13「違和感」
昼食を済ませたあと、話していたとおりイルカショーを見に行くことになった。ようやく全員がまとまってひとつのものに集中する機会が生まれたためか、夏目はどこかうれしそうだ。先ほどナズナが問いかけたときはああ言ったものの、やはりすぐに散り散りになってしまう仲間たちに対してさびしさを感じていたらしい。レストランから出たあたりから極端に口数が増えたのも浮かれているせいだろう。
千秋は純粋にイルカが楽しみではしゃいでいるし、蒼もそれにつられて少し機嫌がよさそうだ。イルカが好きなわけでもないだろうに、ただ千秋がうれしそうだというだけで自分もうれしいような気持ちになってしまっている。実兄ながら単純だと思う。香まで楽しそうになのは、これは彼の性格だろう。みんなが楽しそうにしているのを見るのが好きなだけで、香も別段イルカが好きなわけではない。
彩は上級生連中のなかにまざっている環境に慣れたのか、すっかり緊張もとけたらしい。真夏かナズナか、そうでなければ千秋としか話していなかったのが、少しずつ夏目や香とも話すようになっている。蒼とは性格的に打ち解けることはないだろうが、なにかしらの会話が生まれるのも時間の問題だろう。
問題の真夏は、彩が真夏以外ともよく話すようになったことで気を遣う必要がなくなったからか気楽そうにしている。まわりが浮かれていて彼が浮かれないわけがない。いつもより少し声も態度も明るい。もはや平時とほぼ変わらない落ち着いた態度を貫き通しているのはナズナだけだった。ノリが悪いとも言う。
「でもさ、やっぱりナツとかじゃない?」
「いや、それは俺じゃなくてお前だろうよ」
夏目と真夏が彩を挟んでなにか言い合っていた。そっと近寄って真夏のうしろにいた蒼に耳打ちする。
「こいつら今度はなに騒いでんの?」
「なんか、あだ名で呼ぶなら、みたいな」
「あだ名?」
真夏が振り向いた。
「いやね、彩ちゃんは俺とナズナ以外ほぼ初対面なわけじゃん。呼びやすいあだ名とかあったほうが覚えやすいし、親しみやすくていいんじゃないのって話」
「は? どうせほとんど関わんないんだし、改めてそんなん決めても馴染まなきゃ意味なくない?」
ナズナがそう切り捨てると、彩はしゅんとして小さくなってしまう。
「そ、そうですよね……使う機会がないんじゃ意味ないですよね」
「ナズナちゃんってば冷たいんだから。こういうのは定着するしないはどうでもよくて、そういうのを一緒になって考えることに意味があるもんなんだぜ? どんなあだ名が似合うかを改めて考えるってことは、相手の名前と印象、おおまかな性格を把握したうえでの行為だからな」
「あっそ。でも本名がベースなら真夏と夏目は同じ文字が入ってる以上、似たり寄ったりで頭の中でまざっちゃいそうなもんだけどね」
ナズナが言うと、夏目は苦笑した。
「それなんだよなあ、問題は。俺は、真夏はナツで、ナズナがなっちゃん、とかって思ったんだけど」
「頭文字にちゃん付けは安直で便利だけどな、それだと夏目、お前はどうなるんだよ。本格的にミカンくらいしか候補がなくなるぞ」
「み、みかん」
夏みかんということだろうか。千秋が笑っている。
「そしたら蒼はりんごだね」
「ほんとやめて」
「だいたい、なつは絶対に嫌だからな俺は」
「私もなっちゃんとか無理」
「わ、私はいいと思いますけど……」
「なんでそう嫌がるの」
「あ、そういや俺、小学校のときはなっちとか呼ばれてたわ」
真夏が思い出したように言うと、なにがおもしろかったのか、香が腹を抱えて笑った。どうやら笑いのツボを刺激されたらしい。
「あはははっ、ふふっ、な、なっち。ずいぶんかわいいんだね、真夏にしては」
「そうだろう、かわいかろう? ねえ、なっちゃんさん、昔に呼ばれたことあるあだ名とかないの?」
「別に」
「僕らはそういうのとはあまり縁がなかったから。千秋はよく、他の女子からちーちゃんって呼ばれてたけどね」
「それ絶対に決めなきゃいけないこと?」
「いいじゃん、楽しくない? 俺は楽しいよ」
「そりゃお前はなにしてたってだいたい楽しいんだろうけど」
「いっそ呼び捨てでよくない? どうせひとつしか違わないんだし」
「あだ名の話はどこいったんだよ」
