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第3話 麻呂の夜明け

 「蛮族の、フルーティーなり、どぶろくは、さりとて恋は、もののあはれでおじゃる・・・・・・字余り」

 風流であった。流石は平安貴族の麻呂、既に缶チューハイも8杯目だが、いささかも酔っていない。これはマナーである。酒がまだ神聖な物だった時代を生きた男の、正しいムーブである。もちろん、平安時代にも度し難い酔っぱらいは居た。屏風にゲロを吐きかける、藤原某みたいなマナーブレイカーはいた。当たり前のように泥酔するパリピも、大量にいた。しかし、そんな悪目立ちする連中に引っ張られてはいけない。酒は飲んでも飲まれなかった者がいる。ほろ酔いで和歌を詠んだ者がいる。アルコールにラブロマンスを絡めた者がいる。それが真の平安貴族、正に麻呂であった。

 流し目で、葵を視姦する、麻呂。いつの間にか靴下を脱いでいる、大分蒸れた足裏に、唇が渇く。視線は、脚をなぞり、背骨のラインをなぞり、うなじに到達する。振り向いてくれでおじゃる、と強く念じる。しかし、その念が通じることはなかった。

 まるで昭和の妻であるかのように、指示されるまでもなく夫の空いたグラスに酒を注いでやる、葵。夢中なのだ、好きな男に尽くすことに。昨日までとは違う、生き生きしている夫に首ったけなのだ。リアリティのない目標であっても、目標は目標。サッカーの代理人になる、というロベルトを、葵は全身全霊をかけて支える覚悟を決めていた。そんな献身が、甘美で仕方ない、ある種のプレイ。それは女の悪癖であった。

 客人である麻呂には缶チューハイを与え、愛する夫には洒落たボトルに入ったウォッカを与えてやる、女の残酷さ。現代の酒の格差など知らない麻呂ではあるが、この扱いの差に気が付くだけの恋愛経験は有している。故に、燃え上がる。落としがいがあるでおじゃる、と奮い立つ。コスパとタイパが重視される現代の恋愛、その対極、逆境から始める恋愛。平安貴族のメンタルは、現代人の常識を逸脱していた。

 「ちょっと熱くなってきたでおじゃるなぁ。烏帽子、脱いじゃおうかなぁ」

 俺のマブダチ10万フォロワー越えのインフルエンサー、的な引きの強さを有する声音だった。これに抗える人間はそうそういない。現に葵は、麻呂の存在を思い出し、烏帽子に注目した。

 麻呂は、ほくそ笑んだ。注目を集めたらこっちのもの、という経験に裏付けされた自信。そう、ここから繰り広げられるネタこそ、鉄板。

 「烏帽子、脱いじゃおう。うんしょ、うんしょ。おや、脱げないでおじゃる。そうだ、思い出したでおじゃる! これ、烏帽子じゃなくて、地毛でおじゃった!」

 「嘘でしょ!?」少し酔っているのもあって、葵は過剰に食いついた。「地毛なんて絶対嘘! だって、どう見たって烏帽子だもん!」

 「触ってみろ、でおじゃる」勝利を確信していた。「葵殿だけ、特別でおじゃる」

 そうして、ホイホイさわって、その感触に、葵は驚愕した。

 「本当に、毛!」本当に、毛、であった。「信じられない!」

 警戒も遠慮もなくなって、わしゃわしゃする。犬にするみたいに、わしゃわしゃする。それでさえ微塵も崩れない、麻呂のヘアースタイル。

 「おじゃぁ、お、おじゃぁ」毛髪に神経が通っているかのように、麻呂は嬌声を零した。「おふ、お、おふじゃぁ」

 「ねぇ、どういうこと!? 麻呂、この髪、どういうこと!?」

 「烏帽子カットでおじゃる」決め台詞だった。「烏帽子の着脱が不必要になるよう、毎朝二時間かけてセットしているのでおじゃるよ」

 決め顔も相まって、笑いのツボに入る。葵は、吹き出して、後はもう狂ったように笑った。

 過去、数多の平安娘たちを笑い死に寸前まで追い込んだ、身体的特徴をネタとした自虐。二時間のセットなんて、嘘なのだ。母親の腹を飛び出したときから、麻呂の毛髪は烏帽子カットだったのだ。幼少のころは、それをイジられては涙してきた。そんなトラウマを、女との距離を縮める武器に変えた、不屈の精神。武士以上に、麻呂はタフだった。

