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14「走れ」

頭が痛い――ような気がした。


鈍く重い痛みが常に居座り、離れない。体を動かすとあちこち痛むのは筋肉痛だろうか。土曜の夕方から始まった頭痛は、月曜日にはもはや無視できないほどの痛みになっていた。全身の痛みも鑑みるに、風邪の引き始めだろう。久しぶりの遠出で疲れてしまったのだ。


学校を休むかどうか悩んだが蒼に起床を急かされ、ナズナは渋々ベッドを這い出た。熱はまだなく咳も出ない。自覚症状は今のところ頭痛と体の痛みだけだ。身体もそれほどだるくはない。薬を飲んでおけばそのうち収まるだろう。


あの日、水族館で起きた多少の奇妙な現象はともかく、その後はこれといって変わったこともなく夕方まで歩きまわった。帰ってきたのは八時ごろだっただろうか。一日中遊び歩いた感想としては、まあ……悪くはなかった。風邪をひいたことも含め、たまにはこんな日があってもいいだろうと思えるほどには。


多少の体調不良ではあったが学校に到着するまでは問題なく、授業もいつもどおり受けられた。途中で体調が悪化したら早退しようと思っていたが、どうやらその必要もなさそうだ。大事をとって午前の体育は見学したものの、朝に飲んだ薬が効いているのかどうかはわからないが、とくに不調を意識することなく一日の学業を終えることができた。


帰りのホームルームが終わってすぐに香のもとへ行くも、当の香は帰り支度もせずに席に座ったままだった。机の上には日直日誌が開かれている。そういえば今日は香の番だ。


「ごめん、ナズナ。日直の仕事が残ってるから、先に帰ってて。まだちょっとかかりそうなんだ」


「わかった」


蒼たちはもう帰っているだろうか。隣の二組へ移動し、教室の中を覗く。まだ人が多くてわかりづらいが、蒼の机に荷物がないのが見えた。今日はこっちのほうが早かったかと、うしろに退こうとしたとき、急に目の前に誰かが立った。


「ナズナさん。志村と千秋ならもう帰ったぜ」


「真夏」


近い。いや、この男の他人との物理的な距離感がおかしいのは珍しいことでもないのだが。こうやってときどき無意味に距離を詰めるのは、たぶん相手をびっくりさせようとしているだけだ。ナズナは一歩下がった。真夏はナズナの背後を覗き込む。


「香は?」


「先に帰ってろって。日直の仕事がまだ残ってるらしくて」


「ほー、珍しいな。いや、そうでもないか。日誌を書き忘れたり黒板を消し忘れたりってのは、夏目もよくやってる」


「マジメだし成績いいけど、そういうところは抜けてるよね。夏目って」


自然と二人で廊下を歩きはじめる。蒼と千秋がいなければ一人で帰る予定だったが、真夏も自宅の方向がある程度は同じである以上、こういうことも少なくない。一対一で話している分にはそれほど疲れるようなこともしないので、これはこれでよしとしていいだろう。真夏が調子に乗るのはだいたい、その場にいる人の数が三人以上になったときだ。


そういえば、最近は二人で話す機会というのもあまりなかった気がする。いや、別にそれでいいのだが。せっかくなにか話すならば、二人のときでないと話せないようなことを話したほうが有意義だろう。一対一での会話というのはそういうものだ。早いうちに会話の主導権を握っておかなければ、この男は際限なくどうでもいいことを話し始めるだろう。なにかないだろうか。


「あの後輩と一緒に帰ったりはしないわけ?」


靴を履き替えながら問う。真夏は長くうなるような鳴き声をあげる。


「家の方向がね、ほとんど真逆なんだわ。教室出る時間もバラバラだし」


「あの子、どのへんに住んでんの?」


「北地区のほう。住宅街からはちょっと離れてる感じ。えーっと、ほれ、去年の秋に、台風で送電塔に女物の下着が引っ掛かってたって騒動あったろ。あの近く」


「ふうん」


「自分で聞いたくせに、超興味なさそうだなあ」


「家まで送ってったりとかはしないの? そのあたりって普段あんまりひと気ないんじゃないの」


「片並町なんてどこ行ってもひと気なんかほとんどないだろ」


「たしかに」


「帰りが遅くなったとかならともかく、そういう機会ってあんまりないしな。文化祭の時期くらいじゃないか? あの子、別に部活とかも入ってないし」


「文化祭ねえ……」


「どうも乗りきれねえんだよなあ、文化祭って。あんまり楽しいもんでもないし」


「……それは、楽しもうという気持ちが足りてないから。じゃないの?」


「おっと、これは一本取られたか」


「まあ、そんなに楽しくないってのは同感だけど」


日頃からクラスで目立っているような一部の生徒からすれば学校生活で一番楽しい行事かもしれないが、ナズナたちのような教室の隅にいる連中からすれば、思い出に残るほどのものでもないのだ。