「いえ、でも一応は先輩ですし」
「俺は二つ上くらいなら普通にタメ口で呼び捨てにするけどなあ」
「真夏のその、人見知りなのに妙なところで気が強いのはなんなんだろうな」
「まあ、夏目と比べりゃいくらか気の強いように見えるかもしれないけど。俺はそこまで強気でもないぞ」
「いや……結構強気だよ、いつも」
「そうかい。ならそいつはきっと気のせいだな」
イルカショーの会場にはショー開始の十分ほど前に到着した。最前列ではないものの、比較的前方の席に落ち着き、適当な雑談で時間をつぶす。満席とまではいかないが想定していたより多くの観客でにぎわっている。
パンフレットには所要時間は約三十分とあったが、ショーが後半に差し掛かったころ、ナズナはトイレに行くと言って一人席を立ち皆のもとを離れた。トイレに行くというのは嘘で、それはその場を離れるための口実にすぎなかった。
イルカが嫌いなわけではない。ときどき飛んでくる水しぶきを気にしているわけでもない。千秋と彩はショーを見て興奮していて、香と夏目も便乗するように盛り上がっていた。真夏は彼らに合わせてほどほどに。蒼は千秋たちの熱気に戸惑いながらも、少し笑っていた。
ナズナも、千秋ほどは乗り切れないものの退屈はしていなかった。だが、なんとなく耐え難いような気分になってしまったのだ。この場を立ち去りたいような、というより、ここにいてはいけないような気がしてしまった。なぜだかは自分でもわからない。
たとえば周囲の人々が、ああまで楽しそうにはしゃいだり、陽気に盛り上がるさまが珍しかったから、だとか。いや、普段はもっと暗いのに……などと言うつもりはない。しかし、だからこそ、その一時的な陽気さが、ふと嫌になったのかもしれない。だとすればとんでもなく陰気だ。
わからない。ナズナとしてはそれがもっとも現実的な理由なのだが、どうも腑に落ちない。そんなのはいつものことだ。バカみたいに騒がしいときもあれば、水を打ったように静かなときもある。起伏が激しく安定しないというのは、いつものことなのだ。もともとあれらはそういう団体だ。どうあれ、とにかく、ナズナはそこから離れたい気分になったのだ。
気分。そう、ただそういう気分だっただけのこと。そこに明確な理由などない。だが。ああ。そのときの気分、一時の感情だけで動くなど。こんな気まぐれでマイペースな、悪く言うと自分勝手な、まるで真夏が物事を決定するときのような、こんな身勝手なことでいいのだろうか。よくはないだろう。あれと一緒にされてはたまらない。だのに同じような行動をとってしまった。ナズナにとっては恥ずべきことだ。
どこに行こうという目標はなく、ただ通路を歩く。ショーが終わるまで別のところで時間をつぶそう。自動販売機で飲み物でも買って、どこか座れる場所でぼんやりしていてもいい。なにか他の生き物を見に行ってもいい。リーフレットを落としてしまったことに気付くが、おそらくショーの席に置いてきてしまったのだと悟った。今まで何度も見ていたのだから、なくても迷ったりはしないだろう。
来場者のほとんどがイルカショー目当てだったのかと思うほど人が少ない。席を立ってからここまで歩いて誰ともすれ違わなかった。今日はもともと空いていたから、それもおかしくはないだろう。今なら貸し切り気分で館内を見てまわれる。とくにこれといって見たいものはないのだが。
そうして歩いていくうちに、二又に別れた通路に出た。案内板は見当たらない。覚えのない通路だ。来るときはたしか、このひとつ前の分かれ道の右から歩いてきたのまでは覚えている。いや、ちがう。左からだったような気がする。ではひとつ前で間違えたのか。いや、それでも、元いたどこに戻るわけでもないのだ。まだ行っていなかった場所があるなら、むしろこちらで正解だろう。
選べる道は三つ。今来た道を引き返すか、右の通路か左の通路。ショーが終わるまでまだ時間があるとはいえ、あまり遠くには行かないほうがい。いや、多少合流が遅れたところで、連絡手段はあるのだから、たいした問題ではないだろう。いっそ、夏目あたりにメールで断りを入れてから、しばらく一人で行動してみるのもいいかもしれない。もとより集団行動に向かない連中の集まりなのだから咎める者などいないはず。
