シーン3:【皇帝の喝采】黄金の海と、沈みゆく泥舟の断末魔
ブツンッ。
通信の切断レバーを押し込み、スタジオの魔力供給を完全に遮断したその瞬間。
「ふぅ……っ」
俺は肺の底に溜まっていた、熱を帯びた空気を一気に吐き出す。
パァン、と鳴っていた照明用魔石の強烈な光が消え、スタジオは備え付けのキャンドルの柔らかい暖色へと包まれる。
しかし、空間の熱気は一向に引く気配がない。
壁一面に設置された六つの物質転送陣は、すでに通信が切断されているというのに、回線のタイムラグによって処理しきれなかった決済分の金貨を、まだゲロゲロと吐き出し続けているのだ。
ジャララララララッ!! ガキンッ、チャリンッ!!
「おいおい、もういい、もう止まれ! 床が抜けるぞ!」
俺は悲鳴を上げながら、ドレスの裾を捲り上げて後ずさる。
床に敷き詰められた黄金の絨毯は、すでに俺の膝下あたりまでその水位を上昇させていた。
歩くたびに、硬く、重たい金属がジャラジャラとまとわりついてくる。
アルフェン王国の国庫をすべてひっくり返しても、これほどの質量にはならないだろう。
文字通り『黄金の海』と化したスタジオの空気は、転送陣が放つオゾンの焦げた匂いと、俺が先ほどばら撒いた『白百合の吐息』の深く甘い香りが混ざり合い、ひどく退廃的で、脳を直接酩酊させるような危険な香りに満ちていた。
「キュイッ! キュイイィッ!」
その黄金の海を、赤いリボンを巻いたウニが、まるで本物の海を泳ぐイルカのように、短い手足をバタつかせて跳ね回っている。
背中の針に何枚もの金貨を突き刺し、自らを黄金のハリネズミへとデコレーションしている姿が、この狂気の空間の中で唯一の癒やしだ。
「……見事な手際だ。一国の王太子を、数千人の前で公然と『粗大ゴミ』扱いしてのけるとはな」
突如、スタジオの分厚い防音扉がゆっくりと開き、低い、腹の底を震わせるような男の笑い声が鼓膜を打った。
振り返るまでもない。
この帝国の中心で、これほどまでに圧倒的で、空間そのものを歪ませるような覇気を放つ人間は一人しかいない。
「レオンハルト陛下」
俺は金貨の海をかき分けるようにして向き直り、完璧な角度でカーテシーを決める。
漆黒の軍服に身を包んだレオンハルト皇帝が、扉の枠に肩を寄りかからせ、腕を組んで俺を見下ろしている。
彼の黄金の瞳には、かつての戦場で強敵の首を刎ねた時のような、獰猛で純粋な歓喜の色が浮かんでいた。
「ごきげんよう。……少々、お見苦しいところをお見せしてしまったでしょうか?」
「お見苦しい、だと?」
レオンハルトはブーツの底でチャリン、と金貨を弾き飛ばしながら、ゆっくりとスタジオの中へ足を踏み入れる。
「冗談を言うな。俺は今宵、極上の喜劇を見せてもらったぞ。あの馬鹿な小国の王太子が、全帝国の回線をジャックしてまで喚き散らした挙句、お前の指先一つで無様に回線を切断される瞬間……! ふははははっ! たまらん! 帝国の歴史書に挿絵付きで残してやりたいほどの傑作だ!」
皇帝は腹を抱え、天井を仰いで雷鳴のような大爆笑を響かせる。
俺もつられて、クスクスと肩を揺らして笑ってしまう。
「ええ、本当に。回線をジャックするなら、せめてもう少し賢い脅し文句を考えてくるべきでした。あのようなヒステリックな愛の押し売り、帝国の素晴らしい貴族の皆様の耳には毒でしかありませんわ」
「全くだ。しかも、お前はただ回線を切るだけではなく、その怒りを『愛国心』という名の商品価値にすり替えて、さらに金貨を巻き上げた。……お前という女は、底なしの強欲だな、セシリア」
「商人ですから。転んでもただでは起きません。ましてや、向こうからわざわざ私の宣伝のために火の中に飛び込んできてくれたのですから、骨の髄までしゃぶり尽くして差し上げないと失礼でしょう?」
俺が扇子で口元を隠しながらウインクをして見せると、レオンハルトは「違いない」と再び声を上げて笑った。
「キュ?」
足元から、ウニがトコトコとレオンハルトのブーツによじ登り、自分の背中に刺さった金貨を一枚、誇らしげに彼に向けて差し出している。
レオンハルトはその太い指で金貨をつまみ上げ、ウニの頭を乱暴に、しかし優しく撫でた。
