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第4話 ビューティフルモーニング

 夢とお前を抱けるなら、シングルベッドだって天国だ。そうして、性的欲求を抱けない女と眠れない夜を共にするダブルベッドは地獄である。

 ナイトテーブル上のスマホを、手に取った。人口の光が充血した目に染みる。時刻は5時を回ったところ。

 傍らの、強い寝息に若さを感じる。幾らだって寝れるのだ、葵は。

 もう少し寝かせておいてやりたくて、ロナルドはそっとベッドを降り、寝室を出た。

 春も終わりが近いというのに、廊下は冷えて、身震いした。トイレに直行する。排尿して、追っかけ漏れの恐怖から執拗に倅を振って、それから、リビングへと向かった。

 昨夜のフィデウアとウォッカの残り香が、鼻を撫でた。カーテンが、全開だ。地平線の輪郭をなぞる陽光が、小癪なインテリアに箔をつける。

 シルエットが、あった。逆光の悪戯であるそれは、確かに、ジークンドーのファイティングポーズをとっていた。

 「Youはshock、でおじゃる!」

 言わずもがな、クリスタルキングの愛をとりもどせ!! であった。

 腹式呼吸が完璧で、声はよく通った。流石は平安貴族の麻呂、和歌の技術をJ-POPに落とし込んでいる。不覚にも、ロナルドは聞き入ってしまった。

 お前が旅立つところまで、聞き入った。そうして、ようやく、正気に返る。

 「どういうつもりだ、麻呂?」正気ゆえの発言だった。「朝の5時に、どういうつもりだ?」

 麻呂は、それこそブルース・リー気取りで、左手の人差し指をくいくい、とやった。近付いてこい、というのだ。言葉にジェスチャーを返す、正しく異文化交流であった。

 正気ではあっても、寝起きである。脳が正常を欠いて、ロナルドは促されるまま麻呂に近付いた。

 そうして、麻呂の間合い。

 「ほわっちゃぁ、でおじゃる!」

 ほわっちゃぁや否や、ロナルドの胸に指を突く。ケンシロウの胸で例えるならば、オス乳の谷間の真下に位置する箇所。そこを突いたのだ。

 大した威力の突きではなかった。しかし、寝起きの体にはこたえた。ロナルドは片膝を着いた。

 「なんで突いた、麻呂?」至極真っ当を、問う。「なんの冗談だ、麻呂?」

 「天権てんけんでおじゃる」至極真っ当な問いなど聞いちゃいない麻呂であった。「不吉な・・・・・・」

 「答えてくれ!」立ち上がり、華奢な肩を掴む。「なんで、突いた!?」

 「占いでおじゃろうが」ロナルドの手を払いのけながら、言った。「北斗七星を用いた陰陽道でおじゃろうが」

 「北斗の拳じゃねぇか!」払いのけられても挫けず、再び肩を掴む。「経絡秘孔を突くみたいな、そんな占いがあるかよ!」

 「天権を突いた」再び、手を払いのける。「今日はもう厄ってる・・・・・・・・・」

 「死んでる、みたいに言うなよ!」三度払いのけられるのを嫌って、手は己の腿を掴んだ。「厄ってるって、大凶みたいな!?」

 「正しく、大凶でおじゃる。こんな日は外出せずに家でぬくぬく過ごすのが賢明でおじゃる」

 雲一つない、一日中で降水確率0パーセントが約束された朝にあって、生粋のインドアもびっくりな決断であった。

 「そいつは困るぜ、麻呂。お前は今日、金閣寺高校でサッカーをやるんだ。ウイレレじゃねぇ、リアルサッカーだ。外に出なくちゃ始まらん」

 「あり得ねぇでおじゃる」アジア初体験のヨーロッパ人みたいに、麻呂は首を横に振った。「厄ってる日に外出するほどイカれてねぇでおじゃる」

 「インチキだろ、占いなんか。そんなものに行動を左右されるなよ」

 禁句であった。女性以上に占いを尊ぶ平安貴族に対して、これは禁句であった。

 烈火の如く赤味を得て、麻呂の地肌は純白を失った。

 「くのぅロナルド、インチキとヌカすか! 大陸より伝わりし暗殺拳をルーツとする陰陽道、この文化と科学の結晶を、万物流転を見通す真理を、インチキとヌカすか! 平安貴族の計は占いにあり! 貴様は全ての平安貴族の核を侮辱した! 許さんぞぉ、でおじゃる!」

 許さんぞぉや否や、ロナルドの経絡秘孔目掛けて突きを放つ。ガチで、命を奪いにいっている突きだ・・・・・・ガチではあるが、大したスピードの突きではなかった。ロナルドは易々と突きを避けた。

 そうして繰り出された百発の突き、文字通りの百裂拳は、全て、空を切った。

 肩で息をして、滝のような汗すら拭えぬまま、麻呂は四つん這いになった。

 「絶対、サッカー、してやらねぇでおじゃる。絶対、外出、してやらねぇでおじゃる」

 既に占いは関係なかった。ロナルドへの憎しみだけを糧に、麻呂は断固たる決意に至った。

 「そういう訳にはいかない」路上に放置された犬の糞を見下ろす目で、ロナルドは言った。「お前にはサッカーをしてもらう」

 「絶対にしてやらねぇでおじゃる!」純度100パーセントの反抗心で、見上げた目は炎のように揺らめいた。「納税を拒否する熱量で、してやらねぇでおじゃる!」

 「収入のない俺が納税について言及することはない、好きにしろ。だが、サッカーだけは絶対にしてもらう」ロナルドはスマホを手に取った。「サッカーをしないのであれば、通報だ。昨夜の、葵に対する覗きと強姦未遂の件で、通報だ」

 腐っても元カンテラーノである。既にイエローカードを1枚もらっている人間の心理は熟知している。2枚目のイエローカードを、実質のレッドカードを、ちらつかせてやればいい。それだけで、崖っぷちの人間は支配できるのだ。これは人間社会という名のピッチにおいても有効なテクニックである。

