第十三話 吸血鬼の本能
神崎の腕の中で、レイは荒い呼吸を繰り返していた。
自分の身体を支える力さえも抜けている。
神崎もまた、自分の汗が首筋を伝うのに気付いた。
ハンターとして活動する中で、吸血鬼に噛まれた者の末路などいくらでも見てきた。
ただ牙を突き立てて血を飲み、腹を満たすだけでは終わらない。
吸血鬼には、人間を破壊しようとする本能がある。人の血を啜ることによって極度の興奮状態となり、首を、そして身体を裂き、殺す。
そんな天敵ともいえる存在に自ら首を差し出すなど、我ながら正気とは思えなかった。
「レイ」
促すように、初めての名を呼ぶ。
襟を握り締めていたレイの指に力が籠るのが分かった。
飢えた瞳が神崎の首筋へと向く。だが、レイは顔を伏せて強引に視線を逸らした。
「……俺は」
荒く不規則な呼吸に混ざり、掠れた声が聞こえた。
「獣じゃ、ない」
聞き逃してしまいそうなほどの、小さい呟きだった。
神崎の息が喉の奥で詰まった。
かつて神崎の血に対してレイが反応を見せた時、確かにそう言った。
だがレイは、それを啜るような真似はしなかった。今と同じように目を伏せ、顔を背けて、本能に抗っていた。
その姿を卑しい化け物だと嘲笑ったのは、間違いなく自分だった。
今になってその言葉の意味に気付き、表情を歪める。
「獣じゃない。あの時だって、お前がしようと思えば俺の血を奪えたはずだ。だが、しなかっただろ」
腕の中で、黒い髪が力なく横に振られる。
「吸血鬼は血を飲んだ後、人間を殺します」
「そうだ。でもお前は本能に抗い、堪えた」
「……今は、分からない」
「俺が分かってる」
ふと、足元に一つの銃を見付けた。
公園から持ち帰った、持ち主が不明のままの銀色の銃だ。
片手で探ると、まだ銃弾が装填されていた。冷たい銃を握る。
「お前が俺を殺しそうになったら、撃ってでも止める」
その銃口を、負傷していない側の脇腹へ押し当てる。
レイの視線がその場所へ、そして次に神崎の首筋へと向いた。
襟を広げられ、晒された肌がそこにあった。
「だから、やれ」
レイの右腕が襟を離れ、傷のない首筋を撫でた。
自分の命を掴まれたような気分だった。冷たい感覚が背筋を這う。
片腕で支えていたレイの重みが徐々に離れていく。代わりに、首筋にレイの息が掛かった。
恐怖はある。気を抜けば奥歯が鳴りそうだった。
だが、それを隠すように口角を吊り上げ、自ら急所を差し出すように顎を上げる。
「合意があればいいんだろ」
首を噛み、血を啜った相手の合意があったとレイが言い張ったのは、最初に出会った日だったろうか。
甘えるように、レイの鼻先が首筋を擦った。
神崎が短く息を吐いた次の瞬間、その場所に鋭い痛みが走る。
「——ッ!」
反射的に身体が強張った。咄嗟に、銃の引き金に掛けていた人差し指を離す。
汗が噴き出るような感覚があった。
牙を突き立てられた場所から、全身に痺れを伴った熱が広がるようだった。
耳元で血を啜り、飲み下す音が低く響き、緊張で喉の奥が締まる。
捕食される獲物が苦痛から逃れるための反応なのか。思考には霞が掛かり、鋭かった痛みが次第に遠のいていく。
「っ……は……」
熱を逃がすために吐いた息が震えたことに気付き、唇を噛む。
徐々に身体から力が抜けていくが、今度はレイの手が神崎の背を支えた。
先程まで自分の身体一つ起こせない不調を抱えていたとは思えないほど、力強い腕だった。
だが、神崎は最後まで銃を手放すことはしなかった。
力の抜けた腕で、銃口はレイの腹部へと押し付け続ける。
やがて、肌を破った牙が引き抜かれた。首筋を、生温いものが一筋伝う。
レイはそれを舌先で拭うと、浅い呼吸を繰り返したまま動きを止めた。
熱が離れていった場所が、やけに冷たく感じた。
「……終わったのか?」
「ええ」
「満足したか?」
レイは黙り込んだまま、身体を離さなかった。
血に濡れた唇のまま僅かに顔を上げ、神崎を見つめる。
何かを確かめるような間だった。
神崎の背に回っていた腕が、僅かに身体を引き寄せる。
もう一方の手は、神崎の頬を撫でた。
その仕草の理由に気付き、息を詰めた瞬間に唇が触れた。
噛みつかれた時よりも弱く、触れているのかすら曖昧なほど静かな接触だった。
濃い、鉄の匂いがした。
神崎の手には、まだ銀の銃が握られていた。
引き金から指は外れているが、止めようと思えばいつでも止められた。
それでも、神崎は動かなかった。
今度は先程よりも深く、何かを確かめるように。
神崎の背を抱く腕に力が増し、互いの呼吸が混ざる。
血を奪われたためか、まだ身体には力が入りきらない。鋭い牙を掠めた唇に血が滲んだ。
それでも、レイを止めようとは思わなかった。
銃口は、気付かない間に床へと向いていた。
どれほどそうしていたのか。
先に顔を離したレイの呼吸が、神崎の唇へ触れた。
二人の間には、僅かな隙間しかない。
神崎は知らぬ間にレイの肩に乗せていた自分の片手を見下ろし、それから至近距離にある顔を睨んだ。
「……また、女と間違えたのか?」
整わない呼吸を隠して、低く尋ねる。
レイは神崎の顔を見つめた。
間違えるはずがない距離で、目の前にいる相手が誰なのかを確かめるように。
そして最後に深く息を吐き、瞼を伏せた。
「そうかもしれませんね」
いつかと同じ答えが、静かに返った。
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