「さて、強欲な特権商人よ。……お前に一つ、極上の土産を持ってきてやったぞ」
レオンハルトが懐から取り出したのは、血のような真っ赤な蝋で封印された、一枚の黒い羊皮紙だった。
情報局の最高機密を示す刻印。
俺は姿勢を正し、その羊皮紙を受け取る。
指先に伝わる、かすかな魔力の残滓と、羊皮紙独特の獣の脂の匂い。
「アルフェン王国の、最新の報告書ですか?」
「ああ。たった今、国境に放っている『影』から転送されてきたものだ。……お前が通信を切断した、まさにその直後の王都の様子だそうだ」
俺は封印を爪先でカリッと削り落とし、羊皮紙を広げる。
そこに記されていた暗号化された文字を、俺の脳が瞬時に解読していく。
文字を追うごとに、俺の唇の端が、三日月のように深く、深く吊り上がっていくのが自分でも分かった。
『通信切断の五分後。王太子アルベルトの絶叫が執務室から響き渡る』
『同時刻、物価暴騰と飢餓に怒り狂った数万の平民・下級貴族の暴徒が、王城の正門を完全に突破』
『近衛騎士団の半数が暴徒側に寝返り、城内は完全な無政府状態に突入』
『宰相バルディス、国庫の残金を持って馬車で逃亡を図るも、東の門にて職人ギルドの自警団に捕捉され、馬車ごと炎上』
「……あははっ」
俺の喉の奥から、乾いた、しかし底抜けに明るい笑い声がこぼれ落ちた。
「完璧だ。完璧なまでの『自業自得』ですね」
俺は羊皮紙をパタンと閉じ、レオンハルトを見上げる。
「宰相は逃亡に失敗し、王城は陥落。……アルベルト殿下は今頃、自分の招いた暴徒の波に飲み込まれながら、かつて自分が見下していた泥水をすすっていることでしょう。私が『ブロック』した泥舟は、たった今、完全に海の底へと沈みました」
「お前の予想通り、いや、予想以上の速さだったな」
レオンハルトが、部屋の隅に置かれていたワインボトルと二つのクリスタルグラスを手に取り、手早くコルクを抜いて黄金色の液体を注ぐ。
「これでお前を縛る過去の鎖は、物理的にも完全に消滅した。お前はもう、誰にも咎められることなく、この帝国の、いや、世界の経済を蹂躙できる」
彼がグラスを一つ、俺に向かって差し出す。
俺はそれを受け取り、冷たいクリスタルの感触を指の腹で確かめながら、静かに、しかし力強く頷いた。
「ええ。アルフェン王国という『反面教師』が消えた今、帝都の商人ギルドも同じ運命を辿ることを確信したはずです。暴力を振りかざしても、私の魔道具には勝てない。価格競争を挑もうにも、私のポイント還元の沼から客は決して逃げられない」
チンッ、と。
澄んだ音を立てて、二つのグラスが交差する。
スタジオの天井の魔力照明が落とされ、暖炉の火とキャンドルの光だけが、足元の数万枚の金貨をギラギラと照らし出している。
最高の勝利の美酒だ。
喉を滑り落ちる黄金色のワインの熱が、俺の細胞の隅々にまで行き渡り、さらなる野心を燃え上がらせていく。
「次はどう動く、セシリア。このまま帝都のギルドを兵糧攻めにして真綿で首を絞めるか?」
レオンハルトの問いかけに、俺はワイングラスを揺らしながら、妖しく微笑んだ。
「いいえ。真綿で絞めるなんて悠長なことはいたしません。彼らの息の根は、次の一手で完全に、そして物理的に止めます」
「ほう?」
俺は肩の上のウニに視線を落とし、彼が口にくわえている一枚の金貨を指差す。
「これだけ莫大な資金が集まったのです。……帝都のギルドが抱えている『最大の弱点』を、金に物を言わせて丸ごと買い叩いてやりますよ。そうですね……手始めに、彼らの『倉庫』と『物流ルート』から頂きましょうか」
これこそが資本主義の絶対法則だ。
敗者のリソースは、勝者がすべて安値で飲み込む。
そして俺は、そのリソースを使って、さらに巨大な『魔道具ネット通販』の帝国を築き上げるのだ。
「……恐ろしい女だ。お前を敵に回さなくて、心底良かったと思っているぞ」
レオンハルトが、心底楽しそうに喉を鳴らして笑う。
俺はグラスの残りを飲み干し、足元の黄金の海を踏みしめながら、次なる戦場――帝都商人ギルドの完全なる買収劇――へと、その思考を鋭く研ぎ澄ませていった。