 サッカーやらせてくれでおじゃる! と泣きついてくることを想定していた。その際の二の句も既に喉仏で待機している。しかし、待ちぼうけ。一向に、麻呂は泣きついてこない。

 麻呂は、いつの間にやら顔を伏せていた。表情すら読めず、ロナルドは焦りを抱いた。

 「分かっているのか、麻呂?」冷や汗を拭うことすら忘れて、言った。「拘禁刑は免れないんだぞ、麻呂?」

 「おーじゃおじゃおじゃ!」

 笑って、麻呂は顔を上げた。

 邪悪を絵に描いたようなその顔が、ロナルドの悲鳴を引き出した。

 「動画は撮ったのか、でおじゃる。麻呂の垣間見を、夜這いを、データにしたためたのか、でおじゃる」蛇の這う音に似た声だった。「証拠がなくては、麻呂を罰することはできないでおじゃる」

 『この野郎、一晩で知恵をつけやがった!』

 男子三日会わざれば刮目して見よ、とは三国志演義に記された真理である。その真理を進化させた男がいた。麻呂だ。正しく、男子一晩会わざれば刮目して見よ、であった。

 ラ・リーガレベルの回復力で、既に呼吸は整っていた。麻呂は、立ち上がった。

 30センチメートルほどの身長差がある。現実描写においては、麻呂がロナルドを見上げる形だ。しかし心理描写においては、麻呂がロナルドを見下ろしていた。

 「気が付いたのでおじゃるが、ロナルドよ。お主、昨晩から麻呂に対してタメ口でおじゃるな」今にも土下座を要求しそうな面構えで、言う。「どういうことでおじゃる?」

 「申し訳ございませんでした、麻呂様!」要求される前から、土下座するロナルドだった。「タメ口は誤りでございました! どうか、どうか、寛大なお心で私の無礼をお許しください! そうして、どうか、どうか、サッカーをプレイしてください!」

 大好きだった。這いつくばる人間を見下ろすのが、大好きだった。歪んでいる、これ以上ないってくらいに歪んでいる。しかし、その歪みは麻呂の性根を表しているわけではない。この歪みを理解するためには、平安貴族が現代人と同等のストレスにさらされる悲しい生き物だということを理解するところから始めなくてはならない。平安貴族は、ほぼ毎日、夜明け前に太鼓の音で叩き起こされている。平安貴族は、ほぼ週5で、牛車に揺られての出勤を強いられている。平安貴族は、ほぼ強制で、上級の座を奪いあう競争社会に放り込まれている。平安貴族は、プライベートな遊戯でさえ、過酷な競争だ、ランクマみたいに。平安貴族は、狭い世界に生きていて、それはゴシップに支配された文字通りのスモールワールド、SNSに等しい。これでは、歪んでしまう。これでは歪んでしまう。無茶だ、歪まないのは。情状酌量の余地があるからといって、罪がなくなることはない。しかし、情状酌量の余地があるという事実もなくなることはない。悲しい生き物・・・・・・炎上する人間の様を愉快と感じる現代人、這いつくばるロナルドの様を愉快と感じる麻呂。彼らの歪みを正す術は、ベーシックインカムの導入とゴシップ廃止しかあるまい。思想強め、って? 思想じゃねぇ! これは、ハートだ!

 兎にも角にも、救いようがないほど歪んだ麻呂である。土下座したロナルドの背中に、どっしりと腰を下ろす救いようがないムーブ。こいつ、性根から腐っているぞ!

 軽量な麻呂を背中に乗せたって、大した負荷ではない。だがしかし、屈辱という名の負荷は、果てしなく大きかった。ロナルドは、プルプルと震えた。

 「モノマネをしてみろでおじゃる、ロナルド」背中に座りながら、言う。「坂上田村麻呂のモノマネをしてみろでおじゃる。それで麻呂を笑わすことができたならば、サッカー、やってやるでおじゃるよ」

 常軌を逸した無茶ぶりに、ロナルドのプルプルの性質が変わった。

 「坂上田村麻呂のモノマネ、とおっしゃいますと?」

 「無知は罪でおじゃるぞ、ロナルド」そう言って、ロナルドの尻を叩いた。「征夷大将軍であり源マドリードのゴールキーパーでもある、教科書に載るレベルのレジェンドでおじゃろうが」

 野郎に尻を叩かれて喜ぶ趣味はない。故に、殺意が湧いた。湧いたけれど、体たらくを脱する頼みの綱である麻呂を殺すわけにはいかない。

 ロナルドは、出血するほど強く食いしばった。

 「坂上田村麻呂のモノマネとは、どうやればよろしいのでしょうか」表情筋を痙攣させながら、言う。「無知な私めにご教授くださいませ」

 「阿弖流為あてるい半端ないって、でおじゃる」また、尻を叩いた。「ほれ、早くやれでおじゃる」

 「阿弖流為半端ないって」怒りを噛み殺し、ロナルドは明るい声を絞り出した。「やりました、麻呂様」

 「全然似てねぇでおじゃろうが!」激怒して、尻を叩く。「そんな陽キャみたいな言い方しねぇでおじゃる、坂上田村麻呂は! スタローンを演じるささきいさおみたいな哀愁を秘めた言い方でおじゃろうが、坂上田村麻呂は!」

 それなら大丈夫だ、とロナルドは思った。来日してからというもの、午後のロードショーを欠かさずに見てきたからだ。既にささきいさおさんの声は親の声より聞いた、その事実が、ロナルドの強張った声帯を解した。