左右の通路を交互に見て、とりあえず右に進んだ。どこに続いているのかはわからないが、どこかには続いているだろうし、歩いていればそのうち館内のマップがあるだろう。どの方向に何度曲がったか覚えてさえいれば、それを辿って最初の位置に戻れる。どこまでも広い外の街ならばいざしらず、このような限られた空間で迷うことなどはない。
左に曲がり、直進。次は右。もう一度右。直進。左。右。
いくつかの通路の分岐を選んで歩くうち、新しい分かれ道に到着したナズナは足を止めた。いつの間にやら水槽が見当たらなくなり、そのなにもない通路がやけに長い。こんなに複雑な造りではなかったはず。そろそろイルカショーは終わっているはずだが、相変わらずひと気がない。職員用の連絡通路にでも迷い込んだのだろうか。いや、いや、それならそうと壁に張り紙でもしてあるはずだ。ただ延々と、深い青で上下左右を囲んだ同じ景色の通路だけが続いている。新たな選択だ。右か、左か、あるいはうしろか。
なんだかあっちへこっちへ進むにつれて、徐々に照明の光も弱くなってきているような気がする。そろそろ戻って他の連中と合流したほうがいいだろう。たしか、さっきは来た道から右に曲がったはず。その前は左。その前は三又に別れた通路を直進してきた。
その前は……その前は? 左……いや、右、だったような。いや、いや、いや、こんなにすぐに忘れてしまうほど記憶力は悪くなかったはず。だめだ、言い訳だ。実際、忘れてしまっている。最近はこんなことばかりだ。
今一度、左右に別れた通路を見た。右は比較的明るいが、左の通路は完全に照明が落ちてしまっているらしく真っ暗だ。なにも見えない。とてもではないが、どこかにつながっているようには見えない。となると、引き返すか右の通路に進むしかない。ふらり、と右の通路へ歩み出す。
しかしその瞬間、なにかに腕を掴まれた。
心臓が跳ね上がる。反射的に振り返った。
「どこ行くんだ、ナズナ」
「ま――真夏……」
いつの間に追いついたのだろう。夏目たちの姿はない。真夏はナズナの腕を掴んだまま、左の通路に向けて歩き出した。引っ張られて、ナズナもそれについて行かざるを得ない。
「戻るぞ、ナズナ」
「は――」
戻る? なら、進むのはそちらではないだろう。
「待ちなよ。戻るならこっちに、だって」
その先の通路には照明がない。すぐ一歩先も、足元すらも見えない。
「そっちは暗いし……」
「こっちでいいんだ。お前はすぐに迷子になるからな」
「いや、いやいや、にしたってそんな真っ暗な道とか。おかしいじゃん。ちょっと、おい、聞いてんの?」
「お前は俺が呼んだって来やしない。だから、こうやって連れて行くんだ」
「連れて行く、って」
どこに?
どこに連れて行こうとしているんだ。
腕を曲げ、その手から逃れようと引っ張り返す。そうすると、真夏もナズナを掴む手に力を込めた。真夏のほうが強い。疲労で腕から力が抜けるが、真夏の力はそのままだ。前より強く引っ張られることになるだけだった。
暗い。
「離してよ。離せって」
痛い。
その先は真っ暗だ。
「聞いてんの? おい、真夏」
行きたくない。
怖い。
「ナズナ?」
うしろからよく知る声がした。暗い通路に数歩だけ入り込んだところで、ナズナは振り向く。香が不思議そうな顔で立っている。ナズナが香を認識すると、彼はこちらに向かって手を差し出した。
「どこ行くの? こっちだよ、ナズナ」
そのとき、一瞬だけ真夏の力が緩んだ隙をついて、その手を振り払った。
「――ああ、また邪魔が入ったか」
真夏が背後でなにか言った気がしたが、うまく聞き取れなかった。
香に駆け寄って隣に立つと、彼について左の通路に進む。なんだか安心した。香の隣。いつだって、ここがナズナのいるべき場所、帰るべき場所だ。依存ではない。ただほっとする。パズルのピースがはまったときのような据わりのよさだ。
「ずいぶん捜したよ。それにしても、どこに行こうとしてたの? あっちの道、真っ暗でなにも見えないのに、危ないよ」
「別に、あっちに行きたかったわけじゃないけど。真夏が無理矢理……」
