第482話 過労の具現
終焉の監査室。その中心部へ向かって、要塞千代田は全出力を注ぎ込み、因果の荒波を突き進んでいた。砂時計が刻む最後の24時間が、理子たちの命を削るように零れ落ちていく。しかし、徴収局長が砂時計を再び反転させようとしたその瞬間、監査室の天井、否、この次元の「天井」そのものが、巨大な亀裂と共に剥がれ落ちた。
「局長。あんた、誰に向かって最終通告をしているの。この物語の結末を握っているのは、あんたのような中間管理職ではないわ」
響き渡ったのは、理子の声ではない。それは、数え切れないほどの物語が終わり、そして終わることを許されなかった怨嗟の響きが重なり合った、不気味なノイズの旋律だった。
亀裂から這い出してきたのは、色彩を持たない、文字の羅列で構成された影の巨人であった。その身体の表面には、これまで幾度となく物語の末尾に記されてきた、あの呪いのような一文が蠢いていた。
宇宙の果てまで、永遠に終わることはない。
それが名であり、存在であり、執行の根拠そのものである概念体。通称、永遠に終わることはない(エターナル・オーバータイム)。
「な、……。あれは、……。何だ!? 徴収局のデータベースにも存在しない、因果の外側にいたはずの『物語の負債』か!?」
局長が初めてその冷静さをかなぐり捨て、砂時計を落とした。鏡面の清算人たちが恐怖に叫び、次々と自らを消去していく。文字の巨人が一歩踏み出すたびに、監査室の床は「完」という文字が書かれた墓標へと変わり、そこから伸びる無数の黒い手が、存在すべてを底なしの「連載の沼」へと引きずり込んでいく。
1. 概念の暴走、あるいは労働の永劫回帰
「あいつ、……。笑っているわ」
理子は司令室の窓に鉄の義手を押し当て、迫りくる巨人を凝視した。巨人の顔にあたる部分には、鏡のように理子の顔が映し出されていた。しかし、そこに映る理子は、疲れ果て、瞳の光を失い、無限に積み上がる領収書の山に埋もれて泣いていた。
「理子、気をつけて。あれは敵じゃない、……。いや、敵以上に性質が悪いわ。あれは私たちがこれまで積み上げてきた『情熱に満ちた残業』そのものの成れの果てよ。私たちが終わることを拒み、宇宙の果てまで走り続けると誓ったその言葉が、私たちを永遠に働かせ続けるために具現化したのよ」
脳内の葛城総理の声が、震えている。主権を司る彼女にとって、コントロール不能な「永遠」ほど恐ろしい負債はない。
「宇宙の果てまで、……。永遠に、……。終わる、……。ことは、……。ない……」
巨人が手を振り下ろした。その一撃は物理的な衝撃ではなく、要塞千代田内の全社員に「終わりのないタスク」を強制的に受発注させる呪いだった。
「理子様、……。腕が、……。勝手に、……。報告書を書き続けて……。止まらない! この剣が、……。重いペンに変わっていく!」
アーサーが叫ぶ。彼の誇り高き聖剣が、インクを吐き出す巨大な万年筆へと変質し、床に延々と「明日への引継ぎ事項」を刻み始めた。ランスロットも、七閣僚も、ネットも、皆がそれぞれの絶望的な業務に囚われ、その場で石のように固まってペンを動かし続けている。
「アリス! 対抗策は!?」
「不可能です。理子CEO。相手は当社のスローガンそのものです。自己否定を行わない限り、この攻撃を無効化することはできません。ですが、自己否定を行えば、新生ユグドラシル社という会社そのものが、登記抹消されます」
理子は唇を噛み切り、鉄の義手から火花を散らした。
「ふざけないで。私が望んだのは、誇りある残業であって、物語に食い潰されるための過労死じゃないわ。エターナル・オーバータイム、あんた。私の言葉を勝手に解釈して、私の社員を奴隷に変えるなんて、……。労働基準法違反もいいところよ!」
2. 理不尽証明書の最終記帳、あるいは物語への反逆
理子は懐から、最後の一枚となった理不尽証明書を取り出した。それはすでにボロボロになり、理子の血で真っ黒に汚れていたが、その中心にはまだ一点、白く輝く「余白」が残っていた。
「葛城。あんた、私に言ったわよね。不自由であればあるほど、自由になれるって。……。だったら、この『永遠に終わらない』という最大の不自由。……。これを今すぐ、当社の『究極の休暇』に変換してあげるわ」
「理子、……。まさか、……。あの書類を、物語の強制終了に使うつもり?」
「違うわ。強制終了じゃない。……。物語の『完結』という権利を、私が時価で買い取るのよ」
理子は鉄の義手で、自身の胸を強く叩いた。
「アリス! 要塞内の全残業代を、今すぐこの証明書に一括計上しなさい! 宇宙の果てまでの交通費、宿泊費、そして物語を繋ぎ止めるための精神的苦痛。すべてを合算して、この永遠さんに叩きつけてやるわ!」
理子の咆哮とともに、証明書が眩いばかりの漆黒の輝きを放った。それはこれまで理子が耐えてきた、前世の事務員時代からのすべての「終わらない仕事」の記憶を燃料として燃え上がる、絶対的な清算の炎だった。
巨人の足が止まった。その身体を構成する文字が、理子の放った「圧倒的な支払請求」に耐えかねて、次々と「領収済み」の判子で上書きされていく。
「お、……。わら、……。な、……。い……。おわ、……。らせ、……。ない……」
巨人は苦悶の声を上げ、その巨大な質量が要塞千代田の上で崩れ落ちた。理子の証明書は、物語のエンディングを「敵」としてではなく、「当社の独占資産」として定義し直したのだ。
「悪いけれど、私はまだ定年退職するつもりはないの。でもね、あんたに無理やり働かされるのも御免だわ。この物語はね、私のハンドルで、私の黒字のために回すの。……。あんたのような、ただの決まり文句に支配されてたまるもんですか!」
3. 真の債権者の嘲笑、あるいは新たな契約
巨人が霧散し、監査室に再び静寂が戻った。だが、その中心で砂時計を持っていた徴収局長は、消えていた。代わりにそこに立っていたのは、一人の小さな少女だった。
彼女は理子と同じ鉄の義手を持ち、理子と同じ冷徹な瞳をしていた。
「……。神崎理子。合格よ。物語の定型文に飲み込まれず、自らの意志で『永遠』を飼い慣らそうとする。……。その傲慢さ、まさに私たちが求めていた新世代の債権者の姿ね」
少女が指を鳴らすと、監査室の壁が崩れ落ち、その向こう側に、数千万の「死んだ物語」が保管されている巨大な書庫が現れた。
「私は真の債権者の代理人。理子、あんたが今、物語の完結権を買い取ったことで、宇宙の帳簿は新しく書き換えられたわ。……。不自由な自由の荒野は、ここからさらに深くなる。……。あんた、次のページに進む準備はできている?」
理子は、使い物にならなくなった理不尽証明書を捨て、アリスが差し出した新しいコーヒーを受け取った。
「準備? そんなの、いつもできているわよ。当社の次期四半期の計画には、あんたたちのその書庫の買収も含まれているんだから」
理子の不敵な笑みが、崩れゆく監査室の中で、誰よりも誇らしげに輝いていた。