 「阿弖流為半端ないって」

 完全に、坂上田村麻呂のモノマネではなく、スタローンを演じるささきいさおさんのモノマネだった。その完成度は、素晴らしかった。

 「おーじゃおじゃおじゃ!」麻呂が、笑った。「そっくりでおじゃる! そのまんま坂上田村麻呂でおじゃる!」

 「それじゃあ、麻呂!」希望の光が差して、自ずと顔が上がる。「サッカー、やってくれますね!」

 麻呂は、立ち上がり、ロナルドに手を差し出した。

 差し出された手を取って、ロナルドも立ち上がった。

 優しい顔を捉えて、ロナルドが胸を撫で下ろした、刹那に、まるで変面、麻呂の顔は邪悪に染まった。

 「サッカーなんかやるわけねぇでおじゃる!」邪悪の権化だった。「お前のような薄汚い庶民のために骨を折ったりしねぇでおじゃる!」

 「嘘つきぃ!」

 まだ手を放していかなかった。だからロナルドは、リンゴジュースを作る加減の握力で、麻呂の手を潰しにかかった。

 「痛いでおじゃる!」秒で、涙目になった。「骨が折れるでおじゃる、手の!」

 「嘘つきぃ!」

 「暴行でおじゃるぞ、ロナルド! 公家から公家への暴行は日常茶飯事なれど、庶民から公家への暴行など前代未聞! 弾正台だんじょうだい! 弾正台! この狼藉者をたたっ切るでおじゃる! 裁判はいらん、麻呂が許す!」

 「嘘つきぃ!」

 サッカー畑の人間ながら、ロナルドが発揮した握力は400キログラムを超えていた。このうち360キログラムは怒りによるブーストだ。一方の、麻呂。足りないカルシウムはサプリメントで補えばいいじゃん、なんて概念すら存在しない時代の人間。それじゃあ骨をへし折られるのは必定、かと思いきや、折れない。ゴリラ並みの握力をもろに受けながら折れる気配すら見せない、その理由は、低身長男子の悲しいサガにあった。平安時代には、牛乳を加工した、、という乳製品が食された。これを、麻呂は一心不乱に摂取してきたのだ。その量、一日当たり牛乳4リットル分。令和の男子中学生より摂取し過ぎ。それ程までに、麻呂は身長を伸ばしたかった。しかし、悲しいかな、身長は伸びず、唯々、骨だけが強くなった・・・・・・。

 諦めない限り夢は終わらない、それと同じ現象が、夜明けの京都で展開する。骨が折れない限り握力は終わらない・・・・・・激痛に悶える麻呂の絶叫は、絶え間なく続いた。

 安アパートとは訳が違う、それなりのマンションだ、防音という概念がある。しかし、防音にも限界がある。ハイボリュームの絶叫は、最悪の目覚ましとなって、葵の眠りを奪った。

 スリッパをはくのも忘れる寝ぼけた頭で、廊下に出て、祭囃子に誘われる幼子みたいな不用心で、リビングに入って、目に飛び込んできた麻呂の痛がりフェイスに、すぐさま、覚醒した。

 「何をやっているの!?」駆け寄って、葵はロナルドの肩に触れた。「ロナルド! 麻呂の痛がり方、尋常じゃない!」

 「こいつが嘘をついたのが悪いんだ!」興奮した5歳児みたいな声で、ロナルドは言った。「サッカーやるっていったのに!」

 「サッカーなんかやらねぇでおじゃる!」涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔、丸っ切り5歳児の顔で、麻呂は意地を通した。「お前の頼みなんか聞かねぇでおじゃる!」

 保育士ではない、高校教師である。子育て経験もない、高校教師である。しかし、葵は、5歳児相当の大人二人から逃げなかった。

 『高校生なんて5歳児に毛が生えたようなもの! 故に、5歳児の扱いには慣れているわ!』

 深呼吸をする。そうして整えた冷静を、手放さないよう心掛けながら、葵は口を動かした。

 「痛いことは、やめよう、ロナルド。私、あなたの話を聞くから」

 「こいつがッ、謝るまで、握力をやめないッ!」

 「上等だこの野郎! 死んだって謝らねぇでおじゃる!」

 「やめなさいって言ってるの!」

 あっという間に、冷静を手放した。葵は、キッチンへ駆けて行き、肉切り包丁を手に取って、リビングに戻った。

 「手を放さないと、手首から切り落とすわよ、ロナルド!」

 フーリガンなんかの脅し文句とは訳が違う、ガチのやつだと、理解できた。ロナルドは、光の速さで、麻呂の手を放した。

 潮が引くように、激情が去った。「私ったら、どうして肉切り包丁なんて握っているのかしら!?」とガチで言って、葵はキッチンへ行き、柄が歪むほど強く握ったそれを包丁立てに刺した。

 「悪いことは言わないでおじゃる。別れたほうがいい」リビングに戻ってきた葵に向かって、麻呂は言った。「ロナルドの野郎、キレると何をしでかすか分からねぇでおじゃるよ。DVの天才でおじゃる。酷い目に合う前に、別れたほうがいい」

 「お前、さっきの肉切り包丁のくだり、認知していないのかよ」肉まんを注文したらミートパイが出てきた、そんな時にする顔で、ロナルドは言った。「俺だろ、心配されるべきは」

 「取り乱してごめんなさい、ロナルド」

 別れる気なんてさらさらない女には、外野の声なんて聞こえない。乱れた夜の明け方みたいな恭しさで、葵はロナルドの手を握った。

 麻呂は、舌打ちをした。

 「何があったのか、ちゃんと聞かせて」一向に握り返してくれない手を、放して、言う。「どうして、麻呂に酷いことをしたの?」

 「サッカーをやると約束した」吐き捨てるようなロナルドの口調だった。「それをこのクズが反故にした」

 「クズとは麻呂のことか、でおじゃる!? ぶち殺すぞ、この野郎!」

 「麻呂、興奮しないで」

 「はい、でおじゃる」躾けられた犬も同然で、麻呂は葵の言葉に従った。「興奮しないでおじゃる」

 「サッカーをやるって、約束したのは本当なの?」

 「本当でおじゃる」びっくりするくらい、素直。「トゥルーでおじゃる」

 「それなら、サッカー、やりなさい。約束は守らなくちゃ」

 「サッカーやるでおじゃる」びっくりするくらい、素直。「プロミスでおじゃる」

 傲慢なモンスターが、幼稚園児よりも、素直。その不自然に刺激され、アルコールに破壊されつつあったロナルドの脳が、活性した。

 『昨晩の事といい、麻呂の野郎、マジで葵に惚れているのか?』

 サッカー選手の滑り止めは科学者、という進路を定めたのは8歳のころ。そんな科学少年のメンタリティが、中年になっても残っているアンビリーバブル。科学とは1パーセントのサッカーと99パーセントの実験、その真理を地で行くため、ロナルドは麻呂に対して実験を施す腹を決めた。