不服な目でうしろにいる真夏を睨む――が、そこにはただ薄暗い空間があるだけで、今の今までそこにいたはずの真夏の姿はどこにもなかった。唖然とするナズナを見て、香はおかしそうにくすくす笑う。
「なに言ってるの、ナズナ。ここにはナズナしかいないじゃない」
「……え?」
「真夏だったら、向こうでみんなと一緒にいるよ。誰かと見間違えたんじゃない?」
「そんなはず――」
見間違う? ナズナの腕を引いた、あれはたしかに真夏だった。間違えるはずがない。しかし説明するのも難しく、ナズナは沈黙した。
「もう見たいところは全部まわった? そろそろ出ようかって話してたんだ。って言っても、まだもうちょっとどこかで時間つぶすんだと思うけど。ほら、このへんって片並町と違って遊べる場所が多いし……ナズナ、どうかした? 急に黙り込んじゃって。疲れたなら休憩しようか?」
「いや、いい。平気」
「そう? ならいいんだけど。疲れたら言ってね」
香について行くと、すぐにひと気のある場所へ出た。淡水魚のコーナーを通り過ぎてしばらく。みんながいる休憩所に到着した。ベンチに座っていた千秋たちがこちらに気付いて手を振る。千秋、蒼、夏目、彩。真夏も既に戻ってきていた。
「よかった、ちゃんと合流できたね」
「うん。そんなに遠くへは行ってなかったみたいだから」
彩と話していた真夏がこちらを見た。さっきのことなどなかったような顔でへらへらと笑っている。
「迷子二人とも無事帰還か。よきかなよきかな。全員そろったことだし、そろそろ出るか。つっても、まだ時間あるけど。夏目、次はどこに行きたい?」
「時間あるって、もうすぐ三時だよ? 帰るまで二時間かかるし……」
「今日は別に門限あるわけじゃないんだろ?」
「まあ、遅くなるかもって言ってあるけど……えっと、清水さんちは大丈夫?」
「あ、はい。ちゃんと連絡すれば、遅くなっても大丈夫です」
「十時までに帰ってればオッケーオッケー。ま、さすがにそこまで遅くなるつもりもないけど」
「軽いなあ。女子だっているのに」
「なんだよ。帰りが暗くなっても、ナズナと千秋は蒼と香が一緒だし、彩ちゃんは俺が家まで送るだろ?」
当然のように言う真夏に彩が一瞬たじろいだ。
「お、送っ……」
「それとも、なんだ。夏目、暗いのは怖いか? ならお前も俺が送ってやるから安心しろよ」
「べ、べ、別に怖いわけじゃないよ。いいよ、二人で帰れば!」
「あ、そう?」
話はまるでまとまっていないが、ひとまず出口に向かって歩き出す。夏目が携帯で周辺の地図を調べている間に、ナズナは真夏の背後につき、背中を叩くと小声で問い詰めた。
「真夏、さっきのあれ、なに?」
あの道は暗かった。香の位置からはナズナの前にいる真夏の姿まで見えなかったのかもしれない。ナズナが振り返ったときに既に彼がいなかったのは、きっとそのまま一人であの通路を歩いて行ってしまったからだ。暗闇を歩くことになるが、あっちのほうが近道だったということか。真夏とナズナや香では、正直、方向感覚については真夏のほうが強い。
ナズナの声量をオウム返しするように、真夏も小声で答える。
「さっきのあれ、って?」
「だから、さっき真っ暗な道に連れてこうとしたじゃん」
「はあ?」
「ショーの途中から、私が別行動してたとき」
じれったくなり、やや強い口調でさらに問うも、真夏はやはり怪訝に眉を歪めた。
「なに言ってんだよ。俺、イルカショー始まってからも、終わってからも、ずっとあいつらと一緒にいたぜ?」
……は?
「なんの話してんのか知らないけどさ、疑うなら夏目にでも聞いてみろよ」
「そ、そんな、わけ、だって」
「っていうか、お前がどこに行ってたのかも俺は知らないし、知ってるわけないだろ? お前、ちょっと抜けるーって言って、ささーっと消えてったし」
この男は嘘をつかない。性根が妙に善良であるために嘘がヘタなのだ。だから嘘ならすぐに白状する。というか、この状況で嘘をつく意味などないだろう。しらばっくれてごまかそうとしているようには見えない。
「じゃあ、いや、でも、たしかに」
だとすれば、あの真夏は?
ナズナをどこかに連れて行こうとした、あれはいったい。
「……なあ、ナズナ。お前、どこで誰と会ったんだ?」
あれは、いったい誰だったのだろう。