 「面白すぎるよ、麻呂」涙をぬぐいながら、葵は言った。「最近のコスプレイヤーって、こんなに体を張っているんだね」

 「麻呂の麻呂が被る烏帽子も、触ってみるでおじゃるか? 帳台に身を寄せ合って、後朝に向かいながら・・・・・」

 言ってから、青ざめた。先走ったことを自覚したのだ。葵の笑顔がどストライク過ぎたが故の、下ネタ、からのインバイトセックス。これは童貞が如きミスである。性のスパイスは、際の際、ベッドイン寸前でまぶすもの。それも、男からまぶすのではない、女にまぶさせるのだ。何故って? 女にとってペニスほど恐ろしいものはないからだ。男子よ、イマジンしてほしい。あなたの尻穴を狙うペニスを、イマジンしてほしい・・・・・・はい、それ! その恐怖心が、女が我々に抱いている感情です。だからこそ我々は、ペニスを伝家の宝刀として扱わなければならないのだ。それが出来ないのであれば、潔くキンタマを取るしかない。あるいは、ぬいぐるみの一生を受け入れるか。それが平安時代より伝わる男の道、すなわちジェントルマンロードである。

 ジェントルマンの道から外れてしまった、その事実が、麻呂に与えた衝撃は計り知れない。過去、自ら性のスパイスをまぶした際の勝率は、0割0分0厘、すなわち、0である。麻呂は、知っていた。自分がイケメンではないことを知っていた。麻呂は自分を客観的に見れるのだ。故に、女が自ら帳台という名の墓穴に入るまでは、ぬいぐるみに徹しなければならないことを、理解していた。このぬいぐるみペニス生えてるじゃん! というショッキングは事後でなければならないことを、理解していた。それが、非イケメンの恋愛における唯一の勝ち筋だと、理解していた。

 『もうダメだ、おしまいだぁ、でおじゃる・・・・・・』

 ぬいぐるみのペニスに気が付いた女がどれだけ残酷になるかは、経験上、知り得ている。この恋の脈は絶たれた、そう確信すれば、心だけでなく体まで、四つん這いになってしまう麻呂だった。

 「嘘! もう23時まわってるじゃん!」言って、葵は勢いよく立ち上がった。「明日も朝から部活で学校! ロナルド、麻呂、私、シャワー浴びて寝ちゃうね!」

 まるでペニスなんか存在しなかったみたいに、葵はリビングから出て行った。シャワー浴びて寝ちゃうね! というフレーズに駆け引きの色が微塵もなかったことが、ぬいペニ発覚の残酷すら上回る残酷を物語る。つまるところ、葵にとって麻呂のペニスは、ペニスはペニスでもペニスではなかったのだ。何を言っているのか分からねぇって? 俺もだ。作者の俺自身ですら何を言っているのか分からねぇ。何を言っているのか分からねぇが、諦めんなよの精神で、無理くり例えてみよう・・・・・・そう、浴場で見る母親に連れられた男児の無害なゾウさん、それを湯船から空虚な目で見やる女の心持ち、それがそのまま葵の心持ちなのだ! ぬいぐるみからペニスが生えれば、それは嫌悪する。大らかな葵といえど例外ではない。しかし、ぬいぐるみから生えたのが無害なゾウさんであれば、それは許容できる。だって、無害じゃないか。ペニスはペニスでもペニスではなかったのだ、と思い付きで書いた数分前の俺は、正しかった。正しく、ペニスはペニスでも無害なゾウさんだったのだ。

 雄としての、全否定。葵から麻呂へ、究極の無関心。恋の脈もクソもねぇ、そもそも動脈が存在していなかったという、レ・ミゼラブル。普通の雄であれば100パーセント、女を愛せなくなるシチュエーション。しかし麻呂は、麻呂の麻呂は、そり立っていた。