 「坂上田村麻呂のモノマネをしてくださいよ、麻呂様」

 ヤバいフレーズだった。マッチョなアメリカ人に共産主義を説くが如きヤバさ。

 麻呂の顔面が、憤怒で歪んだ。

 「誰に、何を、しろって、ロナルドぉ?」

 「坂上田村麻呂のモノマネをしてくださいよ、麻呂様」

 「てめぇ、スターリンに会いてぇのか、でおじゃる!」

 予測通りの反応だった。だからロナルドは、度を超した恫喝に全く動じず、無痛コンテンツに浸っているかのような所作で、葵の耳に口を寄せ、ささやけた。

 「坂上田村麻呂のモノマネをしろ、って麻呂に言ってくれ」

 耳が、性感帯だった。くすぐったさで、葵は身をよじった。甘美は、それだけではない。要求されずとも、夫の財布に万札を忍ばせる女なのだ。根っからの尽くすタイプ、そんな葵が、求められた。求めてもらった、愛するロナルドに。これは、喜び以外の何ものでもなかった。

 「坂上田村麻呂のモノマネをしろ、麻呂」ロナルドに応じたい、その一心で、葵は言った。「坂上田村麻呂のモノマネをしろ」

 「阿弖流為半端ないって」葵に応じたい、その一心で、麻呂はやった。「阿弖流為半端ないって」

 葵は、真っ当な若い女である。故に、知らない。ささきいさおさんはおろかスタローンさえ、知らない。麻呂の坂上田村麻呂のモノマネ、すなわちスタローンを演じるささきいさおさんのモノマネは、ロナルドほどの完成度ではないが、及第点の出来ではあった。午後のロードショーを嗜む紳士淑女が相手であれば、十分に笑いを取れる程度のクオリティはあった。しかし、そんな芸も、真っ当な若い女にとってみれば、酒焼けしたおじ様の声以外の何ものでもない。

 ブリティッシュジョークに対するフランス人のリアクション、それがそのまま、葵のリアクションだった。そんなリアクションを受けたならば、すべり芸を生業とするコメディアンでさえイップス不可避、お笑い生命に関わる案件だ。ましてや麻呂は十八番の烏帽子カットネタでウケを欲しいままにしてきたお笑いエリート、すべる免疫がない。故に、自らの死を願う。阿弖流為の代わりに麻呂の首を切ってくれでおじゃる! と切に願う。それくらい、追い詰められた。

 今にもセルフ斬首を始めてしまいそうな麻呂、そんな哀れな男に、葵は微塵も注意を払わなかった。葵は、ロナルドだけを見ていた。

 ロナルドは、腕を組み、サイエンティスト然とした目で、麻呂を注視していた。

 坂上田村麻呂のモノマネが足りないのかもしれない、そんなマッドな思考が、葵の女脳を支配した。愛する男に喜んでもらいたい、唯それだけで、女は果てしなく残酷になれる。

 「坂上田村麻呂のモノマネをしろ、麻呂。坂上田村麻呂のモノマネをしろ」

 死体蹴りの域を超える所業であった。無感情ではない、むしろ感情的で、しかし無情という、女。葵は、正しく女であった。

 飛鳥時代には既に仏教があった。それすなわち、平安時代にはある程度の道徳が存在したことを意味する。だからこそ麻呂は、驚愕した。道徳を遺伝子レベルに刻み込んだ人間として、驚愕した。

 『ここまで虐げられる事があるのか、でおじゃる?』

 マゾにだってキャパシティはある。冷え切った今の空気で、もう一度同じネタをやることは、キャパシティオーバーである。出来るわけがない、出来るわけがないのだが、そこは惚れた弱み、恋慕の奴隷・・・・・・それじゃあ、やるしかないじゃん!

 「野郎、俺にキスしてぇのか?」坂上田村麻呂のモノマネ、すなわちスタローンを演じるささきいさおさんのモノマネであった。「野郎、俺にキスしてぇのか」

 ゾンビアタックの域を超える所業であった。感情的ではない、むしろ無感情で、しかし情も毛も深いという、男。麻呂は、正しく男であった。

 100パーセントを超えた勇気、とうにやりきってる。忍たま乱太郎もびっくり。しかし、それでさえ、100パーセントすべるという、レ・ミゼラブル。

 「阿弖流為の代わりに麻呂の首を切ってくれでおじゃる!」願いが、言霊になっていた。「死にたいっ!!!!」

 全力で死にたがっている麻呂、そんな哀れな男に、葵は微塵も注意を払わなかった。葵は、ロナルドだけを見ていた。

 ロナルドは、腕を組み、サイエンティスト然とした目で、麻呂を注視していた。

 坂上田村麻呂のモノマネが足りないのかもしれない、そんなマッドな思考が、葵の女脳を支配した。損切りをするくらいなら地獄に落ちたほうがマシ、そんな愛を有するが故のサガで、女は果てしなく壊れる。

 「坂上田村麻呂のモノマネをしろ、麻呂。坂上田村麻呂のモノマネをしろ」

 麻呂は、発狂寸前までいった。陰湿極まりない平安京で鍛え抜かれた麻呂の鋼のメンタルが、発狂寸前までいった。それ程までに苛烈な、強いられる無限すべり地獄。救いはないのですか? 救いはない。それがリアル。しかし、そのリアルに挑むのが、人間だ。

