「――武士は卑怯な振る舞いはしねえんだ」
ぎらぎらと日が辺りを熱気に包んでいる。
まるで射抜くようだった。
乃村は油断なく、上段に構えている。
合わせるように奴の左手へと剣先を向ける――平正眼の構えだ。剣術における上段への対策である。
「良い構えだ……あの四之助が手こずるのも分かる」
「はっ。その言い方だと自分は手こずらないと捉えられるが」
「そう聞こえたのなら――事実だ」
言い終わる瞬間、乃村は一足飛びに迫った。
その足運びは熟練した技術を感じさせる。
刃を峰で受けるしかなかった――下手をすれば刀を叩き斬られる。
「きゃあああ!」
「ふでさん! こっちに来て!」
甲高い声を上げて、亀若丸がふでに言う。
様子は分からないが、周助のそばに寄ったのだろう。
「うおおおおお!」
気合を込めた一押しで乃村を跳ね飛ばした。
嶋田と違って力はないが……その分、速さはある。現に体勢をすぐに立て直した。
「なかなかにやる……」
「ふん……周助、二人を連れて逃げろ」
乃村から目を切らずに指示を出す。
三下たちはいきなりのことで腰を抜かしている。もはや脅威ではない。
「二人がかりで戦わないのか?」
「俺たちは連携ができるほど互いの剣を知らん。それはこいつと戦うには致命的だ。さらに言えば――」
八双の構えに変えた俺は自然と笑っていた。
楽しいからではない。
笑っていないとやってられないからだ。
「――武士は卑怯な振る舞いはしねえんだ」
「分かった! よし、二人とも行くぞ!」
「ちょっと待って、腰が……」
「俺が背負ってやるから!」
三人が逃げる際、亀若丸は「死なないでね、源八郎!」と呼びかけてきた。
「死んだらおいら許さないから! 絶対に帰ってきてね!」
応ずるように頷いた――見えたのかは分からない。
その間、中段に構えていた乃村。
攻撃に転ずることはできたはずだ。
「どうして斬りかかってこない?」
「感動的な別れに水は差さない。それに二人がかりで来られても面倒だ。そして――」
乃村は犬歯を剥き出しにして笑った。
獰猛な野犬を想起させる。
刀を握り直した。
「――剣士として血が騒いだ。お前と戦いたい」
「そうかい。そいつは光栄だな」
後ろで店の者が「ひいいい!?」と悲鳴を上げていた。
三下の二人は身を寄せて固まっている。
そんなことはどうでもいい。
目の前の乃村に集中しろ。
でなければ――死ぬ。
「行くぞ……源八郎!」
中段に構えた乃村は突きを放った。
虚を突かれたわけではないが、少し意外だった。思慮の外と言ってもいい。
突きは受けることは難しいが躱すことは容易い。
それは斬撃とは異なり一点の攻撃だからだ。
だから俺は後ろに下がることなく、右斜め前に躱した。
見え見えの突きだったこともあるが下がると俺の刀は届かない。
ならば前に進むことが最適だ――
「しゃらあ!」
短い気合とともに乃村は突きを斬撃に変えた。
詳しく言えば手首をくるりと回して左に薙いできた。
突きは囮でこれが狙いか――そう思う間もなく、刃が俺の顔を抉った。
「ぐっ――」
左頬が斬り裂かれた。そう認識したときには激痛が走っていた。熱くて冷たいという矛盾を孕んだ、たとえようもない感覚だ。飛び散る血がゆっくりと雫として見えた。
このままだとやられると思った俺は咄嗟に乃村の伸び切った腕、その右手首に向かって刀を振るった。苦し紛れと言われても仕方ない斬撃だった。
それでも長年の修練のおかげか、乃村の内小手を斬ることができた。びっしゅ、という音が聞こえる。
「……四之助が言っていた、窮鼠猫を噛むか」
手首を斬られた乃村は懐から小汚い布を取り出して、素早く結んで止血した。
あれでは満足に刀を振れないだろうが、それは顔を斬られた俺も同じだった。
「まだ、やるか?」