 『麻呂を雄と認識しない、その高嶺の花スタイル、プライスレスでおじゃる、葵殿。そなたは必ず、この麻呂が落としてみせる』

 島本和彦先生もびっくりの、逆境でこそ燃え上がるメンタリティ。これは現代の恋愛観に巨岩を投じるラブストーリーである。

 洒落たボトルに入ったウォッカをひったくり、一息に飲み干す。残っていた300ミリリットルを一息だ。それでも、酔わない、ふらつかない。葵を落とす、その決意が、麻呂の心身を強く支えていた。

 不意に、身震いする。酔うことはない、しかし、尿意は催す。平安貴族だって人間なのだ。

 「ロナルド、樋箱を持ってこいでおじゃる」

 「ひばこ、でございますか? そんな物は、ございません」

 「樋箱がない!? それじゃあ、辺り一面糞尿だらけになってしまうではないかでおじゃろうが! 中世ヨーロッパかよ!」

 「おトイレ、でございますか、麻呂様?」

 「樋箱を要求して、他に何があるでおじゃるか!? 麻呂にスカトロの趣味はねぇでおじゃるぞ!」

 「おトイレでございましたら、おトイレで済まされたらよいかと存じます」

 「貴様ら庶民の言うおトイレとは、野外のことでおじゃろうが! くのぅ、ロナルドがぁ! この高貴な麻呂に野糞をしろなどと、よくぞ言えたものでおじゃるな!」

 疲れ果てていた。イカれた男の相手に、疲れ果てていた。それでも、大事な金脈、常軌を逸したフットボールテクニックを有する麻呂を邪険にはできない。ロナルドは、力を振り絞り、「室内でございます、案内いたします」と口にして、立ち上がった。

 連れ立ってトイレに向かう男が二人、これがほんとの連れションである。

 トイレは、リビングを出て玄関に向かったところにあった。

 「こちらで用をお足しください」トイレのドアを開けながら、言う。「麻呂様」

 「たばかるか、ロナルド!」麻呂は怒鳴った。「穴の開いた椅子があるだけでおじゃろうが!」

 「これに座って用を足すのです」血管が切れそうになりながら、言う。「麻呂様」

 「たばかるか、ロナルド!」更に怒鳴る。「水が張ってあるでおじゃろうが! こんなところに糞を落としたら、はねた水で尻が濡れてしまうでおじゃろうが!」

 「大丈夫です、滅多に濡れません」自身の腿をつねりながら、言う。「麻呂様」

 「そもそも、どうやって座るのでおじゃるか、これは」トイレをべたべた触りながら。「ロナルド、実演してみろでおじゃる」

 「実演・・・・・・」耳を疑う。「トイレの実演をしろと? 麻呂様が見ている前で?」

 「麻呂がしろと言ったらしろでおじゃる!」

 ロナルドだって元プロサッカー選手だ、無茶を要求されることには慣れている。エースを抑えろ、エースを潰せ、エースを壊せ・・・・・・イカれたサポーターから散々、無茶を要求されてきた。その全てに、殺人スライディングで応えた過去がある。どんな無茶も通す様から、マドリードの狂った牡牛、の異名を取ったロナルド。そんな彼でさえ、怯む。敬虔なキリスト教徒というわけではない、それでも、性癖は至ってノーマルだ。野郎の目の前でトイレの実演、それを喜んで行うメンタリティは持ち合わせていない。しかし、しかしなのだ。しかし、麻呂に背くことはできない。サッカーへの復讐、その実現は麻呂なくしては果たせないから。それじゃあ、やるしかねぇ。

 ロナルドは、徐に、下半身を露わにした。

 「何をしているでおじゃる、ロナルド!?」麻呂、驚愕。「ナニを!?」

 「ナニって、麻呂様が要求するから・・・・・・」悔しいけど、頬が染まっちゃう。「トイレの実演を」

 「座り方だけでおじゃる! 麻呂が要求したのは、座り方のレクチャーだけでおじゃる!」流されない麻呂だった。「そのデカいモンスターを早く仕舞うでおじゃる! イヤミか貴様ッッ」