 愛されるよりも愛したいマジで・・・・・・真理である。人を愛せる、幸せ。発狂寸前まで追い詰められながらも、麻呂は、幸せだった。

 『めっちゃ好っきゃねん、葵殿、でおじゃる』

 そういうことだ。愛とは、そういうことだ。究極の無茶振りすら愛おしくてたまらない、それが愛じゃん。

 胃の中のブツどころか胃そのものを吐き出してしまいそうなほどの吐き気を催している。それでも、麻呂は全身全霊を込め、己のテクニックのみを吐き出すのだった。

 「イカれ野郎にイカれデカだ」坂上田村麻呂のモノマネ、すなわちスタローンを演じるささきいさおさんのモノマネであった。「イカれ野郎にイカれデカだ!」

 案の定、すべって、麻呂は、デカいウォーターサーバーをボクシングのコーナーに見立て、ジョーよりも真っ白になった。

 灰になった麻呂、そんなイカした男に、葵は微塵も注意を払わなかった。葵は、ロナルドだけを見ていた。

 『実証された!』サイエンティスト然とした脳内で、ロナルドは叫んだ。『麻呂の野郎は葵に惚れている! 葵の命令であれば麻呂は何でもする! そうして、葵は俺の命令であれば何でもする! つまり、葵を介して、俺は麻呂を完全にコントロールできるのだ!』

 ロナルドの満足を感じ取って、葵の女脳は快感に支配された。ドーパミンの大放出である。必然、もっと欲しくなる。快感のキャパシティが大きい女だからこそ、際限なく欲しくなる、ドーパミンが。女と書いて貪欲と読む、これは言い得て妙である。

 「坂上田村麻呂のモノマネをしろ、麻呂。坂上田村麻呂のモノマネをしろ」

 命じられて、麻呂は、応えようとした。しかし、口からは残り火が爆ぜるような音しか出ない。やむを得ない、やむを得ないではないか。灰になっているのだから、やむを得ないではないか。

 「坂上田村麻呂のモノマネをしろ、麻呂。坂上田村麻呂のモノマネをしろ」

 麻呂は、うっすらと、笑った。これで丸っ切り、ジョー。

 マッドサイエンティストと化していたロナルドも、さすがに危機感を覚えた。麻呂の状態半端ないって・・・・・・それは正しく、良心だった。

 「坂上田村麻呂のモノマネをしろ、麻呂。坂上田村麻呂の・・・・・・」

 「葵、十分だ」ワイフの非情を遮る、ハズバンド然とした声。「これ以上は、人道に反する」

 果てる男の情けなさよ、男に生まれたからには女が眠るまでイクな、女が寝てから自らイケ、セックスとオナニーは同じさ、byロック・ハート・ハンスケカミナンデス(1899年~1999年)。そんなレジェンドジャズプレイヤーの金言を、男とベッドを共にしたことのある女なら、遺伝子レベルで理解している。そうして、それが口先だけだけということを、体験で理解している。追加の快感は得られないのがデフォルト、だから葵はすんなりと、ロナルドの説く人道に従った。

 こうして、お笑いジェノサイドは幕を閉じた。

 そうして、何事もなかったかのように続く、日常。朝食の用意を始めちゃうのだ、ロナルドも葵も。灰になったはずの麻呂も、いつの間にかアメコミみたいな濃い色を取り戻している。これを軽薄などと蔑んではいけない。これは逞しさである。この逞しさによって、人類は700万年以上も生存してこれたのだ、良くも悪くも。

 トースターが、チン、と小気味よい音を奏でた。黄金色に染まったクラムの香ばしさがグレートプレーンズの広大な懐をイマジンさせる。ジャパンの、朝であった。

 トーストの他には、コーンスープとシェフサラダが食卓を彩る。ジャパンの、朝であった。

 三人分の食事が用意されて、それが当たり前だと言わんばかりに、麻呂は波平ポジションで胡坐をかいた。それに不快を抱かない器が、ロナルドと葵にはあった。

 「いただきます」

 言いながら、葵は手を合わせた。ジャパニーズの美徳が、その所作にはあった。

 「いただきます、とは何でおじゃるか?」麻呂が、問うた。「なぜ、食べ物に向かって手を合わせるのでおじゃる?」

 「感謝だよ」葵が、答えた。「食べ物にありがとう、って。食べられる幸せにありがとう、って」

 「それは良きかな、良きかな」麻呂が、手を合わせた。「蛮族にも素晴らしい文化があるのでおじゃるな。素晴らしい文化は吸収し、いずれ昇華するでおじゃる。漢字をひらがなへと昇華したように・・・・・・いただきますでおじゃる」

 いただきますでおじゃる、とは言ってみたものの、何をどの様にいただきますすれば良いのか分からない。それは、丸っ切りアメリカスタイルの朝食を眼前にした平安貴族の必然だった。

