第十一話 新たな夜
以前住んでいたマンションから、車で約三十分の距離にある安いアパートの一室。
誰にも明かさずに借りている、神崎の隠れ家だった。
以前のように部屋を分けるほど広くもない。
一部屋は狩りに必要な道具で埋まり、物置と化していた。残りの一部屋に二組の寝具を並べ、背中を向けあって眠った。
人目を避けるため、そして間違っても日の光が部屋に差し込まないように、分厚いカーテンは一日中窓を覆っていた。
「さっき外に出ていただろう。何をしていた?」
神崎はいつも通り、銃の手入れを行いながら口を開いた。
レイは窓際に座り壁に背中を預けたまま、何も答えなかった。
ここは、二人の顔を知っているハンター達の管轄外だ。
安全とは言い切れないが、今はレイが外に出ることも禁じられてはいなかった。
もっともレイが単独で外に出たのは、この家を拠点としてからの一週間の内で初めてのことだったが。
「おい」
短く返答を促す。
レイは何かを躊躇うような間の後でゆっくりと立ち上がり、神崎の手元に一枚の写真を置いた。
それは、以前の家でリビングの壁に貼ってあったものだった。
今より少し若い神崎と、笑顔の男が映っている。
神崎の手が止まり、眉間に皺が寄る。
「何だこれは」
「写真です」
「見れば分かる。どうしてお前がこれを持っている」
「…………」
「お前、あの家に戻ったのか」
低く問うと、レイが再び黙り込んだ。
普段どんな形であれ、尋ねれば答えを返してくるレイには珍しい態度だった。
理由は明確だ。神崎が怒ると分かっているからだった。
そして、それは当然現実のものとなった。
「……それがどれだけ危険な行為か、分かっているのか!」
「帰るまで、尾行されてはいません」
「そうじゃない。お前が捕らえられる可能性があった!」
「逃げ切れます」
「保証はない!」
乱暴な音を立てて、銀の銃が床に置かれる。
レイは謝罪も、そして恩着せがましい物言いもしなかった。
それが余計に神崎の苛立ちを煽った。
「……二度とするな」
「はい」
レイは再び窓際に腰を下ろす。
神崎は置かれた写真を手に取った。今まで、何度も繰り返し見返した顔がそこにあった。
だが、これまでその写真を眺めていたどんな時よりも、感情が落ち着かずにいた。
*
神崎はもう吸血鬼狩りを名乗れない。
だが、吸血鬼を狩るという目的まで捨てたわけではなかった。
レイが吸血鬼を見付け、油断させ、神崎の銃が仕留める。
その狩りは新たな街に移っても続いていた。
地面に積もった灰をその場に残し、二人並んで歩き出す。
家に戻るまでの近道となる公園に人の姿はなかった。
時計を見ると、ちょうど午前三時を指し示していた。
「他の吸血鬼を探しますか?」
「今日はこのまま帰る。予備の弾倉を忘れてきた。もう弾の残数も少ないし、朝も近い」
「そうですか」
普段、準備を怠らない神崎にとって珍しい失敗だった。
例の写真の一件で、無自覚に動揺していたのかもしれない。
腰に下げたホルスターに入った銃へと神崎が手を触れるその横で、不意にレイの足が止まる。
振り返った先に、髪の長い女が立っていた。
今、二人が歩いてきたばかりの位置だった。だが気配も、足音も無かった。
警戒を含んで細められたレイの瞳と、女の視線がぶつかる。
「人間と吸血鬼が、どうして一緒にいるのかしら」
からかうような声で女が笑う。
死角からの声に、反射的に振り返った神崎が銀銃を向けるが、その指は引き金に掛かる前に固まった。
「お前——」
神崎の口から、掠れた声が漏れる。
レイが視線を向ける先には、呆然と目を見開いた神崎の姿があった。
「あの時の」
強引に、記憶が引きずり出される。
いつの日だったか、照れ臭そうに笑う相棒が見せてきた画像の中には、その相棒の隣で笑う可憐な女がいた。
そしてその後、相棒は吸血鬼に殺された。
息を引き取る直前に、その相棒は無理に笑ってこう言った。
『女を見る目がなくて、すみません』と。最後まで冗談を口にした。
銃声が夜の公園に響いた。
その弾が届く頃に、女の姿はもうなかった。
再び後ろから声が響く。
「どうして怒っているの?」
銃を構える神崎の手は震えていた。
怒りで呼吸が乱れる。視野が狭くなっているのが、自分でも分かった。
「……お前、佐伯という男を知っているだろう」
油断すれば、声さえ震えだしてしまいそうだった。
「二年前、お前が恋人面をして近付き、殺した男だ。同じような真夜中の公園で、首を噛んだ後、裂いた」
その言葉に、女は澄んだ瞳を何度か瞬かせた。
顎に細い指を添え、首を傾げて何かを思い出そうとするような仕草の後、目を細めて笑った。
「忘れちゃった」
「ふざけるな!」
再び銃声が響く。
女のいた場所に一発。直後、微かな足音がした方へもう一発。
だが、どちらも銀の弾が女の身体を抉るよりも先に、その姿が消えた。
もう一度引き金を引く。
だが、弾が尽きた銃は乾いた音しか立てなかった。
レイが神崎の銃に指を添える。
「無理です。今は退きましょう」
「触るな!」
「弾がないと吸血鬼は殺せません」
「分かっている! だが、このまま退くわけには——」
楽しそうに笑う女に、必死に手を伸ばす。
叶うなら殴り付けてやりたかった。触れられないと分かっていても、女へ飛びかかろうとする身体を止められない。
レイは少し困ったような顔をしながらも、神崎の腕を引いたまま離さなかった。
両手で神崎の肩を掴み、今にも駆け出そうとする身体を押さえようとする。
その背後で、小さな金属音が鳴った。
神崎の視界の端に、街灯を反射する銀色が光った。
「弾が無いの? じゃあ、あげるわ」
そう笑って、女は銃の引き金を引いた。
神崎の暴走に気を取られていたレイが振り返るより早く、銃弾がレイの肩を撃ち抜いた。
本来ならば即座に塞がるはずの傷口から、血が散った。大きく一歩、レイの足が下がる。
「上手く当たらないものね」
「——待て!」
女がそう言うなり、もう一度音が弾ける。
神崎の制止もその音に掻き消され、銀の弾はレイの脇腹を抉った。
「これね、ハンターから奪ったものなの。けど、やっぱりダメね。握ると肌が焼けるわ」
興が削がれたように、女は銃を手放した。
銀に覆われた持ち手を握っていたその手は赤く爛れていたが、女は気に留める素振りもなかった。
「でもいいわ。楽しかったから」
身体を支え切れず、その場に膝をつくレイに気分良さそうに微笑んで、女は背を向けた。
一度の瞬きの間に、靡いた長い髪は闇の中に消えた。
傷を押さえたレイと、その場に立ち尽くす神崎だけが、静かな公園に残された。
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