シーン4:【あ、ブロック対象です】泣き叫ぶ王太子と、切断される過去
ビーッ! ビーッ! ビーッ!
鼓膜を不快に引っ掻く、耳障りで単調な警告音が工房の壁に反響する。
先ほどまで俺の周囲を取り巻いていた、帝国貴族たちの華やかで狂乱に満ちた熱気と、降り注ぐ金貨の美しい澄んだ音色はすっかり鳴りを潜めている。
代わりに空間を支配しているのは、部屋の隅の木箱の上に無造作に放置されていた『王族専用・長距離通信魔道具』が放つ、血のようにどす黒い赤光だ。
「……随分と、余裕のない鳴り方だな」
俺は作業台に寄りかかり、腕を組んだまま、明滅を繰り返すその古めかしい魔道具を冷ややかに見つめる。
アルフェン王国の王城と直通の、極秘回線。
俺が公爵令嬢として国の物流を仕切っていた頃、緊急事態の報告を受けるために持たされていたものだ。追放された時に置いていくのも癪だからと、ドレスの裏に隠して持ち出してきたのだが、まさかこんなに早く使い道が来るとは。
「キュ、キュアァ……」
足元で、ウニが両方の短い前足で自分の耳(らしき場所)を塞ぎ、目をシパシパさせている。
帝国の最新技術と俺の配線でクリアな音質を実現した配信魔道具に比べ、王国の旧式魔道具が発する魔力波長はノイズだらけで、魔獣の敏感な感覚器官にはひどく障るらしい。
「悪いな、ウニ。ちょっとだけ耳障りな『雑音』を処理する。すぐ終わらせるから我慢してくれ」
俺はウニのトゲトゲの背中を優しく撫でてやりながら、ゆっくりとした足取りで赤く光る通信魔道具へと近づく。
急ぐ必要などどこにもない。
向こうは今、溺れかけて藁にもすがる思いでこの回線を鳴らし続けているはずだ。数秒待たせたところで切れるわけがない。
俺は作業台の端に置かれていた、昨日レオンハルトから差し入れられた年代物の赤ワインのボトルを手に取る。
コルクを抜き、グラスにトクトクと深紅の液体を注ぐ。
芳醇な葡萄の香りと、微かな樽の匂いが鼻腔をくすぐる。
グラスを片手に持ち、ようやく俺は通信魔道具の受信レバーに指をかけた。
ガチャンッ。
重たい金属音とともに回線が繋がる。
ノイズ混じりのざらついた魔力光が空中に投影され、そこに見慣れた――しかし、以前とは全く違う――男の顔が浮かび上がった。
『せ、セシリア! セシリアか!? 繋がったか!?』
通信機から飛び出してきたのは、アルフェン王国次期国王、アルベルト王太子の悲鳴のような声だった。
投影された彼の顔色を見て、俺は思わずグラスを持つ手を止める。
舞踏会であれほど自信満々に、これ見よがしに胸を張っていた男の姿はどこにもない。
過剰な香油で固められていたはずの金髪はボサボサに乱れ、目の下にはくっきりと濃い隈が刻まれている。豪華な純白の夜会服の襟元は引きちぎられたように乱れ、額には脂汗がべったりと張り付いていた。
そして何より、その後ろ。
薄暗い王城の執務室の背景から、微かにだが、ガラスが割れる音と、群衆の怒号のようなものが入り込んでいる。
(……なるほど。王城の門前まで、暴徒化した平民や下級貴族が押し寄せているのか)
俺は心の中で完璧な答え合わせを済ませながら、ワイングラスを軽く揺らす。
琥珀色の照明に照らされ、深紅の液体がグラスの内側に美しい弧を描く。
「ごきげんよう、アルベルト殿下。……夜分遅くに、随分と慌ただしいご様子で。そちらは何かお祭りでもやっているのですか?」
俺の極めて平坦で、かつ嫌味の効いた挨拶に、アルベルトは映像越しにビクッと肩を跳ね上げる。
『お祭りだと……!? ふざけるな、お前の耳にはこの怒号が聞こえないのか! 暴徒だ! 市場から物が消え、頭のおかしくなった民草どもが、王城の門を打ち破ろうとしているんだぞ!』
アルベルトは通信機のレンズに向かって身を乗り出し、唾を飛ばさんばかりの勢いで喚き散らす。
彼の目には、血走った焦燥と、誰かに責任を押し付けたくてたまらないという浅ましい感情が渦巻いている。