 「これは、何でおじゃる?」コーンスープを指差して、問う。「先住民の知恵でおじゃるか?」

 「コーンスープだよ」嫌な顔一つせず答えてやる葵、マジ天使。「平安時代で言うところの、あつものだよ」

 麻呂は大きく頷いた。

 「これは、何でおじゃる?」シェフサラダを指差して、問う。「ニューヨークの気まぐれでおじゃるか?」

 「シェフサラダだよ」嫌な顔一つせず答えてやる葵、マジ天使。「平安時代で言うところの、なますだよ」

 麻呂は大きく頷いた。

 「これは、何でおじゃる?」トーストを指差して、問う。「大英帝国の負の遺産でおじゃるか?」

 「トースト、パンだよ」嫌な顔一つせず答えてやる葵、マジ天使。「平安時代で言うところの、唐菓子からくだものだよ」

 麻呂は大きく頷いた。

 「了解したでおじゃる。して、米はどこでおじゃる? 主食がなければ副食の魅力も半減でおじゃる」

 「主食は、トーストだよ」

 葵が優しく言って、麻呂の顔は、怒りで歪んだ。

 「麻呂の鼻は誤魔化せねぇでおじゃるぞ!」ローテーブルでちゃぶ台返しをしちゃいそうな勢いだった。「米粉じゃねぇ、小麦粉でおじゃろうが、このトースト!」

 「麻呂、もしかして、小麦アレルギー?」怖がってもいい場面なのに心配してあげちゃう葵、マジ天使。「それなら、トーストを下げるわ」

 「トーストは下げなくて良いでおじゃる! 小麦アレルギーではないでおじゃるから! 米を出してくれと、それだけでおじゃる、麻呂の願いは!」

 「ごめんなさい、麻呂」怒ってもいい場面なのに謝ってあげちゃう葵、マジ天使。「お米、値段が下がってきているけれど、それでもまだまだパンのほうが安いから」

 「嘘をついてはいけないでおじゃる! 小麦より米のほうが高いなんてあり得ない話でおじゃる!」

 「それは昔の話。令和だよ、今」

 「なんでやねん、でおじゃる! 円安なのに、なんでやねん!」

 「長年の民主主義の結果だ」ロナルドが口を挟んだ。「どうしようもねぇ」

 「どうしようもねぇ、で済むかでおじゃる、この野郎! 天照大御神より託されし高天原の稲、正しくジャパンの魂であるところの米がジャパニーズの口に届かぬ非常事態! ミサイルを撃ち込まれるよりヤバい国家存続の危機でおじゃろうが、これは! 連れてこいでおじゃる、麻呂の前に連れてこいでおじゃる、この事態を招いたボケナスを! 麻呂直々に罰ゲームのタイキックを食らわせてやるでおじゃる!」

 「億単位のタイキックを放つ必要があるぜ」ロナルドは冷笑を浮かべた。「なにせ長年の民主主義の結果だ」

 「それなら民主主義そのものにタイキックを食らわせてやるでおじゃる!」

 平安貴族が提唱するデモクラシークライシスであった。思想強め、って? 表現の自由はないのですか!? 思想強め、って? 表現の自由はないのですか!? 思想強め、って? 表現の自由はないのですか!? 思想強め、って? ループだようゥッッ。

 米がなければパンを食べればいいじゃない・・・・・・悲しいかな、真理である。生存が至上命題の動物にとって、真理である。しかし、麻呂は人間だ。絶対に譲れない拘りが、そこにはある・・・・・・人間ゆえの、これもまた真理であった。

 「米がなければ食事を拒否するでおじゃる!」麻呂は腕を強く組んだ。「これが真のジャパニーズムーブでおじゃる!」

 「数時間後にはサッカーの試合があるんだ」パンをかじりながら、ロナルドは言った。「食え、麻呂」

 「西側の食い物に侵されるくらいなら、餓死したほうがマシでおじゃる!」断固たる決意。「ていうか、ロナルド、てめぇ! いつの間にか、またタメ口になってるでおじゃるぞ、この無礼者!」

 パンを、飲み込む。そうして、ロナルドは葵の首筋に口を寄せ、ささやいた。

 「食え、って麻呂に言ってくれ」

 首筋も、性感帯だった。くすぐったさで、葵は身をよじった。

 「食え、麻呂」操り人形同然の葵であった。「食え」

 「食うでおじゃる」操り人形同然の麻呂であった。「食う」

 そうして、平安貴族、パンを食う。

 唐菓子を食した経験のある麻呂である。故に、小麦を用いた食べ物は児戯の味覚であると認識している。侮り・・・・・・それは油断に等しく、クラムに打ち込んだ最初の歯牙は余りに不用意で、すぐさま、麻呂の歯根膜は未知の食感に侵された。

 『なにこれ、でおじゃる!? フワフワで、けれどサクサクで、こんなの初めて!』

 説明しよう! 平安時代と令和では調理技術に雲泥の差があるのだ! その差は約1200年分! 果てしない人類の進歩を、麻呂は今、口内で受け止めているのだ!

 『俺様系なのに利他的、みたいな、ケダモノなのに知性的、みたいな、矛盾! フワフワだからサクサクなのでおじゃるか!? サクサクだからフワフワなのでおじゃるか!? 鶏と卵の関係よりミステリーでおじゃる! 初めてこんなの!』

 ファーストキスより過激な、ファーストイート。ファーストキスでは、十中八九、舌は入ってこない。しかし、ファーストイートなら容赦なく第二撃があるぞ。すなわち、味が襲ってくるのだ。

 