 ロナルドは、デカいモンスターをゆっくりと仕舞った。それから、麻呂の要求通り、トイレに座ってみせた。

 「こうです」暖房便座にポリエステルを温められながら。「こう座ります」

 「考える人スタイルでおじゃるか。それならそうと口頭で説明しろでおじゃる、この無教養が。ほれ、さっさと立て、ロナルド。見苦しい」

 『こいつ、マジで、ぶん殴りてぇ!』

 そう強く思っても、殴れねぇ、殴る訳にはいかねぇ。利害関係とは正しく人間を縛る鎖である。個人レベルから国家レベルに至るまで、人間はこの鎖によって地獄を味わうのだ。

 麻呂の顔面を殴る代わりに、ロナルドは自身の腿を殴った。

 「それでは、ごゆっくりどうぞ」飲食店の店員が作る類の笑顔で、ロナルドは言った。「ドアを閉めさせていただきますね」

 「ドアは開けておけでおじゃる」

 麻呂は実に素早く、器用だった。下襲の裾を自身の烏帽子カットに引っ掛け、ズボンとトランクスを一緒に脱ぐ要領で表袴と下袴と小袖を脱いでいる。そんな状態でトイレに座っているのだから、後は出すものを出すだけだ。

 「ドアは閉めるものでございます」ロナルドの笑顔が引きつった。「トイレをする際には、閉めるのがマナーでございます」

 「開放感を下腹部に得られなければ、出るものも出ねぇでおじゃる!」麻呂、激怒。「こんな狭苦しい空間で、挙句の果てに密室にまでしようものなら、出るものも出ねぇでおじゃる!」

 うんざりだった。育児ノイローゼみたいなものだ。モンスターに道理を説いても疲弊するだけ。それでも、自分の血を分けたモンスターが相手であれば、恥ずかしくない人生を歩めるよう根気よく接することが出来るだろう。けれど、自分とは縁もゆかりもないモンスターに、しかも未成年ですらない成年に、命を削るレベルの労力を注ぐことは、並大抵の人間に出来ることではない。言うまでもなく、ロナルドは並大抵の人間だ。だから、彼が匙を投げたことを、誰に責めることが出来ようか。

 開け放たれたままのトイレを背にして、ロナルドは歩き出した。ぶりぶり、という不快な音が聞こえて、彼は耳をふさぎ、リビングへと急いだ。

 ソファに、身を投げる。

 「まともじゃねぇ」ロナルドは呟いた。「思った以上にまともじゃねぇ。幼馴染のアントニオ以上だ。怪我でサッカーの道を絶たれて以降、ヤクに溺れたアントニオ、奴がガンギマリしているとき以上に、まともじゃねぇ、麻呂の野郎は。ちくしょう、不安がデカくなってきやがった。麻呂の野郎のボールコントロール技術は、本物だ。全盛期のメッシ以上、これは確実だ。しかし、サッカーはコミュニケーションのスポーツだ。どれだけ優れた技術を有していても、協調性に大きな欠陥を有していれば、ピッチに居場所はねぇ」

 アルコールが必要だった。ローテーブルに目を向けて、舌打ちをして、ロナルドは立ち上がり、ダイニングへ行った。そうして、バーボンのボトルを掴み、リビングに戻る。

 ボトルを開けて、ラッパ飲みをして、再び横になった。

 「落ち着け、落ち着け、ロナルド。明日、全てがはっきりするんだ。日本の高校サッカー、その全国レベルに混じって麻呂がどうなるのか、明日にははっきりするんだ。仮に、麻呂が使い物にならなかったとしても、痛手はねぇ。麻呂の野郎とさよならすれば良いだけの話だから、痛手はねぇ。むしろ、せいせいする。そうさ、こいつは何もないところから始まった話なんだ。野望があっさり潰えたとして、明後日には全てを忘れているような、儚い夢みたいな話なんだ。麻呂が使い物にならなかったとしても、俺はまた、葵の金で、飲んだくれるだけの話なんだ。何も不安になる必要はねぇ・・・・・・」

