EP 2
「開幕、リボ払い残高90万円と野戦救護」
視界が閃光に包まれたかと思うと、次の瞬間には土と草の匂いが鼻腔を突いた。
「とうっ、ちゃーく! ですぅ!」
リリスの間の抜けた声と共に、優太はアナステシア世界の大地——どこかの長閑な森の入り口——に降り立った。
優太は即座に周囲を見渡し、索敵を行う。
木々の揺れ、風の向き、鳥の鳴き声。OODAループ(観察・情勢判断・意思決定・行動)を高速で回し、現在地に即座の脅威がないことを確認すると、小さく息を吐いた。
「よし、とりあえず安全圏だな。……で、リリス。さっき渡されたこのカードについて、詳しく聞かせてもらおうか」
優太はリュックを下ろし、指に挟んだシルバーのクレジットカード(マスター・ルチアナ・カード)をリリスの目の前に突きつけた。
「あ、はいっ! それ、すっごい魔法のアイテムなんですよ! 念じると、空中に画面が出てきて、日本の『尼存』とかでネット通販ができちゃうんです!」
「へえ、そいつは便利だな。だが、俺が聞きたいのはこっちだ」
優太はカードの裏面の付箋をトントンと叩いた。
「『現在90万円使用済み(リボ払い)』。これ、どういうことだ?」
「えっとえっと……ちょっと履歴出しますね! えーいっ!」
リリスがカードに指を向けると、空中に半透明のホログラムウィンドウが浮かび上がった。
そこには、絶望的な利用明細がズラリと並んでいた。
・朝倉月人 プレミアムファンクラブ年会費……50,000円
・博多エステ サロン・ド・ヴィーナス……150,000円
・アプリ課金:月人アイカツ(天井まで)……300,000円
・高級おはぎ100個入り……50,000円
「……おい。なんだこの『朝倉月人』ってのは。誰だ。俺はそいつのファンクラブに入った覚えはないぞ」
「あ、それはルチアナ先輩の推しのアイドルです! この前お忍びで福岡のライブに行ってて! あと、一番下のおはぎは、私が『エンジェルすまーとふぉん』で間違えてポチっちゃったやつで……てへっ☆」
てへっ、ではない。
優太はこめかみをピクピクと引きつらせた。
「あのな、リリス。俺の限度額が100万円だとして、残りの枠は10万しかない。しかもこれ、毎月27日が引き落とし日って書いてあるが……今日は何日だ?」
「えっと、24日ですね!」
あと3日。
優太は天を仰いだ。
「ちなみに、この異世界で引き落とし日に口座の金が足りなかったら、どうなるんだ?」
「あ、それは簡単です! 空からサングラスかけた取り立ての天使さんがやってきて、優太さんの装備とか服とか下着まで全部没収して、スーツケースにギュウギュウに詰めて、極寒のシーラン海に強制労働(カニ漁)のドナドナで沈められます! 無慈悲に!」
「極道よりエグいシステム組んでんじゃねえか!!」
どんな悪辣な闇金でも、異世界の海にスーツケースで沈めたりはしない。
優太がこの理不尽すぎる神々のシステムに頭を抱えようとした、その時だった。
カサッ……!
背後の茂みが不自然に揺れた。
優太の背筋に、実習や訓練で何度も刷り込まれた『死の気配』が走る。
「ギィィィッ!」
茂みから飛び出してきたのは、緑色の肌に醜悪な顔を持った小鬼——ゴブリンだった。手には錆びた鉈を持ち、涎を垂らしながら、無防備なリリスの背後へと跳躍する。
「ひゃあっ!? ま、まものさんですぅ! え、エンジェルすまーとふぉんで、えっと、神聖魔法のアプリを起動して……ああっ、パスワード忘れましたぁ!」
ポンコツ女神がスマホのロック解除に手間取っている間にも、鉈は無慈悲に振り下ろされる。
だが、鉈がリリスに届くことはなかった。
「——TCCC(戦術的戦傷救護)第一段階。火線下救護(CUF)」
優太の低く冷たい声が響いた。
システマの独特な呼吸法。優太の身体から、一瞬で『日常の若者』の空気が消え失せ、プロの戦闘員のそれに切り替わる。
ゴブリンの跳躍の軌道を一瞬で見切った優太は、予備動作を一切見せずに斜め前方へスッと踏み込んだ。
相手の力が最も乗る「センターライン」を外し、ゴブリンの懐へ潜り込む。
「ギッ!?」
「まずは武装の無力化だ」
優太の右手には、いつの間にかポケットから抜かれたタクティカル・折りたたみナイフが握られていた。
サヨック・カリ(刃物を用いた近接格闘術)の滑らかな動き。
ナイフの峰でゴブリンの手首を叩き上げるように弾き、鉈を落とさせる。と同時に、手首の屈筋腱を正確に切断。これで右腕は二度と使えない。
「ギァアアアッ!?」
「そして、延髄の破壊」
悲鳴を上げる暇も与えない。
優太はゴブリンの背後に回り込みながら、大東流合気柔術の崩しで相手の体勢を完全に地面へと固定する。
抵抗を許さない完璧なマウント。ナイフの切っ先が、解剖学的に最も脆い頸椎の隙間——延髄へと、ブレることなく、吸い込まれるように突き立てられた。
ズブッ。
短い音と共に、ゴブリンの痙攣がピタリと止まる。
最小限の動き。最小限の力。
それは戦闘というより、執刀医による完璧な『患部の切除手術』だった。
「……周囲の脅威、排除完了。セーフティエリアを確保した」
優太はナイフの血をゴブリンのボロ布で拭い、カチリと折りたたんでポケットにしまった。
パーカーのフードを軽く直し、何事もなかったかのようにリュックから『アメリカンスピリット』を一本取り出す。
軍用マッチで火を点け、紫煙を細く吐き出した。
「ふぅ……」
「ゆ、優太さん……! 今の、すっごくかっこよかったです! あっという間に!」
目をキラキラさせて駆け寄ってくるリリスに、優太は煙草を咥えながら答えた。
「防衛医大生を舐めるな。人を救うためには、まず自分と仲間が死なない環境を作るのが大前提だからな」
そう言ってから、優太は地面に転がるゴブリンを見て、チッと舌打ちをした。
「リリス。この世界に、俺の戦闘技術を換金できる場所はあるか?」
「えっ? はい、冒険者ギルドに行けば、魔物の討伐で金貨がもらえますけど……」
優太はG-SHOCKの盤面を見た。
引き落としの27日まで、残り約72時間。
「急ぐぞ。スーツケースに詰められて深海のカニの餌になるのは御免だからな」
過労死から解放されたはずの戦場外科医は、休む間もなく、借金返済という名の新たな戦地へと歩き出した。