 グレートプレーンズは今日も乾いていた。ロッキー山脈から下りてくる風さえヒリヒリする。日雇いのジョンは、垂れた穂をそっと撫で、マールボロをふかした。

 「ジョン!」

 裸足で駆けてくる女を、ジョンは見やった。彼女、キャサリンは、凶器みたいなヒールを手に持っていた。

 「フォードのキー、あなたが持っているんでしょう!」

 言われて、ジョンはマールボロを放り投げ、もじもじした。

 「どうなの!?」

 「ええ、ええ、お嬢さん。お嬢さんの車の鍵は、ええ、私がミスタージョンソンから直接、預かっております」

 「渡して!」ヒールを履きながら、キャサリンは言った。「ボブとデートなの!」

 「ええ、渡してあげたいのは山々なのですが、けれど、ええ、渡したことがミスタージョンソンにバレたら、私はもう二度と、この農場で働けなくなってしまいます」

 「移民にでも盗まれたことにすればいい!」

 ジョンは、自身の小麦色の肌を恭しくさすった。

 ヒールを履くと、キャサリンはジョンより頭の位置が高かった。

 「渡して、ジョン。一生のお願い」

 この青い瞳に弱いんだ、とジョンは思った。カンクンの沖より濃い青・・・・・・。

 ジョンは、震える手で、キーを差し出した。

 「ありがと」

 キーを取り、ジョンの頬にキスをして、キャサリンは去っていった。

 ジョンは、先ほど放り投げたマールボロを拾い、それを加えて、垂れた穂をそっと撫でた。


 「そういう味、でおじゃる!」パンを咀嚼しながら、麻呂は叫んだ。「そういう、ジョンの淡い恋心の味!」

 「ジャムを塗るともっと美味しいよ」葵が言った。「ストロベリーとか、ブルーベリーとか、コンコードグレープとか、ピーナッツとか」

 四種器ししゅのものに慣れた平安貴族、麻呂である。好みで味付けするテクニックは上級者レベルだ。

 麻呂は、スムーズな所作で、ピーナッツジャムをトーストに塗った。そうして、それを食らい、意識は再びアメリカへと飛ぶのであった。

 そんなこんなで、食事を終えた。麻呂は、完食であった。

 「まあまあの味覚でおじゃったな」麻呂は、完食であった。「UKのせいで誤解しておったでおじゃるが、西側にも人間の食い物があったのでおじゃるな」

 一足先に食事を終え、リビングから出ていたロナルドが、昼も夜も着続けていた臭いジャージから良いにおいのするスーツへと着替え、リビングに戻ってきた。カビみたいだった無精ひげも綺麗に剃っている。うざったい長髪も、オールバックで固め、広い額を堂々と見せつけている。ロナルド、どこからどう見てもスペイン紳士だ。

 葵は、うっとりと、ロナルドを見詰めた。

 徐に、ロナルドがレコードをかけた。ルイサ・フェルナンダ・・・・・・オペラだ。ロナルド、正しくスペイン紳士だ。

 葵は、うっとりと、ロナルドを見詰めた。

 土曜日であった。ゆったりとした時間が、流れた。

 「ヤバい!」食後のポレオ・メンタと洒落込んでいた葵が、スマホを手に、叫んだ。「ゆったりし過ぎた! もう7時! 8時から練習開始なのに!」

 ぬるくなったポレオ・メンタを一気に飲み干し、葵はほとんど駆けるようにしてリビングを出ていった。

 「麻呂。じきに出発だ」レコードを止めて、ロナルドは言った。「準備はいいか?」

 「ビンビンでおじゃる」爪楊枝で歯の汚れを落としながら、麻呂は言った。「葵殿とプロミスしたでおじゃるからな。両足が折れてたって、サッカー、してやるでおじゃるよ」

 「お待たせ!」ジャージ姿でリビングに飛び込んできた葵が、言った。「二人の用意が済んでるなら、出発しよう!」

 「ちょっと、ちょっとちょっと!」平成時代に一世を風靡したギャグを、平安貴族が繰り出した。「葵殿、速すぎぃ! 3分で外出の用意を済ませる女子とか、見たことも聞いたこともないでおじゃる!」

 正確に記すと、葵は2分44秒で外出の用意を済ませていた。

 「時間ないんだもん!」葵は足踏みしながら言った。「土曜日は平日よりも渋滞することがあるし、急がないと!」

 「まあ、化粧は完璧でおじゃるから、良しとするでおじゃるか」葵の顔をまじまじと見ながら、麻呂は言った。「完璧なフェイスが保たれているわけでおじゃるからして」

 「化粧、してないよ」葵は、あっけらかんと言った。「昨日からずっと、すっぴんだよ」

 インフルエンサーの、すっぴんだよ、は大抵嘘だ。しかし、葵はインフルエンサーではない。

 「葵殿、許されるのであれば・・・・・・」恐縮を露わにして、麻呂は言った。「顔を、触らせてほしいでおじゃる」

 「時間ないよ!」

 「5秒で済ますから!」

 情の深い女ほど、ヒモが放つ類のワードに弱い。疲れ果てたキャリアウーマンが股を開くように、葵はそっと目を閉じた。

 「葵殿、ごめん!」

 断って、麻呂は両手で葵の顔に触れた。

 性を微塵も感じさせない、カリスマ美容師が髪を扱うかのような手付きだった。正しく、ピュアリティタッチ。タッチ、タッチ、顔にタッチ、穢れない、タッチ。

 額から顎まで、左頬から右頬まで、満遍なく触る・・・・・・そうして、5秒が経過した。麻呂は、葵の顔から手を離し、腰を抜かした。

 「すっぴんでおじゃる!」事実だった。「葵殿、すっぴんでおじゃる!」

 加工は、最強の加工民族レイワ人の専売特許ではない。宮都民族ヘイアン人だって、加工まみれだったのだ。童貞ではない麻呂には、体験がある。美女と体を重ね、その後朝きぬぎぬに、昨夜までは美女だった化け物の顔を見て、天を仰いだ体験がある。綺麗な奴は大体加工だし、それが麻呂の真実であり、大体、世界の真実でもあった。その真実が、ブレイク! すっぴんなのに美女という、ファンタスティック! 麻呂が腰を抜かすのも無理はない。

 『ノーメイクなだけじゃねぇでおじゃる! 糸も入ってなければシリコンも入ってねぇ、頬やら顎やらを削った痕跡もねぇ、目やら何やらを切開した痕跡もねぇ、すなわち、ガチの無加工なのでおじゃる、葵殿は! トゥルービューティフォーなのでおじゃる、葵殿は! 改めて、惚れた。ぜってー落としてやるでおじゃる、葵殿』

 「OK、麻呂?」葵は目を開けた。「麻呂、OK?」

 「OK牧場でおじゃる」麻呂は立ち上がった。「OK牧場」

 それじゃあレッツゴー、というわけで、三人は部屋を出た。

 さすがは高級マンション、地下駐車場完備である。エレベーターを降りて、少し歩いて、薄明りに映えるクプラ・ボーンが、葵の車だった。

 「イカした屋形やかたでおじゃるな」この日初めて、麻呂は西側のセンスを手放しで称賛した。「して、これを引く牛はどこでおじゃる?」

 「牛はいらねぇんだ」助手席のドアを開けながら、ロナルドが言った。「ガソリンすらいらねぇんだ」

 「おーじゃおじゃおじゃ!」地下駐車場に、おじゃ笑いは強く響いた。「今日はエイプリルフールじゃねぇでおじゃるぞ、ロナルド!」

 「ガソリンすらいらねぇんだ」助手席に座りながら、ロナルドが言った。「牛はいらねぇんだ」

 「くどい!」今笑った麻呂がもう怒る。「ガソリンはまだしも、牛なしで走る車がどこにある! ファンタジーじゃねぇ、リアルでおじゃるぞ、これ!」

 イヤイヤ期の大人子供、そんなデカいモンスターの相手は、苦痛だ。タバコなんて一度も吸ったことがないのに、無性にタバコが吸いたくなって、ロナルドの両手は中毒みたいに震えた。