 上体を起こす。ラッパ飲みをする。ボトルをぶん投げたくなって、辛うじて堪えて、ロナルドは頭を抱えた。

 延々と続く、不安。広い額が、また少しだけ広くなった。

 「長いな、麻呂の野郎」孤独な思考に耐えかねて、ロナルドは言った。「十分以上たってるぞ」

 億劫で、しかしこれ以上一人で悶々としていれば狂ってしまうことを本能で理解していたから、ロナルドは立ち上がり、リビングを出た。

 廊下に出て、すぐ、異常に気が付いた。トイレの隣、洗面所のドアが開いている。洗面所は、バスルームに繋がるアンタッチャブルだ。そうして、葵はまだシャワーを浴びている・・・・・・。

 手洗いのために洗面所を使っているだけさ、と考えてみたけれど、トイレには独立した手洗い器があるわけだから、そんな希望的観測は無意味だと、すぐに考えを改めた。

 嫌な推測、それを覚悟に変えて、ロナルドは足音を忍ばせながら、洗面所に近付いた。

 メタルギアみたいにして、洗面所を覗く。そうして、ロナルドは気が遠くなった。

 そこに、麻呂がいた。バスルームの中折れドアを少しだけ開けて、シャワーを浴びる葵を覗く、麻呂がいた。

 「何をしているのですか、麻呂様」自分で怖くなるくらい、冷静な声が出た。「ナニを」

 「ナニって、垣間見に決まっているでおじゃろうが。他に何があるというのでおじゃる?」

 どれほど強心臓だって、人妻のシャワーを覗く現場をその夫に押さえられたなら、狼狽える。それが人間というものだ。しかしながら、麻呂の心拍数は平常通り、数字にすら動揺が皆無。心がないのですか? 違う、そうじゃない。垣間見なのである。平安貴族の文化なのである。麻呂を擁護するために言っているのではない。事実として、麻呂の行為は垣間見なのである。惚れた女を覗き見ること、それは平安貴族にとって恋の登竜門。悪意はない。下心もない。出会って、自己紹介を済ませるが如きナチュラルで、覗くのだ、女を。くどいようだが、これは文化である。麻呂の行為に憤りを覚えるのであれば、それはカルチャーショックに対する憤りに等しい。あなたは、異文化を許容できますか?

 「かいまみ、だか何だか知らねぇが、麻呂、てめぇ、今すぐ覗きをやめてこっちに来い」ロナルドは、異文化を許容しなかったようです。「葵に気持ち悪い思いをさせたくねぇ、バレねぇように静かに来い」

 「無理でおじゃる。今、いいところでおじゃるからして」己の文化を曲げない麻呂であった。「おじゃウホ。あんなところに、あんな角度で、湯をあてるでおじゃるか。可憐な容姿に似合わず、大胆でおじゃるな、葵殿」

 「お前を殺す」デデン、であった。「3秒以内に来い。でなきゃ、麻呂、お前を殺す」

 ガチの殺意だと理解できた。それじゃあ文化もクソもねぇ。生殖の本能を上回る生存の本能で、麻呂は素早く洗面所を出た。

 「リビングに行くぞ、麻呂」

 「てめぇ、ロナルドぉ。二度も平安貴族を言いなりに出来ると思うなよでおじゃるぅ」

 「お前を殺す」

 デデン、であった。それじゃあ平安貴族もクソもねぇ、であった。

 リビングにて、向かい合う。ローテーブルを挟んで、向かい合う。床にあぐらをかく麻呂に対して、ソファに座るロナルド。力関係が逆転したかのように、頭が高い。

 「人という字は・・・・・・」スペイン生まれスペイン育ちのロナルドが、ジャパンの古典を説く。「法治国家に則って、できているんだな」

 「麻呂は金八世代じゃねぇでおじゃる。麻呂の恩師はデューイでおじゃる。武田鉄矢よりジャック・ブラックでおじゃる」中学生よりも反抗的な態度。「麻呂には響かねぇんだよ、でおじゃる」