『お、お前のせいだ! お前がいなくなった途端、北の鉱山も東の職人街も、商人ギルドの連中まで一斉に反旗を翻しおって! どういう魔法を使った! 物流を止めるなどという国家反逆、ただで済むと思っているのか!』
「……はぁ」
俺はグラスに口をつけ、芳醇なワインを喉に流し込む。
冷たい液体が、徹夜明けの火照った体を心地よく冷ましていく。
アルベルトの言葉は、相変わらず自分の足元の事実を何一つ見ようとしていない、子供の癇癪そのものだ。
「殿下。私は魔法など使っておりませんし、物流を止めるよう指示など出していませんよ。ただ、『いなくなった』だけです」
俺は呆れを通り越した氷点下の視線で、映像の中の男を見据える。
「北の鉱夫たちは、私が私財から毎月危険手当を出していたから働いていたんです。東の職人たちは、私がギルドの不当な中抜きから彼らを守っていたから納品していたんです。……私が消えたなら、彼らが殿下や宰相閣下のために働く義理は、どこにもありませんよね?」
『なっ……!? 私財だと!? 公爵家の金ではなく、お前個人の金で回していたと言うのか!?』
「ええ。国庫から出る予算は、すべて宰相バルディス閣下が『中抜き』して自分の懐に入れていましたからね。……その証拠を突きつける前に、横領の濡れ衣を着せて私を追放したのは、他ならぬ殿下ご自身ではありませんか」
俺が事実を冷淡に突きつけると、アルベルトの顔面からみるみると血の気が引いていく。
投影された映像が微かにブレる。彼が通信機を握る手が、ガタガタと激しく震え始めているのだ。
『ば、バルディスが……? いや、そんなはずは……あいつは私の忠臣で……!』
「今頃、その忠臣様は王城の金庫の中身を持って、他国へ逃げる馬車の中じゃないですか? 暴徒が門を叩いているのに、殿下の横に宰相の姿が見えないのが何よりの証拠でしょう」
アルベルトがハッと息を呑み、慌てて背後を振り返る。
彼には今頃、自分がどれほど致命的な判断ミスを犯し、誰に騙され、そして『誰を怒らせてはいけなかったのか』が理解できたはずだ。
『セ、セシリア……っ!』
アルベルトは再び通信機に向き直ると、今度は態度を百八十度急変させ、媚びへつらうような、泣きすがるような声を出した。
『分かった! 私が悪かった! バルディスの言葉を鵜呑みにした私が愚かだったのだ! お前の罪はすべて無効とする! いや、公爵家の権限も、領地も、すべてお前の好きにしていい!』
彼は映像越しに両手を合わせ、額を擦り付けるような無様な姿を見せる。
『だから、頼む! 今すぐ王国に戻ってきてくれ! そして、あの反逆者ども(職人や商人)を説得して、物流を元に戻してくれ! お前の力があれば、この暴動はすぐに収まるはずだ! 私の……いや、我がアルフェン王国を救ってくれ!』
沈黙が、工房に落ちる。
ウニが「キュ?」と首を傾げ、俺の足元から見上げてくる。
俺はグラスの底に残った深紅のワインを一息に飲み干し、トンッ、と静かな音を立てて作業台にグラスを置いた。
「殿下」
俺の声は、夜の湖面のように波立たず、一切の感情を帯びていなかった。
「私は今、ヴァルツ帝国で『世界初』の商売をしています。皇帝陛下直々の専属契約を結び、帝都の貴族たちから一晩で金貨数万枚を稼ぎ出しています。私の作る商品は、王国の粗悪品とは比べ物にならない価値を持ち、帝国の経済を根底から回し始めているんです」
俺の言葉を聞き、アルベルトは呆然と口を半開きにする。
『一晩で、数万枚……? 皇帝と、契約……?』
彼の理解のキャパシティを完全に超えた数字と事実が、彼の脳をショートさせているのが分かる。
俺は通信機のレンズに向かって、ゆっくりと一歩踏み出す。
そして、顔を近づけ、かつて彼が俺に向けて言い放った言葉を、そっくりそのままお返ししてやる。
「これほどまでに巨大で、圧倒的で、未来のある市場を捨てて。……なぜ私が、今にも沈みかけている泥舟のような小国に、戻らなければならないのですか?」
