番外編 執着ではないもの
夏。外はまだ蒸し暑い。
だが時折、夜に心地良い温度の風が吹くことも増えた。
「もう夏も終わりか」
窓際でカーテンを開け夜空を見上げた神崎は、透明なガラス越しに月を見上げてそう呟いた。
その背後にレイが歩み寄り、窓ガラスに二人分の姿が映る。
レイの両腕が、断りもなく神崎の腹部へと回った。
「どうした?」
そう問い掛けても背後から返事は返らない。
シャツ越しに、自分よりも少し低い体温が背中に触れている。
レイは鼻先を神崎の首筋へと寄せた。
「……匂いが気になるのか?」
「今は違います」
「じゃあ何だ。また腹が減ったのか?」
そう問えば、レイは黙り込んだ。
思い返せば最後に血を与えてからもうしばらくが過ぎている。
神崎が自らの襟に指を掛けると、レイの冷たい指先がそれを包むように止めた。
肩越しに振り返った先で、無感情な瞳と真っ直ぐに目が合う。
「あなたは愛というものがなにか、知っていますか?」
耳元で、低い声がそう尋ねた。
神崎は思わず目を丸める。
愛、という単語を何度か脳内で繰り返した後、僅かに眉根を寄せた。
「——は?」
問い返すわけでもない、掠れた声が漏れた。
レイの瞳をいくら覗き込んでも、問いの意図も、その奥にある感情も見えてはこない。
「俺はあなたを手放したくないと思っています。もし他の吸血鬼の手に渡ると、そう考えただけで気分が悪くなる」
「……待て」
「血だって、今までの誰よりも、あなたのものが美味しいです」
「待て! それ以上喋るな」
半ば怒鳴るように制止を掛けると、レイは素直に黙った。
頭の中でレイの言葉が回る。
独占欲に似た感情はともかく、血の味についてはどういう意味合いで告げられたのかさえ、まるで見当が付かなかった。
口を開き、何も言えないまま閉じる。
それを何度か繰り返した後、神崎の身体に腕を回したままのレイへと、睨むような視線を向け直した。
「……どういう意味で言ってるんだ、それは」
「分かりません。ですが——」
レイが一度言葉を区切る。
言葉を探すような間を置いて、しかし瞳は一度も神崎から逸らされることはなかった。
「これが他人を愛するという感情なのか、知りたいんです」
「…………」
「初めてのことなので」
恥じらいも、躊躇もない声だった。
一方、神崎の視線は逃げるように床へと落ちる。
「あなたは、違いますか?」
本人に追い詰めているつもりはないのだろう。
だが、重ねられる問いに神崎は黙り込むしかなかった。
沈黙がどれほど続いたか、それさえ見失った頃、神崎の身体に回っていたレイの腕が解けた。
「すみません。困らせるつもりではなかったんですが」
そう言って、何事も無かったかのように背を向ける。
声の中には傷心も、落胆もない。
愛なんてものであるはずがないと、ただの執着だと。そう断じてしまうことは簡単だった。
神崎が一言そう告げれば、レイはまるで幼子のごとく純粋にそういうものかと頷いて、それで終わるはずだった。
けれど、低い体温が離れていった背中がやけに寒く感じた。
遠ざかる背に手を伸ばし、そして触れる直前で更に腕を持ち上げ、レイの後ろ髪を掴む。
「……まだ話は終わってない。どこ行くつもりだ」
離れかけていたレイの足が止まる。
振り返ろうとする顔は、髪を掴んだままでいることで拒んだ。
「顔が見えませんよ」
「見る必要はない」
短く切り捨てて、答えを探るように瞼を落とす。
「いいか。お前の感情が何なのか、俺が知るはずもない」
「そうですね」
「だが」
神崎は記憶を辿る。
自分にも、過去に愛を囁いた相手がいないわけでもない。ただ、その人物はもう隣にはいない。
愛というものは、美しい物語のように永遠に続くものでも、決して裏切らないものでもないことは、十分に知っていた。
ゆっくりと瞼を持ち上げる。
「……自分がそう思うなら、そうなんだろう」
「俺が決めていいことなんですか?」
「感情なんてそんなもんだ。気紛れに変わることもある。無駄に美化するな」
釘を刺すように、そう付け加えた。
しんと沈黙が落ちる。その後で、いつものように感情の分からないレイの声が聞こえた。
「髪を離してください」
「断る」
「顔が見たいんです」
応じられるはずもなく、神崎は眉根を寄せる。
今どんな顔をしているのか、自分でも分からないままだった。
こうしてレイに背中を向けさせていなければ、まともな言葉一つ出てきそうになかった。
「神崎さん」
そう呼ぶ声に、僅かに指先が揺れた。その声で名を呼ばれるのは、初めてのことだった。
意固地な意思に反して、指先から力が抜けていく。
その指の間から黒い髪が抜け、レイが振り返る。
当然直視出来るはずもなく、顔ごと逸らしてその姿を視界の外へと追いやった。
「自分で決めていいなんて、そんな簡単なことだったんですね」
その表情は窺えない。
けれど、いつもより少しだけ機嫌の良さそうな声だった。
一度は空いた距離を、レイの足が一歩で埋める。
「それなら——俺はあなたを愛しています」
相変わらず恥じることさえしない落ち着いた声が、すぐ傍でそう囁いた。
「ですが、あなたに同じ言葉を求めるのは酷なんでしょうね」
何も言葉に出来ずにいる神崎の胸の内を読んだような言葉だった。
責めるような響きを持った声ではない。
むしろそれさえ受け入れていると言わんばかりの、恐らくは、レイなりの優しさの形だった。
神崎が目尻を吊り上げてレイを睨むと、案の定なぜ睨まれているのか分からないと言わんばかりの表情で首を傾げていた。
*
不意に、夏の夜風が強く窓を叩いて揺らした。風に乗って木の葉が舞う。
窓ガラスの向こうで、神崎がレイのシャツの襟ぐりを掴み、何かを吐き捨てる。
怒鳴るような気迫で、けれど耳の先には僅かに赤みが差していた。
その言葉を耳にしたレイは、双眸を細めて柔らかく微笑んだ。
レイの指先が神崎の頬に触れる直前、何かに気付いたように、神崎の指が分厚いカーテンを掴む。
昼間の陽光から逃れるための分厚いカーテンが勢いよく引かれ、その向こうに二つの人影が隠された。
まだ朝は遠い。
閉ざされた窓の外で、蒸し暑い夏の夜はゆっくりと深まっていった。
お読みいただきありがとうございます。
評価やブックマーク等で応援いただけると、執筆の励みになります!
小説投稿サイト「カクヨム」には追加の番外編もございます。
もし興味があればそちらもお読みいただけると嬉しいです。
改めまして、完結までお付き合いいただきありがとうございました!