 悲しい現実であった。ジャパンの教育は、平安時代に既に、敗北していたのだ。

 「覗という字は・・・・・・」それでも折れないロナルドであった。「懲役もしくは罰金で、できているんだな」

 「通報してみろやでおじゃる」麻呂はエア煙草をふかした。「サツなんか怖くねぇんだよでおじゃる」

 そうして、ロナルドがスマホを取り出すや否や、土下座する麻呂であった。

 「すいませんでおじゃる! イキってみただけでおじゃる! 警察は勘弁してください!」

 「分かったな、麻呂」スマホを振りながら。「覗きって、犯罪なんだからな」

 「覗きじゃねぇっ! 覗きじゃねぇっ!!」切実であった。「言ったでおじゃろう! 垣間見だって!」

 「その、かいまみ、ってやつは、一体全体、何なんだ?」弁明のジーフィーを与える、現代司法のスタイル。「説明してみろ。内容によっては、情状酌量の余地ありだ」

 麻呂は、正座して、これ以上ないってくらい清潔な面持ちを作った。

 「垣間見とは、無防備な女性のプライベートを視姦し、想像の翼を広げてスカイアウェイする、孤独な愛のラプソディーでおじゃる」

 「ただの覗きじゃねぇか!」情状酌量の余地はなかった。「ただの犯罪じゃねぇか!」

 「平安京では合法でおじゃる!」

 「ここは平安京じゃねぇ! ここはジャパン! 政治家やら何やらに法を踏みにじられてはいるが、一応、法治国家だ!」

 「アメリカにおけるマリファナみたいなものでおじゃる!」麻呂はロナルドの足下にスカイアウェイした。「コロラドからカンザスに移動したみたいなものでおじゃる! 合法と非合法が入り混じるカオスに、麻呂は飲み込まれただけなのでおじゃる! 麻呂は被害者みたいなものでおじゃる!」

 「ふてぇ野郎だ! 自らを被害者などと!」

 「お慈悲をでおじゃる! これからは郷に入っては郷に従えに従うでおじゃる! 平安京に帰るまで、垣間見は封印するでおじゃる! だから、お助けください!」

 怒りのピーク6秒ルール、その理論で言うなら、既に怒りのピークは過去のものだ。そうして現に、ロナルドは冷静さを取り戻していた。

 『麻呂の野郎をサツに突き出すなら、明日、麻呂の野郎が使い物にならなかったときでいい』

 打算、それは冷静の産物。ロナルドは、スマホをポケットに仕舞った。

 「誓うな、麻呂? 二度と犯罪に手を染めないと、誓うな?」

 「父の名に、左ウイング大臣権上中田英麻呂の名にかけて、誓うでおじゃる」

 こうして、大岡越前もびっくりのお裁きは成ったのであった。

 レースカーテンから覗く闇夜が深まった。日付が変わっていた。

 「それじゃあ、私、寝ちゃうね」

 シャワー上がりの葵が、リビングに姿を見せて、言った。火照った体をタンクトップとショートパンツのみで覆う、淫らスタイルだ。麻呂を雄として認識していないとはいえ、無防備が過ぎる。

 麻呂の目に、獣の光が宿った。

 「おやすみ、麻呂、ロナルド」

 「おやすみ」

 「いい夢みろよでおじゃる、葵殿」

 葵は手を振り、リビングから出て行った。

 ロナルドは、バーボンのボトルを掴み、グラスに少し注いで、それを飲み干した。

 「風呂はどうする?」麻呂に向かって、言った。「入るか?」

 「イカれているのか、でおじゃる」ロナルドに向かって、言った。「FC藤原との試合に際して、禊を済ませたばかりでおじゃるぞ、麻呂は。ましてや、占いの結果、次の風呂は三日後と決まっている。そんな麻呂に風呂を勧めるとは、イカれているのか、でおじゃる」