「やめておく。ここでお前を殺せても手負いになるだろう。そんな状態ではあの手練れの返り討ちに遭う」
剣術だけじゃねえ、頭も切れるようだ。
なるだけ傲慢かつ余裕を装って「いいのか? 俺を殺せる好機だぞ」と挑発する。強気でいかなければ弱っていると思われる。
「前言撤回だ。お前を殺すのは――少々手こずる」
「…………」
「ここは一時退かせてもらう」
こちらの虚勢を見透かしたような発言だった。
右手を庇いながら去っていく乃村――姿が見えなくなったので、ふうっとため息をついて、その場にうずくまる。血を流し過ぎたのだろう。
「おいあんた……大丈夫か?」
周助に殴られた三下が俺に近づく。
やる気かと思ったが、心配している表情が浮かんでいる。
俺は「大事ない」と言うが、立てそうになかった。
「それより、お前たちに提案がある。ふでという女を返す代わりに協力しろ」
「ふ、ふでを返す? そりゃあ、助かるが……何をしたらいい?」
殺し合いを見たせいだろう。正常な判断ができていない。
ここで俺の提案を聞かずに周助を追いかければいいのだが、それを考えられないのだろう。
「今すぐ周助の元へ向かってほしい。そしてこう伝えてくれ」
慄く二人を前に俺はきっぱりと告げた。
「俺のことは構うな。乃村との決着をつけてから追いつく、と」
◆◇◆◇
「だ、旦那。針と糸、それから鏡を持って参りました……」
「ああ。ご苦労だった」
三下の一人が残って傷の手当を手伝う。
もう一人は俺からの言伝を届けに周助を追いかけていた。
茶屋の主が「出てってくれ!」と引きつった顔で怒鳴ったので、仕方なく近くの寂れた神社の軒先で休むことになった。
「旦那……まさか、ご自身で縫うつもりですか?」
「当たり前だ。お前、縫えるのか?」
ぶんぶんと首を横に振る三下。
俺は鏡を見ながらちくちくと縫い始めた。
異物と痛みが顔に刺さり血が滴るが、それらを一切無視して傷が塞がるように糸を走らせる。
目の端で三下が顔を歪ませていて、お前は縫われてないだろと言いたくなった。
玉結びして糸を断つと、鏡を見て塞がったことを確認する。
跡は残るがこれでいいだろう。
「よし。それで……お前の名は?」
「た、太郎兵衛と言います……」
「助かったぞ太郎兵衛。どれ、約束を果たしに行くか」
俺が立ち上がると「ご無理なさらず……」と太郎兵衛はおどおどする。
顔を裂かれたのだから当然の対応だが、無用な心配だった。
血を失ったが、手先は痺れていない。きちんと刀を握れる。
「早く行かねばならん。お前はどうする?」
「ついて行きますよ……元は俺たちがあの浪人を連れてきたんですから」
それを言うなら周助が勘違いしたのがいけないが、そこは言及しなかった。
負い目を感じている者の弱みに付け込むのは性に合わないが、今は猫の手も借りたい。
「しかし、お強いですね……ええっと」
「三輪源八郎だ」
「三輪様でございますね。どこかの剣術指南役ですか?」
神社の鳥居を出て太郎兵衛が話しかけてきた。
間が持たないのを嫌い性質なのだろうか。
「いや。違うな。そんな大層な者ではない」
「はあ……それより、その周助さんがいらっしゃるのは、粕壁の宿なのですか?」
「次に泊る宿をそこにしていたんだ。はぐれてもそこで合流できる」
「でも、あの浪人、乃村との決着を着けるはずでは?」
「あの乃村も粕壁に来るだろう……あの三人は目立つからな」
親子連れに見えるかもしれないが、亀若丸はきっと泣いているだろう。
ふでも動揺して周助も気が立っているに違いない。
だから目立ってしまう。
自然と早足になってしまう。
さんさんと照り付ける日差しが弱まってきていることもある。
もうすぐ夕暮れ時だ。
黄昏から夜の帳が下りるまで、なんとか粕壁の宿に着きたい。
まったく、俺たちの旅が上手くいったことねえな、亀若丸よ。