「そういえば」


校門を出たときに、ふと思い返し、改めて尋ねる。


「清水……さん、だけどさ。真夏の絵を見てたよ。美術で描いたやつ」


「どの絵?」


「ほら、夢がどうこうってやつ」


「描いたっけなあ、そんなの」


「描いたじゃん、いい加減だなあ。絵を描くの好きとか言ってたくせに、もう忘れてんの?」


「授業で描くのは好きじゃないんだよ。結構どうでもいい」


「……んじゃあ、あの絵もたいして意味とかなかったってことでいいの?」


「むしろ、そんなに深い意味のこもった芸術的な絵に見えたわけ?」


「私じゃなくて、あの子がそう言ってて」


「彩ちゃんが?」


「不安になるって」


「そいつはただの感想だろうよ。絵とは関係ない」


「いや、まあ、そうだけどさ。そうじゃなくって。テーマって『夢』だったじゃん。それでそんな、見た人が不安になるような絵っていうのが」


「夢は夢でも悪夢ってものがあるからな。なにもポジティブなものだけじゃないさ」


「それも……そうだけど」


たしかにそうなのだが。そうではない。なにかが引っ掛かる。あのときの清水彩の言動も、真夏があの絵を描き上げた動機も、そうして完成したあの作品も。


「どうした?」


「……結局、なんだったの。真夏にとっての夢ってなに?」


「夢、夢ねえ」


真夏は一瞬の間をおくと、人差し指を立ててわざとらしく背筋を伸ばした。


「夢とは、寝ている間に脳が記憶を整理する過程で生まれる幻覚の一種とされ――」


「それはもう前にも聞いた」


「前っていつだよ」


「あの絵は」


「ただの絵になにをこだわってんだ」


「こだわってなんか」


「どうしてお前が不安がってるんだよ」


不安? ナズナが? ナズナは不安など感じていない。


「不安にさせてるのはそっちじゃんか」


これは不安などではない。単なる疑問だ。


「本当にそうか?」


だんだんと会話が妙な方向に進んでいく。いつもと違う、おかしな雰囲気になってきたのを怪訝に思い、真夏を見た。真夏もナズナを見ていた。目が合うのはまれなことだ。交差点に差し掛かったとき、真夏の足が止まり、ナズナも立ち止まった。


「……は?」


「不安なのは、本当にお前か?」


「どういう意味」


動悸がする。頭が痛い。目を逸らせない。


「……危ないぞ」


真夏は唐突にナズナの腕を掴んだと思うと、ぐい、と自分のほうに引き寄せた。わずかによろめき、真夏の胸元に手をついた。ナズナのうしろを一台の自転車が通り過ぎて行く。真夏に気を取られたせいで気付けなかったらしい。


「ああ、最初からこうすればよかったんだな」


真夏が低く呟いた。


「なに?」


「お前は俺が呼んでも来やしないんだから、言葉で言うより、こうするべきだった」


水族館での出来事を思い出す。


すぐに真夏の身体を押しのけて離れた。真夏も素直にナズナの腕を離した。というより、彼の手はナズナを掴んだ形のままだったが、力が入っていなかったため抜け出せたのだ。ナズナが離れたあとの彼の手だけが数秒その場に残った。いつもはもっとへらへらしているくせに、今日に限って真剣な顔をしている。


「な、なに」


誰だ。


この男は、誰だ。


「事故に遭ったのは女の子だった」


「それがなに、もうずいぶん前の話でしょ」


「いいや、違う。俺は、そのときそこにいた」


「聞いたよ。それはもう前にも聞いた」


「前っていつだ?」


「いつ、って」


頭が、痛い。


うまく思い出せない。


「あの日、事故に遭ったのは」


「やめて」


「あの女の子は」


「聞きたくない」


「俺が飛び出してでも引き寄せていれば」


「なに言って」


「お前は事故に遭わずに済んだのに」


「あ――」


耳をつんざくブレーキ音。目の前に迫ったトラック。すべての時間が止まったような感覚。その一瞬のなかで、同時に二つの声がした。


『ナズナ!』


前で真夏が叫んでいる。


『走れ!』


うしろで香の声がした。


『戻って!』


ナズナは。


「俺が呼んでもお前は来ない。いつも、どんなときも。あのときだって」


ナズナは、あのとき。


「ナズナ、真夏から離れて」


不意に声がした。振り返る。香が真剣な顔でこちらを見ていた。


「香?」


「またそっちに行くのか、ナズナ」


「君は誰? ナズナをどこに連れて行くつもり? もう彼女を惑わさないでよ」


「それはこっちのセリフだ。これ以上、俺の邪魔をするな」


頭が割れるように痛い。全身がなにかに強くぶつかったように痛い。彼らがなんの話をしているのかわからない。頭が混乱する。いつの間にか横断歩道の真ん中に立っていたナズナに、前に立っていた真夏が手を伸ばす。


「ナズナ、俺を選べ。こっちに来い。それ以上は引き返せなくなる。帰りたいなら黙って俺に従え」


なんて尊大な。横暴な態度だろう。そんな物言いで誰が従いたいと思うのだろうか。人を動かすなら、もっとそれ相応のうまい言い方というものを、この男ならば知っているだろうに。


「ダメだよ、ナズナ。そっちじゃない、こっちにおいで。君の居場所はそこじゃないよ。いつもみたいに僕の隣に来て。いつもみたいに一緒にいよう」


うしろで香がそう促す。ああ、香。どちらかを選べと言うのなら、そんなものは、考えるまでもないはずだ。香がいる。ならば、ナズナが選ぶべき道は。


「ナズナ、俺はたしかに言ったはずだぜ」


――いや、違う。


「ジョーカーを見極めろって」


これは、こんなものは。


「……ナズナ? どうしたの、どうして」


「違う」


「どうして僕じゃないの?」


「お前は香じゃない」


「なにを言って」


()()()()()()()()()()()


真夏がナズナの腕を掴んだ。今度は振り払えないほど力強く。ナズナは手を引かれるままに、横断歩道を渡り切った。


「……そう。ナズナ、君はまだそっち側なんだね」


向こう側で、なんだかさびしそうな顔をしたそれがぽつりと呟く。


「どうして。そっちは、先が見えないほど真っ暗なのに?」


真夏がナズナを掴んだまま、毅然とした態度で答えた。


「なに言ってやがる。生きるってのはそういうことだろ」

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