 これ以上、イライラする気はなかった。ロナルドはもう一杯だけ飲んで、「俺も寝るぜ。お前もさっさとソファで寝ちまいな」と言い、寝室に向かった。

 麻呂は、残ったバーボンをラッパ飲みで飲み干し、それから、唇をゆっくりと舐めた。

 寝室に入って、ロナルドはすぐ、葵の寝息を耳にした。疲れているのだ、と理解する。ジャパンでフルタイム労働しているんだから当然だ、と自己嫌悪する。まだ擦り切れていない、幼さの残り香が辛うじて存在する、寝顔。それは余計に、ロナルドの心を苛んだ。

 『こんな若い娘に寄生しているんだ、俺は・・・・・・』

 葵に対して、ロナルドは男女の愛情を抱いていなかった。その欠落を自覚するたび、俺は心の壊れたマシーンなんだ、と自分に言い聞かせ、その度に、死にてぇ、と零してきた。

 男女の愛情は抱いていない、しかし、家族の愛情は抱いている・・・・・・その事実は、先ほど、明確になったばかり。葵の裸が麻呂に見られた、それを知った瞬間、ロナルドを突き動かしたものは、父性。父性という名の、責任感、あるいは庇護欲。

 父性があるからこそ、自分は苦しんできたのだと、悟る。俺は守られたいんじゃない、守りたいんだ。そこまで思いが至ったからこそ、覚悟は強まる。代理人に俺はなる・・・・・・父性を知り、それでもなお、男は少年であった。

 「すまなかったな、葵」

 そっと、頬にキスをしてやる。言わずもがな、そこに性はない。

 ロナルドは、葵に背中を向け、目を閉じた。

 酒は睡眠薬ではない。中年の寝つきの悪さで、ロナルドはひたすら、まぶたの裏を見続けた。

 ようやく、眠りの入り口に片足を突っ込んだ、刹那に、ベッドの軋みを感じる。男女の愛は抱いていない、それでいてダブルベッドを共有する恥知らず、故に、覚醒を余儀なくされる。

 過去、葵に求められたことは何度もあった。その度に、素早く射精を済ませてきた。前戯なんてしてやったことはない。それでも、葵が懲りることはなく、むしろ素っ気なさに燃え上がる変態性を発揮して、ロナルドのロナルドを飲み込むごとに、嬌声は増していた。そんな女の健気に、男は辟易するのみ。ロナルドも例外ではなく、業務用と化した己の己を露わにして、葵に体の正面を向けた、その顔は、女よりもマグロだった。

 女よりもマグロな顔、それが、ベッド上で四つん這いになっている人影を見つけて、瞬く間に人間の相へ返った。

 葵の寝息に、人影の荒い呼吸が重なる。四つん這いが作るデンジャラススペースに、葵の体は仰向けで横たわっている。掛け布団は既に取り払われていて、葵はつま先まで露わ。暖かい夜だった。

 入り込んだ月光が、人影の顔を照らした。恐ろしいまでの色白、麻呂であった。

 麻呂は、その上気した顔を、葵の顔に近付けた。接吻を狙っていることは、明白だった。

 「何をしている、麻呂」意図せず、悲しみに満ちた声が出た。「ナニを」

 「ナニって、ナニでおじゃろうが。夜這いでおじゃる」

 人妻の寝込みを襲う現場を旦那に目撃されるというシチュエーション。これは、肛門にマスタードを塗りたくられるが如きショッキングである。生粋のサイコパスだって悲鳴を上げてしまうが必定。しかし、麻呂、動揺しない。動揺しないばかりか、麻呂の麻呂は増々麻呂になっている。正しく獣であった。

