高校生の兄達は寮だし、母親が亡くなって不安定な水野を転勤で連れまわしたくはなかったそうだね。そんで、身内のごたごたって、お父さんの方?あの熊ゴロウ、とうとう再婚でもするの?」
「水野巡査のお父さんのお名前は、クマゴロウさんなのですか?」
「いいや。本名は智敏さん。あの平均身長の兄弟の父とも思えない大柄な人でね、毛深いから熊ゴロウ。」
「――あだ名でしたか。影でそんなん呼びですか?ひどいですね。」
「いいじゃん。俺なんかあいつにラビッツ呼びよ。」
葉山は楊が色白なせいか脛毛が濃く見えるなと軽く噴き出したが、思い浮かべてしまった楊の下着姿を打ち消すべく水野の父親へと意識を向けた。
「――水野のお父さんとすっごい仲良しなのですね。」
「そりゃあさ、挨拶くらいするでしょう。俺があの子を警察に勧誘したんだもの。危険な目に遭わせるかもしれませんって、菓子折り持って頭位下げに行くでしょうよ。そんで、奴がこっちに来れば、可愛い兎の俺は大熊に捕獲されての娘の報告会という名の飲み会よ。」
葉山は水野達と楊の特別感に少々の違和感も抱いていたのだが、楊の今の告白を聞いて納得をしていた。
「かわさんは、彼女達の兄同然だったのですね。いや、娘さんを下さいの婚約者同然かな。」
「な、何を言っているのかな、葉山君は。それよりも、どうしたの。水野からはメールもないし、あの子に何があったの。」
「彼女はシングルマザーになっただけですよって。あら課長!ちょっと、どこ行くの!」
楊は聞き捨てならない情報に脳みそが動くよりも走り出していた。