『……っ! セシリア! お前は王国の人間だろう! 祖国を見捨てるというのか! 私を見殺しにする気か!』
アルベルトが絶望に顔を歪め、発狂したように怒鳴り散らす。
『戻ってこい! これは王命だ! お前は私の婚約者として、この私を支える義務が――』
「あ、その声はブロック対象です」
俺は冷たく言い放ち、通信機の『切断』を意味する青い魔力石に指をかける。
『ブロック……? 何を言っている、セシリア! 待て、頼む、通信を切らないでくれ! お前がいなければ私は、私は……っ!』
「ごきげんよう、元・婚約者殿。せいぜい、ご自分の犯した『間違い』の重さに押し潰されながら、民衆の怒りの炎に焼かれるといいですよ」
カチンッ。
俺の指が青い魔力石を弾き飛ばした。
『セシリアァァァッ!!』というアルベルトの絶叫が、途中でブツリと切断される。
赤く明滅していた通信魔道具の光が、ふっと消え去り、工房には再び、圧倒的なまでの静寂が舞い戻った。
「……終わったな」
俺は短く息を吐き出し、機能を完全に停止した旧式の魔道具から手を離す。
胸の奥で、長年積もり積もっていた黒い感情が、晴れやかな青空のように透き通っていくのを感じる。
一切の未練もない。
これで俺は、過去という名の鎖から完全に解き放たれたのだ。
「見事な『切断』だったな。聞いていて清々しいほどだ」
突如、背後から拍手の音が響いた。
驚いて振り返ると、即席の木の扉を押し退け、いつの間にか工房の中に入ってきていた男が立っていた。
漆黒の軍服に真紅の外套。ヴァルツ帝国皇帝、レオンハルト。
彼の手には、俺が先ほど飲んでいたものよりさらに高級そうな、美しいクリスタルグラスとワインボトルが握られている。
「……陛下。いつからそこに?」
「お前が『泥舟には戻らん』と言い放ったあたりからだ。悪趣味かもしれんが、極上の喜劇の結末を見逃すわけにはいかんだろう」
レオンハルトは獰猛な笑みを浮かべながら歩み寄り、俺の空になったグラスに、トクトクと新たなワインを注いでくれる。
「これで、アルフェン王国は完全に終わる。周辺国も、物流の死んだ国など相手にはせん。……お前は一滴の血も流さず、一つの国を経済の力だけで滅ぼしたのだ」
レオンハルトが自分のグラスを掲げる。
俺は自分のグラスを手に取り、彼の黄金の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「国を滅ぼしたなどと、人聞きの悪いことを。私はただ、市場の『正しい価値』を証明しただけです。……彼らが自滅したんですよ」
「ふははっ、違いない!」
チンッ、と。
薄いクリスタルグラスがぶつかり合う、澄んだ音が工房に響き渡る。
俺たちは同時にグラスを傾け、極上のワインを喉に流し込んだ。
「さて、セシリア。過去の清算は終わった。次はお前の言っていた通り、この帝国の金庫をすべてひっくり返す番だ」
レオンハルトが、作業台の上に積まれた金貨の山と、ずらりと並んだ『黄金の薔薇美容液』の小瓶を見下ろしながら言う。
その目には、停滞した帝国を破壊し、新たな時代を創り出すことへの強烈な野心が燃え盛っている。
俺は肩の上に飛び乗ってきたウニの顎を撫でながら、不敵な、そして世界を飲み込むような強気な笑みを浮かべた。
「ええ。石鹸、鏡、美容液。……これはまだ、ほんの序章に過ぎません。次は何を売りましょうか」
「ほう。何か企んでいる顔だな?」
レオンハルトの問いかけに、俺は夜空に輝く月を見上げるように、視線を高く上げる。
そして、この異世界を根底から作り変える、最強の商人としての宣言を口にする。
「次ですか? ――ええ、『世界』です」
ここから先は、俺の独壇場だ。
婚約破棄された悪役令嬢による、異世界をECと配信で支配する、本当の『経済戦争』の幕が、今、完全に上がりきったのだ。