 「人間じゃねぇ」正しく獣であった。「麻呂、お前は人間じゃねぇ」

 「おーじゃおじゃおじゃ」麻呂は、笑った。「現人神の臣下たる平安貴族は神に等しい。ロナルド、お主、今日初めてまともな事を言ったでおじゃるな。褒めてやるでおじゃる」

 ヴォルデモートみたいなものだ、とロナルドは思った。この世にはどうしてやることもできない人間がいる。それが麻呂なのだ、とロナルドは思った。

 「葵にトラウマを植え付けたくない」その声は嘆きだった。「彼女が寝ているうちに、どいてくれ」

 「夜はこれからでおじゃる」嘆きなんて届かない。「麻呂の麻呂は既にビーストモードでおじゃる」

 「獣を殺す」デデン、であった。「3秒以内にどいてくれ。でなきゃ、麻呂、獣を殺す」

 タマを取られるよりヤバいと理解できた。タマよりも重いタマを守るため、麻呂は素早くベッドを降りた。

 「リビングに行こう、麻呂。獣を殺す」

 デデン、であった。無抵抗で、麻呂はロナルドに従った。

 リビングにて、向かい合い、ロナルドは開口一番、「警察に通報します」と言った。ゾッとするほど丁寧語だった。

 「警察は勘弁してください!」

 麻呂はロナルドの足下にスカイアウェイした。その醜さに辟易しながら、ロナルドはスマホを取り出した。

 「夜這いしただけじゃないかでおじゃる! なんでそれで御用になるのかでおじゃる! しかも、未遂でおじゃるぞ! 慈悲はないのですか!? お助けください!」

 哀れみが、生じた。余りの愚かさに、生じた、哀れみが。ダンブルドアがいてくれたなら、迷わず、どうしてやることもできん、と諭してくれるであろう。しかし、ここはジャパン、ダンブルドアはいない。けれど、ジャパンには夏目漱石がいるではないか。情に棹させば流される、そう諭してくれる夏目漱石がいるではないか。しかし、ロナルドは未読だ、草枕。こころは読んだ、読んで泣いた。スペイン生まれのスペイン育ちながら、その辺のジャパニーズピーポーより余程ジャパニーズピーポーだ、ロナルドは。けれど、未読だロナルドは、草枕。

 ロナルドは、スマホを仕舞った。それが過ちだと理解しながら。

 ほくそ笑んだ麻呂の顔を、ロナルドは見逃した。

 「平安京じゃあ、合法なのかい、夜這い?」情が、異文化コミュニケーションの懸け橋となった。「教えてくれ」

 「夜這いは、雅でおじゃる」言葉を濁しつつも、麻呂はロナルドの目を真っすぐに見詰めた。「夜這いは、文化でおじゃる」

 「ジャパンじゃ犯罪だ」

 「なんて国だ!」麻呂は憤った。「垣間見もダメ、夜這いもダメ! これでどうやって男女は結ばれるのでおじゃる!? 少子社会になっちゃうよぉ!」

 「大丈夫だ、もうなってる」

 秒で論破され、麻呂は委縮した。

 ロナルドは、キッチンへ行き、冷蔵庫から缶チューハイを取り出して、それを飲んだ。飲まなきゃやってられなかった。

 「一方的な性交渉は、女性を深く傷付ける行為だ」リビングに戻って、言う。「俺個人の見解だが、極刑に値する」

 個人レベルの死刑宣告は、さすがの麻呂でも応えた。

 「約束するでおじゃる」声に誠意が宿った。「もう二度と、同意のないセックスはしないでおじゃる」

 平安貴族が人の道を歩み始める、その第一歩であった。それは、アームストロング船長の一歩より大きな一歩だった。

 「数時間後には、サッカーだ」缶チューハイを飲み干して、ロナルドは言った。「もう寝てくれ、麻呂」

 「OKでおじゃる」素直な麻呂だった。「OK牧場」

 麻呂をリビングに残して、寝室に入って、葵の横に身を横たえて、そうして、眠れるわけがなかった。いつ何時、麻呂が再び夜這いをかけてくるか分からない以上、眠れるわけがなかった。麻呂に対する信用? そんなものはない! それなら、信頼は? そんなものはもっとない! 去勢でもしない限り性犯罪の再発を防ぐ術はない、というのがロナルドの持論だった。

 結局、この夜、ロナルドは一睡もできなかった。事実上の寝ずの番であった。一方の麻呂はというと、ソファでぐっすり眠っていた。現代のソファは、平安時代の帳台より遥かに優れた寝具だった。

 そうして、夜が明ける・・・・・・。

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