第一章 異世界への絶望的チェックインと、借金まみれの最強パーティー結成
「俺の命、黒いゴミ袋以下」
「……流石に、キツいな」
防衛医科大生、中村優太(25歳)の意識は、文字通り泥のように濁っていた。
72時間。丸三日間の一睡も許されない連続勤務と過酷な実習を終え、病院を出た彼の足取りは、ゾンビのように重かった。
着慣れたパーカーとジーンズ姿。左腕にはめたG-SHOCKの秒針だけが、正確に時を刻んでいる。
優太はポケットから『アメリカンスピリット』を取り出し、軍用マッチで火を点けた。シュボッ、という乾いた音と共に、紫煙を肺の奥深くまで吸い込む。
(ハワイの元SEALsの教官が言ってたな。『兵士は市民に地獄を見せないために、地獄に浸かって綺麗にするのが役目だ』って。……だが教官、日本の医療現場も大概プレ・地獄だぞ)
医者を目指したのは、目の前で友人が銃撃戦に巻き込まれて死ぬのを見たからだ。
あんな無力感は二度と味わいたくない。だからこそ、最新の医療技術だけでなく、天極流の体術からCQC(近接格闘)、TCCC(戦術的戦傷救護)まで、人の命を繋ぎ止めるためのありとあらゆる技術を貪欲に学んできた。
だが、どんなに鍛え上げた肉体と精神も、72時間の徹夜作業の前では無力だった。
視界が揺れる。思考がまとまらない。早く帰って、金曜日だからレトルトのカレーでも食って、泥のように眠りたかった。
その時だった。
「ニャーン」
横断歩道の先の車道。
薄暗いアスファルトの真ん中に、うずくまる黒い影。ピンと立った二つの耳。
幻聴か現実か、微かな鳴き声が聞こえた(気がした)。
そして、優太の耳が、猛スピードで迫り来る大型トラックのエンジン音を捉える。
運転手は居眠りしているのか、まったく減速する気配がない。
「っ……!」
思考より先に、鍛え上げられた肉体が動いた。
TCCCの基本。状況の迅速な判断と、素早い介入。
優太はアスファルトを蹴り、トラックの前に飛び出した。猫の小さな体を両腕で抱え込み、そのままの勢いで車道の外へ転がり出ようと——
ダイブした空中で、優太は腕の中の「それ」を見た。
毛並みはない。温もりもない。
ただ、カラスに突かれて耳のような形に結ばれた、ぬちゃっとした感触。
そして、微かに漂う生ゴミの臭い。
(……は? 黒いゴミ袋……?)
キキィィィィィッ!!
ドガァァァァァァンッ!!!
強烈な衝撃と、トラックのクラクション。
優太の意識は、全身の骨が砕ける感覚と共に、そこでプツリと途絶えた。
「俺の命……ゴミ袋以下かよ……」
それが、中村優太の今世の最期の言葉だった。
◆ ◆ ◆
「——ていうか、マジで死んだのか、俺」
目を覚ますと、そこは果てしなく続く真っ白な空間だった。
G-SHOCKは動いている。愛用のタクティカルリュックも背負ったままだ。体に痛みはない。
「あわわわっ! お、起きましたかっ!?」
不意に、背後から声がした。
振り向くと、そこにいたのは……目を疑うような人物だった。
年齢は17歳くらいだろうか。透き通るような美しい銀髪に、小柄で可愛らしい容姿。
だが、その格好が絶望的に神々しくなかった。
くたびれたピンク色のジャージ。胸元にはなぜか若葉マーク(初心者マーク)の刺繍。足元はイボイボの健康サンダル。
しかも、その手には食べかけの『みたらし団子』が握られていた。
「い、異世界人さん、ですか? わ、私、見習い女神のリリスと言います! 貴方の担当の女神になりましたので~!」
みたらし団子のタレを口の端につけたまま、ジャージ姿の少女——リリスは、ペコリとお辞儀をした。
「……異世界。女神。なるほど」
優太は額に手を当てた。
「俺、トラックに轢かれて異世界転生するのか。テンプレ通りすぎて逆に安心するな。で、なんでアンタはそんなドンキホーテに深夜いそうな格好してるんだ? 女神だろ?」
「うぅ……えっと、えっとですね……」
優太の冷静なツッコミに、リリスは涙目になりながら、ジャージのポケットからくしゃくしゃの紙を取り出した。
「難しいことはよく分かんないんですけど……ルチアナ先輩から、これ渡されて……」
リリスが震える手で見せてきた紙には、デカデカとハンコで『懲戒解雇』と押されていた。
「チョウカイカイコ、って読むんですかこれ? なんか『人件費削減でクビ』とか『月人君のライブの遠征費が足りないからアンタの給料カット』とか、よく分からないこと言われて……」
「(ブラック企業かよ)」
「それで、それで……『どうせだから、これから来る異世界の人について行って、養ってもらえ』って……『そうすれば、お菓子もお団子もいっぱい食べられるから』って、ルチアナ先輩が……っ、うわぁぁん!」
カンペを読み上げながら、見習い女神はボロボロと泣き出した。
「……」
優太は無言でリュックを下ろし、アメリカンスピリットを口にくわえて、軍用マッチで火を点けた。
真っ白な空間に、煙がゆっくりと立ち昇る。
72時間寝ずに働き、黒いゴミ袋を猫と間違えて死に、辿り着いた死後の世界。
そこで待っていたのは、リストラされて泣きじゃくるポンコツの居候女神。
「……まぁ、一人旅よりは退屈しなくていいか」
優太はため息をつきながら、リリスの頭をポンポンと乱暴に撫でた。
「ひぐっ……ほ、本当ですか……!?」
リリスがパッと顔を輝かせる。
「俺は医者だからな。見捨ててはおけない性分なんだ。よろしくな、リリス」
「あ、ありがとうございますぅぅぅ! 異世界人さん、優しいです!」
リリスは鼻水をすすりながら、ゴソゴソとジャージのポケットから何かを取り出した。
「あ、良かったらこれ! ルチアナ先輩の机の上から、借りパクしてきたクレジットカードですぅ! これがあれば、異世界でも日本の物が買えるらしいですよっ!」
「お、マジか。それは助かるな。……ん?」
優太が受け取った、シルバーのクレジットカード。
よく見ると、裏面に付箋が貼ってあり、そこに汚い字でこう書かれていた。
『※利用可能枠 100万円。ただし、現在90万円使用済み(リボ払い)。毎月27日引き落とし』
「…………」
優太の咥えていたアメスピが、ポトリと床に落ちた。
「えへへ、私、お役に立ててますか?」
ジャージ姿の女神は、みたらし団子をモグモグと頬張りながら、無邪気に笑っていた。
(前言撤回だ教官。地獄は終わってなかった。ただ、場所が変わっただけらしい)
異世界転生、初日。
防衛医科大生・中村優太の借金は、90万円からスタートした。