 「牛をつなぐまで、絶対に乗らねぇでおじゃる!」イヤイヤが加速する。「牛もつないでいない屋形に乗る辱めなんて、死んでも御免でおじゃる!」

 もう、うんざりだった。スペインに帰りたかった。マンサナーレス川のせせらぎが、恋しい・・・・・・。

 「ロナルド!」

 不意に、呼ばれて、ロナルドは地下駐車場の暗がりを見やった。真っ赤なカーディガンを羽織った男が、手を振っている。

 「そんな、まさか、YOUは、マヌエル!?」ロナルドは驚愕した。「YOUが何故に日本に!?」

 真っ赤なカーディガンを羽織った男、マヌエルは、満面の笑顔で、クプラ・ボーンに近付いてきた。

 『いとこのマヌエル! こいつはアンダルシア地方を主戦場とする観光ガイドだぞ! 4月に極東まで来る時間的余裕はない!』

 思って、ロナルドの顔から血の気が引いた。 

 「まさか、マヌエル、お前、死んだのか?」

 過去に何度か霊魂と会ったことのあるロナルドらしい発言だった。アルフレッド・ディ・ステファノ、ヨハン・クライフ、ディエゴ・マラドーナ・・・・・・数多のサッカーレジェンドの霊魂と会うたび、夢のようなサッカー談議に花を咲かせてきた、実体験。

 「死んじゃあ、いないさ」ルーフに手を置いて、マヌエルは言った。「生霊だ、俺は」

 納得できた。サッカーレジェンドの霊魂と会うときは、決まって、良い酔い方が出来た日だったから。そうして、今日は一滴もアルコールを体に入れていない。

 「どうして、お前の生霊がここにいるんだ、マヌエル?」

 「どうしてって、決まってるだろ」カーディガンを肩まで脱いで、マヌエルは力強くサムズアップした。「兄弟も同然のお前を、助けに来たのさ」

 胸が、熱くなった。辛抱たまらず、ロナルドは車を降り、握手を求めた。秒で応えるマヌエル。

 生霊でありながらも、手の甲の剛毛さえはっきりと触感できる握手だった。

 「あのデカいモンスターを車に乗せたいんだろう、ロナルド」親指で麻呂を指し、言う。「俺がアドバイスしてやる。大丈夫、お前も知っての通り、俺はもう十年連続でイヤイヤ期と向き合っている」

 嘘は言っていない。事実、マヌエルは年子を十人、育てていた。

 「ありがてぇ、グランパドレ」

 デカい父、と呼ばれて嫌な気分になる男はいない。マヌエルは、ヴィノ・デ・パゴを口に含んだかのように、上気した。

 「よく聞くんだ、チコ」

 男の子、と呼ばれて良い気分になるノン気はいない。ロナルドは、フィッシュ・アンド・チップスを口に含んだかのように、上気した。

 上気して、しかし生霊に殴りかからない程度の冷静さは維持することが出来て、ロナルドは大人しく、マヌエルの二の句を待った。

 「一休さんだ、チコ」ロナルドの怒りに気付かぬまま、軽快な声で、言った。「イヤイヤ期のモンスターには、トンチだ」

 説明しよう! 一休さんのアニメはスペインで人気があるのだ!

 再びの、力強いサムズアップ。そうして、霧が晴れるように、マヌエルの姿は跡形もなく消え去った。

 「大丈夫、ロナルド?」不安ののぞく顔で、葵が言った。「独り言を言っていたけれど・・・・・・」

 「大丈夫だ、問題ない」妻の不安をあおる夫。「大丈夫だ、問題ない」

 ロナルドは、葵の髪をそっと撫で、それから、ライオンに近付く武井壮さんみたいな足さばきで、麻呂に歩み寄った。

 「なんだこの野郎、でおじゃる!」麻呂がファイティングポーズをとった。「力ずくで乗せようってか!? 上等でおじゃる! やってみろや!」

 人間は共感の生き物だ。敵意を向けられれば敵意を向け返す、これ鉄則。その動物ムーブを抑止するのが、知性である。そうして、知性とはトンチである。

 この時、ロナルドのIQはアインシュタインと同等だった。

 「麻呂。実は、牛はもう車につないであるんだ」脳みそから発せられたかのような声だった。「馬鹿には見えない牛が、つないであるんだ」

 「何を?」麻呂の頬を冷や汗が伝った。「ナニを?」

 「そうだろう、葵」振り向いて、ウインクする。「牛、つないであるだろう」

 オールバックで彫りの深い顔、そこから繰り出されるウインクは、破壊力抜群だった。

 夫が5割増しに見えて、その余りのイケメン振りに、葵は無垢な少女よろしく、扇動された。

 「つないであるね、牛!」躊躇の欠片もない声だった。「すごく大きいの!」

 俺は馬鹿じゃねぇっ! 俺は馬鹿じゃねぇっ!! そういう見栄っ張りなところは、デンマーク人もジャパニーズも同じだ。人類みな兄弟。平安貴族だって、裸の王様さ。

 「ああ、ちょうど暗がりで、見え辛かっただけなのでおじゃるな。確かに、つないであるでおじゃる、牛」人類の必然で、麻呂は言った。「はっきり見えるでおじゃる、牛。良い体してんなぁ。こんな上等な但馬牛たじまうし、天皇だって持ってねぇやでおじゃる」

 こうして、世界一平和な解決がなされた。麻呂は大人しく、後部座席に乗った。

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